三河の鎌倉街道
尾張の国から境川を越えると三河の国となる。驚いたことに三河では,江戸時代末頃から鎌倉
街道に関心を抱き、現地(尾崎村から古鳴海)に赴き聞き取りを行い下の絵図面(原本は彩色)
と記録を書いた刈谷藩士<浜田与四郎>を知った。刈谷市史によると「容儀方正端厳藩主も
亦是を畏憚せり」(碧海郡誌)といわれ、文人としてもその才を発揮していた人物である。資料
は現在、東境町児山の泉正寺に伝えられる。
その後、「碧海郡誌」(大正5年碧海郡教育委員会)、「三河国における鎌倉街道」(昭和11年
加藤巌)と鎌倉街道への関心が続いている。
<下記絵図は、新編安城市史からの転載>
 
 


 刈谷市の鎌倉街道
 
 西境町及び東境町の詳細図<刈谷市設置案内版>
 
     
鎌倉街道西境跡碑 <刈谷市西境町>
永福寺の北約3百メートルの境川堤防中腹にある碑。市
外の人間では、発見することが不可能であるが、永福寺
のご住職から「地元の鎌倉街道ファン」が建設した碑があ
ると教えていただいて、確認できました


  西境跡碑から見た尾張国 <刈谷市西境町>
左の写真の碑があり堤防から豊明市を望んだ写真。前方
の建物は豊明市立沓掛中学校である。豊明市域の街道の
ページでは、約4百メートル川下に大久手八幡社があり、
若干の違和感を感じる。鎌倉街道の前身の古代東海道の
街道遺構と想定するとスッキリするが、愛知では検証され
ていなく、ヤマ勘の範囲である
 
     
酒井神社<刈谷市西境町>
祭神は豊宇賀能売神(とようがのみのかみ)、誉田別命
(ほむだのわけみこと)である。神社の北側を通鎌倉街道
は境川を渡って尾張の国の大久手(現豊明市)に通じて
いた。徳川家重臣の「酒井氏」発祥の地とも言い伝えが
あるが定かではない。・・・市設置の説明版(写真左隅に
一部映っている)から引用
  大宝山永福寺<刈谷市西境町>
文亀二年(1502)創建とされる曹洞宗の寺院。初めは長
福寺と呼ばれていたが、江戸時代中頃、現在の名称に変
更された。鎌倉街道遺構沿いにある。
・・・市設置の説明版から引用


     
万蔵坊の碑<永福寺境内>
元禄時代、、西境町交差点付近の堂守の万蔵坊(山伏)
の加持祈祷はすこぶり霊験あり、村人の病や悩みごと万
般を退散せじめ、村人から万蔵様と親しまれたそうである
。ある時、死期を悟った万蔵坊は棺の中に座し、地中に
埋めさせ竹の筒で呼吸しながら臨終を待った。村人は塚
を作り街道筋に一株の松を植え、樹齢2百年余、鎌倉街
道の一点景として後の世まで語り継がれた。その碑は、
今は永福寺境内に移されている
  カフェ・喫茶「ラ・ヴィッジ」
<刈谷市西境町>
 ?0566-36-8887
県道岡崎豊明線西境交差点近くの喫茶・レストランのお店
。約8年前に当地区を初めて探索に訪れた時、祖母神社
の場所が分からなくご主人に近くまでご案内していただき
ました。平成27年11月3日、久しぶりにお店に行きました
ら、沢山のお客さんでお忙しい中、改めてお礼を述べ小誌
「鎌倉街道」をお渡しすることができました
 
     
祖母神社遠景<刈谷市西境町>
西から見た神社の遠景。東は民家に遮られ、三方を
農地で囲まれた地理。東の県道からはカーブした箇所か
らの進入のためご注意ください
西からは幹線道路を二
回程曲がるので地図等で確認する必要あり

  祖母神社<刈谷市西境町>
神社由緒によると、久安三年(1147)伊邪那美命を鎮祭
し、氏神として祖母大明神として崇敬される。鎌倉時代には
集落の中にあったが、大池(鴨の池)の治水工事不完全に
て多発する水害のため村人は南部の高台に移転し、地名
の町屋のみ歴史を残している。
 
