知立市と安城市の鎌倉街道 
 

 知立市の鎌倉街道
     
知立市の西入口<豊田市駒場町下馬>
台地上から知立市に向かう街道遺構。正面の高架道路
は衣浦豊田道路で下が市道の八橋町大流交差点。ここ
は平安時代頃まで入海で逢妻男川が乱流し、洲が入り組
んだ様子を蜘蛛の巣のようだと例えた。
洲の中の地盤がよい場所を選び、対の木杭の上に板を
渡した橋が道であったようだ。たくさんの橋を八と例え、八
橋の地名となった。
  八橋町大流交差点<知立市八橋町>
元乱流地帯も入海の陸地化、排水施設の整備で市街地化
が進んでいる。八橋町大流交差点の東南(写真右側)が
在原業平を慕った小野篁の娘・杜若姫が、かなわぬ想い
を悲観し入水した杜若池跡である。
 
注:小野篁については、十王堂(守山市)で登場している。

     
カキツ姫公園と落田中の一松<知立市八橋町>
地名の落田とは、逢妻男川の度たびの氾濫で田が崩れた
所という意味らしい。

この付近は、伊勢物語で在原業平が
  
らころも つつなれにし ましあれば 
  
るばるきぬる びをしぞおもふ 
と詠んだ所とされる
  業平塚<知立市八橋町>
名鉄三河線踏切に面して、在原業平の墓、供養塔、写真
中央の「愛知県名勝・八橋伝説地」の碑が建立されている。
     
業平供養塔<知立市八橋町>
左の伝説地碑の近くにある業平供養塔。業平は元慶四年
(880)五月に逝去、大和石上の在原寺に葬られた。その遺
骨をこの地に葬り、そばに草庵を建て菩提を弔ったと伝え
られているという。塚は宝篋印塔の形が整っていて、室町
時代初期のものであろうと言われている。
 <市観光協会HPより引用>


  根上がり松<知立市八橋町>
平成28年8月25日、再調査のため現地に行き、地主の
磯村志津夫さんが作成された「しおり」とノートが根元に用
意されていた。その内容を要約すると
〇歌川(安藤)広重の「東海道53次名所図会」版画の40
 番目「池鯉鮒=知立」の宿<八つ橋むら>に描かれてい
 る松が「根上がりの松」といわれている。
〇樹齢600年、腰高幹回り2.7m、枝張東西15m、南北
 12メートル、支える根17本、幹下の空高1〜1.3m。
〇毎日たくさんの見物人があり、「しおり」が毎日5〜6枚
 持っていかれる。メモ帳には東京や大阪の方の記録も
 あり、励ましやお褒めもあり喜んでいる。
〇子供時代は落ち葉拾いが嫌であった。約40年前の大
 病後、この松のように自然に生かされていると思って、
 松を見上げて毎日を元気にしている。残してくれた親に、
 感謝している。
     
鎌倉街道跡の碑<知立市八橋町>
根上がり松の前にある道路が鎌倉街道である。街道跡を
記した石碑が道路に面して設置されている
背面に右の
写真の十六夜日記(阿仏尼)の紀行文が彫られてい






 
  <十六夜日記>(抄)
 「八橋にとどまらむ」と(人々)言ふ。くらさに橋も
見えずなりぬ。さゝがにのくもてあやふき八橋を夕暮れ
かけてわたりかねるかな。

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 「八橋で宿を取ろう」と皆が言う。着いた時はもう真っ暗で
橋も見えぬほどだった。ささがにの蜘蛛の足のように八方
に分かれて危なげな八橋を、夕暮れになりかけて、橋を渡
れなかったよ。
     
在原(ざいげん)寺<知立市八橋町>
寛平年間(889〜897)に業平の菩提を弔うための「業平塚」
が築かれた折、その塚を守る人の御堂として創建されたと
伝えられている。一時途絶えたこともあったが、文化六年
(1809)に方巌和尚により再建された。
本堂に十一面観音(秘仏)、薬師如来、業平木造がある
  鎌倉街道案内の印<知立市八橋町>
市観光協会が掲示した在原寺前の電柱の案内。街道
ファンには嬉しい風景として大事に撮影
 


     
浄教寺<知立市八橋町>
真宗大谷派の大寺で、文明十八年(1486)に蓮如上人
から下付された方便法身尊像を保持している

  八橋かきつばた園<知立市八橋町>
無量寿寺の境内一帯は、前に芭蕉句碑等の文化財、奥の
庭園は、かきつばたが植栽された庭園があり、春の連休
中頃は多くの見学者でにぎわっている

     
八橋山無量寿寺<知立市八橋町>
臨済宗妙心寺派の寺院。寺伝によれば奈良時代の慶雲
年間(704〜8)に(豊田市駒場町に)創建された慶雲寺が
弘仁3年(821)八橋のこの地に移され無量寿寺となった
という。・・・境内設置の案内板より引用
  八橋旧跡の碑<知無量寿寺境内入口>
この石碑は、京都の西尾家本舗社長の「西尾為治」が寄
贈している。当時の住職と親交があり、この八橋の地名を
御菓子の名前にした「八橋」や「生八橋」が作られ、そのお
礼に寄贈された。
・・・境内設置の案内板より引用
     
かきつばた園<無量寿寺境内>    かきつばた園<無量寿寺境内>



 安城市の鎌倉街道
     
花の瀧伝承地<安城市里町菖蒲池>
倉街道遺構は、浄教寺を過ぎ、ほぼ直線で東進し
ている。市街地を抜けると、農地整備が施工され、一
面が整然とした農地で以前の姿が想像できない。道
が地中で切れており西方から探すには少し困難であ
る。かきつばた会館から二本南となる道が写真の道
路である
  花の瀧及び鎌倉街道伝承地碑
         <安城市里町

石碑や歌碑、説明版が設置されている。しかし,左の写真
のように周囲は一面の畑で、その中に低い工作物である
ため探しにくい。竹藪等あれば、目印となるが、何もなく左
の道案内を参考に探されたい
 
     
花の瀧伝承地安城市里町
安城歴史研究第五号(1979年12月発行)に「花の瀧」
考<鈴木美保子著>が書かれており、昭和54年以前
までは、写真のような瀧が竹林の中にあったという
  花の瀧伝承地安城市里町
瀧の西側に菖蒲池があり、旅人が休憩するような場所で
あった
 
     
不乗森(のらずのもり)神社
   <安城市里町

由緒に「第63代冷泉天皇の御宇(967〜969)近江
国坂本に鎮座の日吉神、東宮の祭神、大山昨(おお
やまくい)命を勧請し、奉祀されたものである。・・・安
城歴史研究第五号(1979年12月発行)「花の瀧」考
<鈴木美保子著>より引用
  三猿(さんざる)<不乗森神社境内
旧名「不乗森日吉神社」と言われ、猿が神使とされる 





     
縄文ニタ股遺跡と鎌倉街道の歌碑
安城市里町

祖母神社の東の道を北に進んだ四つ角の写真。
街道歌碑は
○馬下りて 神の威徳をかしこみて
 鎌倉街道 過ぎしもののふ
街道を行き交う武士たちが、馬から降りて社前を通っ
たという
  鎌倉街道遺構安城市里町
左記の歌碑のある四つ辻を更に十メートル程北に進むと
右(東)に向かう小道がある。悪水路と並行しているのが
特徴で、これが鎌倉街道の遺構とされる。道なりに進むと
次の宮橋まで、ほぼ直進で700mである
 


     
宮橋と猿渡川安城市里町
里町の野を南下する猿渡川。対岸の左に里町小学校
、右の住宅地は石橋団地である。ここは、かって湿地
帯の中を道が七曲りするように微高地を渡っていた場
所のようだ。
なお右の解説の最後に猿渡川の語源について往古、
不乗森神社周囲に猿が住んでおり、その猿が川を行
ったり来たりする情景から村人達が猿渡川と呼ぶよう
になったと説明されている