     
鎌倉街道伝承地碑 <祖母神社境内>
本殿の左手に写真の伝承地碑と左に少し見えている
「鎌倉街道の由来」記が設置されている。古くて文字が読
めなかったが、豊田市在住の渡邉健二さんの著作「名残
の道」によると昭和36年(1961)、有志「鎌倉街道保存
会」が右写真の古道跡に木製の案内板、道標を設置して
おり、これを契機に昭和46年に石碑が建立されたという
  鎌倉街道遺構<刈谷市西境町>
祖母神社境内の西側にわずかに残る街道遺構。北から
南を望んだ写真。右(西)の道路に比べ微高となっている。





 
     
(ちご)塚<刈谷市東境町>
刈谷市史に、徳川氏の始祖親氏(ちかうじ)に因む伝承を
紹介している。
室町時代末、東国から逃れてきた時宗の遊行僧長阿弥
(有親)・徳阿弥(親氏)父子は、地元の豪族酒井氏のも
とに身を寄せた。有親の死後、酒井氏の娘婿に迎えら
れて親氏は、家督を譲られた上に一子をもうけた。しか
し、その後親氏はわけあって松平氏の養子となり、松平
村へ移ったため、親氏とその子の永別の形見として「児
塚」を築いたという
  児塚周辺<刈谷市東境町>
児塚は変則交差点の近傍にある。左の道が豊田信用金庫
南の境町交差点からの道で正面の曲がっている道が街道
遺構である。正面の木の下に地蔵堂があり、奥に森永乳
業と書かれた白い建物の道側に小さな植え込みがあり、そ
の中に塚がある。街道は、手前に進み、バイク置き場、そ
して竜ヶ池と続き、豊田市に入る
 


     
竜ヶ根池<刈谷市東境町>
堤長120mの農業用溜池と概要が記されている。近傍に
児塚があり、児池があったとされている。元は児池であっ
た場所を活用したと思われる



  鎌倉街道伝承地碑 <刈谷市一里山町>
兜x士塗料工業所敷地を分断している街道遺構。会社の
方針で、使い勝手が悪いことを承知で付け替えしないで残
された歴史資産である。鎌倉街道を探索する人必見の場
所である。西から東を臨んでおり、右(南)が刈谷市、左
(北)が豊田市中田町である



 豊田市の鎌倉街道
     
豊田市の西の入り口<豊田市中田町西山>
富士塗料工業所の間を通り抜けた場所である。鎌倉街
道は右の正面の道である。左手に平成24年設置の「街
道と地域の成り立ちの概要」が書かれた案内板が見える




  鎌倉街道と中田の碑<豊田市中田町西山>
高岡町史に土御門天皇の時代(鎌倉時代)、鎌倉街道に
御天下(オテレン)茶屋があったが、その分家が西の池の
水で農業を始めたのが中田の始まりで、次いで中田七軒
百姓が起こった。これが中田の創業にあたった人々であ
  出典:「千年の道・尾参国境はいま」(豊田市在住・渡邉健二氏著)
御天下(オテレン)茶屋は、富士塗料工業所西側の塩付
街道付近、又は中田集落の中(中田八幡社付近)にあっ
たとされる

     
中田八幡社<豊田市中田町神池>
鳥居の横に設置されている社伝では
正治元年(1199)、京の武士・清原某が
鎌倉幕府に仕えん
と鎌倉街道沿いの当地に来たる時、頼朝の急死を聞い
た。痛歎(つうたん=嘆き・悲しむ)し、弓矢を捨て、当地
に留まる。崇敬する八幡宮を勧請し、農業を営むと人が
集まり、中田村の始まりとなる。以下、略。
  中田神明社<豊田市中田町>
皇紀2600年を記念し、天然自然の恵みと氏子の安息
並びに出征兵士の安康守り神として、駒場神明社から天
照大神を勧請、分社として昭和16年11月18日造営さ
れた
・・・境内の由緒より引用 

     
逢妻川女川<豊田市中田町>
駒場小学校の西にあり、知立市境の逢妻川男川と下流
約800mで合流している。両川は鎌倉時代は衣浦湾の
入り江であり、駒場の集落は岬のような微高地であり、そ
こを鎌倉街道が通っていたことになる
 