  鎌倉街道と宮橋跡安城市里町
地元町内会(里町、石橋町、井畑町)が宮橋の歴史を残
すために設置した石碑及び説明版。街道ファンだけでなく
、住民にも貴重な施設と思う。
その中に、中世紀行文の一つである「街道記」(貞応二年
=1223年)に歌が残されている
宮橋といふ所あり。敷双(しきならべ)のわたし板は
朽ちて跡なし。八本の柱は残りて溝にあり。心中に
昔を尋ねて、言の端(ことのは)に今を註(しる)す。
 ○宮橋に残るはしらにこととはん
   朽ちて幾世か はたえたわりぬる
 

宮橋という所がある。渡し板は朽ちて跡もない。八本の柱
は残って溝の中に立っている。心の中で昔を想像し、和歌
に今の様子を詠んだ。
 <宮橋の残る柱に尋ねよう。朽ちてから、どのくらい
   絶えたままでいるのか?>
     
鎌倉街道遺構安城市里町
安城市史等では、東山中学を挟んで西側を江戸期鎌
倉街道、東側を中世の街道跡を説明しているが、農業
整備事業が施行され双方とも遺構はほとんど残されて
いない。浜屋町歩道橋北にある街道遺構(今は農道)
の写真。ほぼ鉄塔に沿う形である。
農道の前方右に東
山中学がある。 鉄塔の左(南)に市北部浄水場のタンクがある。歩道橋の西端が進入道路となっている。
  鎌倉街道遺構安城市里町
歩道橋の東側の街道筋。先の森が熊野神社(踏み分け
の杜)。北に
里町お坊主(証文山)、周辺に狐塚があった
。狐塚に一里四方から見えるような松の大木があったが、
戦時中、飛行機の発着の邪魔になるという理由で伐採さ
れた。(何人かに尋ねたが、今では狐塚跡を探すことは困
難である)また時期は不明であるが、狐塚の稲荷祠は、今
は妙教寺に安置されている。
農地整備等により、街道遺構もなく農地の中の新しい道を
進むことになる。内外神明社の北を東南に進み熊野神社
に向かう。
     
庄屋・柴田助太夫の墓<安城市浜屋町>
右上の写真のように浜屋町歩道橋北の街道遺構を東
進すると高圧線鉄塔付近から、ゆるく右に曲がって進
む。この鉄塔の右にある田の先に柴田助太夫の墓が
ある墓地が見える。先は農業用水で行き止まりとなり
用水沿いに移動して左右遠方の橋を越すことになる。
是非、右(南)に移動し、用水傍の墓地を訪れ、庄屋・
柴田助太夫さんを偲んでみたい。
  本然山永安寺と雲竜の松<安城市浜屋町> 
曹洞宗の寺院である。大浜茶屋村の庄屋・柴田助太夫は
街道の助郷役を命じられた際、村の窮状を訴えて免除を
願いでた。刈谷藩は延宝5年(1677)彼を死罪としたが村
の助郷役は免除となった。この免除は幕末まで続いた。
村の人々は助太夫に感謝し旧宅跡に草庵を建立したの
が始まりという。彼の戒名である本然玄性(ほんぜんげん
せい)居士と妻の安海永祥(あんかいえいしょう)大姉に
因んで「本然山永安寺」と名付けられた。山門の奥に、幹
高1.5mの位置から北西、南、東の三方向に伸びる枝の
松があり、樹形が雲を得てまさに天に昇る竜を連想させる
ことから「雲竜の松」<県指定天然記念物>と呼ばれてい
る。・・・市設置説明版より引用
     
日吉神社安城市浜屋町
創建は明らかではない。旧東海道が参道入り口である
。大浜茶屋の山王権現と称し、信仰広く崇敬する




  内外(ないと)神明社安城市宇頭茶屋町
旧東海道からの入り口。参道は狭いが奥行きがあり、奥
の境内は広いが、木々が少なく整地直後の雰囲気である
。案内板等なく、創建や由緒が不詳である。
 平成28年1月
28日訪問時に伊勢神宮の内宮、外宮を勧請したので内外
という名前と教えていただいた。
     
法華宗法喜山妙教寺安城市宇頭茶屋町
眼病を長らく患っていた開山日喜上人が、鎌倉街道沿
いの稲荷祠に籠り一心に法華経を読経したところ一夜
で忽然と平癒した。この驚きと喜びに意を決し、「喜徳
稲荷真天」を勧請し、明治36年自宅を志貴教会とした
のが、始まり。昭和25年10月11日当山二世日徳上人
が法喜山妙教寺を公称し昭和29年3月県知事の認可
を受け、現在に至る。
<門前の掲示版から引用>
  熊野神社安城市尾崎町
土地の古老の話の伝聞によると、和銅の昔、豊阿弥
長者が屋敷の北に御堂を祭り、後の承久の変の頃、
熊野三山の検校職(僧侶・寺社の総取締役)良尊法師
により碧海郡(今の安城市、刈谷市など)に21箇所の
祈祷所がおかれ、うち1箇所が熊野神社として受け継
がれたもの。<出典:平安鎌倉古道>

     
鎌倉街道遺構安城市尾崎町
熊野神社西側に残る鎌倉街道遺構
不乗森神社から東進してきた鎌倉街道は、この熊野
神社から東南に向きを変えていたので、神社の森を踏
分の森と呼んでいた。また神社前を旧東海道が通って
いた。一里塚跡碑があるが、正確にはここから西方約
70mの場所にあったという
  予科練の碑熊野神社境内
熊野神社正面右手に設置されている予科練の碑 航空
隊ですが、滑走路はなく、訓練終了生は、各実践航空
隊に実務訓練生として配備されたそうです。
(案内板の内容)(昭和61年5月建設)


     
岡崎海軍航空隊熊野神社境内
第二次世界大戦の末期、当神社の周囲(岡崎市、安
城市、豊田市にまたがる)が飛行予科訓練生の即戦
力養成を主任務とする「岡崎海軍航空隊」が昭和19年
4月設置され、翌5月15日の第一期生に始まり、敗戦ま
でに5849名が6ヶ月の訓練を終了しています。
(平成3年、新編岡崎市史)
  鎌倉街道遺構安城市尾崎町
東進してきた鎌倉街道は旧東海道を横断し南下する基点
である。





 安城市南部と岡崎市西部の鎌倉街道
 
知立八橋を東進した鎌倉街道は、熊野神社(踏分けの森)で向きを変え、矢作川西部の水はけの悪い後背湿地を
避けて、碧海台地の東縁を南下し、日長神社に至り、そこで東に向きを変え東海道本線と並行し、矢作川を渡った
ようだ。名鉄名古屋本線宇頭駅の西にある長者屋敷跡は、平安時代以前の官道である東海道の駅屋と推定され、桝
塚から名鉄本線に並行して東進し矢作川を渡り八帖町に進んだようだが、確かなことは不明である。
上の図の緑色の道は、新編・岡崎市史(平成元年3月発行)で中世の東海道として説明され、それ以外で鎌倉街道に
ついての記述がないので平安時代以前の街道として図示した。
主な参考資料
安城市域:安城市史及び「安城歴史研究第5号」(1979=昭和54年)
岡崎市域:「三河古道と鎌倉街道」(武田 勇著昭和51年9月発行)



 安城市東部の鎌倉街道
     
長者屋敷跡岡崎市宇頭町字新長者屋敷
名鉄名古屋本線と国道一号線に挟まれた一画。国道
一号線尾崎町交差点から約200m南の一画
鎌倉街
道とは離れるが、古代街道(東海道)の駅とする推定
説がある。
チャボ井戸(長者の秘宝、黄金のチャボが元旦の朝に
鳴くと云われ、豊かな井戸水は氏神に献じられたと伝
えられる)は、平成の初期に運送会社が立地し、無くな
ったという
  桝塚跡岡崎市宇頭町字楮山
名鉄名古屋本線南の一画。昭和50年代頃までは、雑
草が生えた塚があったそうだが、農地が整備され今は
何もない。<古代街道は、長者屋敷から桝塚にきて、
名鉄沿線にほぼ平行して東進していたという。:安城歴
史研究第5号>
手元は安城市東・西別所町境である。白い建物が長
者屋敷跡の福山通運社宅、右の緑が熊野神社の森で
鎌倉街道の沿線となる。
     