  市立駒場小学校と鎌倉街道遺構
<豊田市駒新町>

学校の北面を鎌倉街道が東西に走る。幟旗は、地元区
会が展開している「駒場の史跡 伝統芸能を守る会」の
印であるがファンには「鎌倉街道」の文字が嬉しい限りで
ある
11月3日、再調査のため歩行中に発見し、ウォー
キングを知る契機となった
 
     
鎌倉街道伝承地の案内<豊田市駒新町>
上の写真の幟の後にあるのが、豊田市教育委員会設置
の説明版。鎌倉街道の文字が溢れており楽しく元気よく歩
けました。
  神明社<豊田市駒場町>
祭神は天照大神で、延喜式外の旧社であって大宝二年
十月持統天皇三河巡幸のみぎり勅許を得て、氏神として
鎮祭されたと伝わる。往古、海浜に臨み小浜の里と称し
、当社を小浜の明神と称していた

現在の地名である「駒場」の起源は、鎌倉街道沿線にあ
って人馬の往来繁く、かつ隣接の知立の馬市に集まる人
馬の宿泊地となったからであろう

・・・境内設置の由緒から引用
 
     
<旧鎌倉街道を歩こう>開式
「駒場の史跡伝統芸能を守る会」(事務局:駒場自治区)
は、地域を知り、歴史を掘り起こし次世代に伝えたい
趣旨で、平成27年12月13日に初めてのイベントとして
、表題のウォーキングが実施された。住民以外に市外か
らの参加もあり、区長さんも確かな手ごたえを感じてみえ


この歩こう会に参加し、皆さまからいただいたご厚意に
感謝申し上げます。
  徳念寺<豊田市駒場町>
浄土真宗 本願寺派の寺院。第二次世界大戦中、名古屋
市北区杉村小学校の児童が集団疎開した際の分宿の
1つでしたが、昭和20年(1945)三河地震で二人の子供が
亡くなっています

境内に一切経(仏教の典籍を集成したもの)を納め、回転する転輪蔵があるが、詳細は不明である。

     
御乗替之所碑<豊田市駒場町>
昭和2年11月、陸軍特別演習が愛知県内で実施された
。14日、昭和天皇の碧海(旧高岡地区)視察があり、旧
鎌倉街道で御料車から馬に乗替された。
この先が高台で西方への展望が良いため、昼食も摂ら
れたことが碑文に刻まれている

<当日配布された説明資料から引用>
  大演習視察の今上(昭和)天皇
<現地説明資料>

天皇を出迎える人々が奥の低地に見える



     
下馬観音菩薩<豊田市駒場町向鐘>
1300年ほど前、鎌倉街道沿いの下馬山(知立市境の
八橋町大流交差点南西)に慶雲寺という寺があったと伝
わる。その前を行き交う人々は馬に乗った人も下馬し観
音様をお参りしたといい、下馬観音と親しまれてきた。室
町時代に戦火で焼失したが、天文年間に南溟和尚が八
橋に移して、今の無量寿寺にしたといわれている

また約160年前に観音堂が下馬山に再建された。その
後、道路拡張工事等により二度移され、今は国道155
号駒場町向金交差点近くに安置されている
・・・前面に
設置の石製説明版から引用

下馬山で説明を受けたが、場所が分からなかった。「旧
鎌倉街道を歩こう」イベント当日、区長さんから豊田市在
住で鎌倉街道を研究され、関連書籍二冊を発刊されてい
る渡邉健二さんのご厚意で現地案内していただき、撮影
できました。ありがとうございました。
渡邉さんの書籍
○千年の道 尾参国境はいま
    <2010年10月25日発行>
○名残の道 鎌倉街道濱田ルート
    <2011年12月10日発行>
  中世の海岸への道<豊田市駒場町>
下馬山(下馬観音堂跡)を南に進むと、直ぐに下りとなる。
この先は逢妻男川で、中世時代は海の入り江であったと
いう
鎌倉街道は、台地の背骨のような微高地を進んで
いたことが実感できる