推定街道遺構安城市東・西別所町
鎌倉街道は桝塚跡から庚申塚東に進んでいたが、昭
和40年代頃の別所住宅団地建設で市街地化され、街
道遺構は全くない。


  庚申塚安城市尾崎町
室町時代から江戸時代に一夜を徹して延命息災、五
穀豊穣を祈った民間信仰である。今もお堂がある
田の中にあり、入り口は左の民家の
間にある。位置
は下左の慈恵幼稚園西側の道の延長になる。 
鎌倉街道は庚申塚の右(東)を通っていたとう。
     
慈恵幼稚園安城市尾崎町
田の中にあり特徴のある建物で目印となっている。右
の木々が庚申塚である。






  三河万歳発祥の地安城市尾崎町
熱田薬師寺の玄海が戦乱を逃れて住み着き、漫才
芸能を教授した。万歳師は矢除けの祈祷も行い、徳
川に従い、関東に赴いたことから全国に広がった
当時の頭領が「大行日吉法印」(だいぎょうひよしほう
いん)であり、位牌等から実在が確認され、墓地が「安
城の三河万歳発祥の地」として昭和57年、市史跡の
指定を受けている。・・・市設置案内板より
 

江戸風俗十二ヶ月の内正月万歳説之図 歌川周延画
   
安城の三河万歳
江戸時代、三河の万歳師(祈祷師)たちは正月に江戸
へ出かけ、三河と縁のある武家など(檀那場:だんな
ば)を回るようになった。その内容も宮中に倣った万歳
に変化し、万歳師の出身地にちなんで「三河万歳」と
呼ばれた。江戸時代後半の万歳の多くは、家々の門
や玄関先で舞う、「門付け万歳」であったが、「三河万
歳」は「檀那場」で舞う、「座敷万歳」をすることが特徴
であった。
・・・写真及び文は「安城市の三河万歳」案内チラシ(安
城市教育委員会作成)からの引用です
  大行日吉法印堂遺構安城市尾崎町
上の法印のお墓から50M南にある。お堂の詳細は
不明である。石碑に国指定三河萬歳始祖大行日吉
法印と刻まれている。
(平成17年国指定無形文化財)
 

*注
 三河万歳の保存活動は、安城市、西尾市及び額田
 郡幸田町で行われています。

     
鎌倉街道跡遺構安城市尾崎町
上のお堂の東です。直ぐ先に地元の方に教えていた
だいた古道跡、法印の墓、庚申塚が熊野社方面の直
線上にある





  市杵嶋姫(いちきじまひめ)神社
安城市別郷町

東南東に進んだ古道は、かってあった薬王寺横を西
に曲がり、市杵島姫神社前に出たようだ。今は薬王寺
がないため分かりにくい遺構となっている。
また、ここは別郷廃寺跡でもあり、地名の「別所町」は
、大寺院の院内(境内)にあった「穢れをはらうため,
お篭(こもる)場所」を意味するとされる
 
     
別郷廃寺礎石市杵島姫神社
現在の別郷町内を範囲に百メートル四方の境内を擁
した別郷廃寺があったと推定されています。
神社境内の前面に説明版があり、礎石の一つが市杵
島姫神社に運ばれてあり、拝殿の西側にみることがで
きる。
  高木城址遺構安城市高木町
室町時代に高木宣光が移り住み、子孫は一向一揆の
時には徳川家康に味方し、関東移封に伴いこの地を
去り、江戸時代は河内国丹南藩(大阪府松原市丹南)
一万石の大名になったという

     
台地から見た別郷町方面
高木城址は碧海台地のすそを通る鎌倉街道沿いに
あり、岡崎平野が一望できる
  日長神社安城市山崎町
延喜式神名帳に日長神社、仁寿元年(851)従五位と
ある。

     
日長神社西の鎌倉街道遺構
<安城市山崎町>
別郷町から碧海台地の裾を進んできた街道は、日長
神社の前を左折(東)し、台地を下り東海道本線に並
行した形で岡崎市大堀町に向かう。




  道祖神<安城市山崎町>
前庭天神、院庭天神合祀社(岡崎市新堀町)横の東海
道本線踏切(歩行者用)を越え、二本目農道を南西に
進んだ田の中に道祖神がある。
左:をかざき 右:まちや の文字が見える。まちや(町
屋)は岡崎市下佐々木町の別名という。中世時代、矢
作川の洪水等による微高地が東海道本線軌道筋を蛇
行していたと推定され、安城市と岡崎市の境界に安置
されたと思われる。<安城歴史研究第5号>



 岡崎市西部の鎌倉街道
     
市境の道祖神からの道
安城市山崎町・岡崎市新堀町

鎌倉街道は、道祖神から北に振り前方に見える森
「前庭天神社」の西(左)の妓楼を経て森の北に進ん
でいたようだ。
地蔵の後ろの水路から岡崎市新堀町
である。
  前庭天神社・院庭天神社岡崎市新堀町
三河国内神名帳に正五位下前庭天神、同院庭天神と
記載され、前庭天神は豊受比売大神、院庭天神に天
照皇太神を奉祀している。この地は大化以前の国衙跡
と伝えられ、また伊勢両宮の河内神領の司庁と神倉が
あったことから、前庭・院庭両宮を奉祀したと考えられ
る。・・・境内「由緒」引用
  
     
妙源寺「柳堂」岡崎市大和町字沓市場
・・・明治36年国指定重要文化財

妙源寺は、安藤氏が河内国安部野から三河国桑子に
移住したとき、聖徳太子の木像を安置するため一堂を
建立したことにはじまると伝えられる。三河一向一揆
(1563年〜1564年)の際、徳川家康は本寺に身を寄せ
難を逃れた。これにより家康から「源」の一字を与えら
れ、妙源寺と改称した。
なお、文暦2年(1235)親鸞上人が関東から京都に戻る
際、桑子城主安藤信平の願により、太子堂<柳堂>
で37日間(17日や21日説もあり)説法があったという
伝承がある。また、「沓市場」という地名から矢作西宿
があったのではと推測されている。
  渡城址及び鳥居氏発祥の地<岡崎市渡町>
1167年「承久の乱」の後、平氏を祖とする鳥居中務が
紀州熊野を追われ、移住して城を築いたことに始まる。
天文年間(1532〜1554年)、17代忠吉は松平宗家
7代清康、8代広忠に仕え、その子元忠〔1539〜160
0年〕は家康に仕え、1590年家康関東移封に伴い、下
総国矢作城4万石へ移った。
元忠は、関ヶ原の戦いの直前、伏見城を守って討ち死
にした忠臣として名を残している。




     
渡八幡宮<岡崎市渡町>
渡し場周辺らしく渡八幡宮と書かれている




  推定矢作川渡船場跡<岡崎市渡町>
矢作川を渡る官営渡し場が設けられたのは、承和2年
(853)以前とされ、「海道記」「吾妻鏡」にも記載があると
いう
尾張部の鎌倉街道と同様、三河部においても古道と東
海道本線が重なる。
     
安養寺岡崎市渡町
真宗大谷派寺院
  善国寺岡崎市渡町 
浄土宗西山禅林寺派寺院。
     
能光廃寺跡岡崎市渡町 
勤労者施設元サンピア・ゴルフ練習場北側の道路を
隔てた一画にある古代寺院・能光廃寺跡


  蓮華寺岡崎市西本郷町
名鉄名古屋本線宇頭駅の東南500mにあり、碧海台地
の東端の蓮華寺山の北側にある曹洞宗の寺院。平安
時代の古代街道が長者屋敷・蓮華寺山(南側)・八帖・
菅生と進む街道遺構とされる