緑区の鎌倉街道 
 
     
梅野公園<天白区野並4>
地下鉄野並駅の北東に位置する。字上野という地名
があった。江戸時代まで、巨木の2本の松の木が尾張
名所図会に「聖(ひじり)松」が描かれている。江戸期、
一本が枯れ、残りの一本も伊勢湾台風で倒れ、今はな
い。
  遺野並八剣社<天白区野並3>
地下鉄「野並駅」の出口近くにある。野並は熱田神宮の
社田であったので、
熱田社内の八剣社を勧請したもの
という。

     
野並八剣社北の街道遺構<天白区野並3>
野並の南にある、渡船場「古鳴海」から井戸田方面に
向かう「上の道」が「聖松」目指して伸びている。

  鎌倉街道の案内<天白区野並3>
野並交差点の一画(東北)に配置されている。残念なこ
とに、これ以外に案内等がないため、関心を寄せる人は
少ないと思われる。
 
     
鎌倉街道の遺構<緑区鳴海町古鳴海1>
野並交差点の直ぐ南にある「古鳴海交差点」である。
正面緑の広告の裏の空き地際(先)に街道遺構が残っ
ているが、直ぐに行き止まりとなっている。その先は、
旧集落を縦貫し、野並八幡社近くに出口がある。
 
旧街道入口に「右なるみ 左あいはら」と刻まれた道標
地蔵が安置されていたが、平成元年頃、柱林寺に移
転された。
  古鳴海公園<緑区鳴海町古鳴海1>
野並駅の南に藤川があり、直ぐ南に「古鳴海公園」があ
る。中世時代は、藤川あたりに、松巨(まつこ)嶋等と連
絡する渡船場があった。




     
嫁ヶ茶屋公園<緑区鳴海町古鳴海1>
嫁ヶ茶屋の逸話に2説あり、一つは参考にしている「平
安鎌倉古道」の中で「鎌倉時代に東屋平右衛門の妻
が旅の必需品を売り、茶を無料で旅人に供した」話と、
「旧街道のなぞに迫る」(加納 誠著)、「鎌倉街道・緑
区を中心に」(片山鐘一著)に天正年間(1573〜92)
、稲妻屋庄左エ門が茶店を営み、その妻が美人と評
判で、いつしかその地名を「嫁が茶屋」と呼ばれるよう
になったという2説
がある。
  薬師山・柱林(けいりん)寺<緑区鳴海町古鳴海1>
曹洞宗の寺院。昔は薬師堂といい、ご本尊は薬師如来
である。寺伝によれば、宝物の薬師如来像は、福原遷
都をした治承4年(1180)の工事の際、平清盛公から
報奨として賜ったものといわれている。
なお、本堂裏の墓地に古鳴海交差点近くの旧道にあっ
た道標地蔵が移転、安置されている。

 
     
古鳴海八幡社<緑区鳴海町上ノ山>
右側市道脇に神社由緒が掲示され、冒頭に古代、鎌
倉街道が通じていた歴史を持つと書かれている。
古鳴海村の鎮守として天照大御神(神明神)、応神天
皇(八幡神)を祀っている。
  古鳴海公会堂<緑区鳴海町上ノ山>
古鳴海から野並八幡社に向かう街道遺構。右側が公会
堂で、正面に八幡社の杜が見える。
 
     
伝治山交差点<緑区>
前面が北で右手(東)にアピタの黄色の看板が見える
。街道はアピタの中間を通っていた。
左(西)からは、下の道の狐坂からの道が来たことに
なる。
  新海(にいのみ)池公園<緑区>
寛永十一年(1635)、鳴海村の新海五平治が築いた灌
漑用の工池を核に公園整備されている。街道は、公園
の西側を通っていたとされるが、源頼朝時代に東側を通
ったこともあるようだ。
 
     
大塚古墳<緑区鳴海町赤塚>
古墳時代、七世紀代のものとされる円墳で人骨等が
出土した。市道からの入り口が狭く、わかりにくいが、
赤塚古墳の東市道約50mに小さな入口がある。

  赤塚古墳<緑区鳴海町赤塚>
大塚古墳と同じような規模、形状と思われるが、現状は
竪穴式基底部を残すだけである。人骨、金環等を出土。
古墳時代後期(七世紀)に属するものが判明している。
池の西岸のリサイクル工場近くにある。
 
     
観音山及び相原観音堂
<緑区鳴海町潮見が丘2>
緑高校バス停西の「ステーキの宮」の東にある。奥が
尾張十四番札所の観音山、手前が相原観音堂である
。観音堂の沿革を説明する掲示物がある。これによる
と相原郷は鎌倉街道沿いに建武4年(1337)の文献
に見られるという。
  浄蓮寺<緑区鳴海町相原郷1>
真宗大谷派の寺院。今川義元の家来であった慶念が天
正3年(1575)に創建したとされる。
 



     
諏訪社<緑区鳴海町相原郷1>
創建は平安時代といわれている。明治時代までは信
濃の諏訪大社と同じ7月27日に大祭が行われていた
。例祭では「走り馬」といわれる「馬の塔」が奉納されて
いたが、戦後、馬を買うことが廃れ行われなくなった。
  諏訪社境内の街道遺構
諏訪社境内の一段と高い位置にある拝殿・神楽殿の
下に東西に延びる道がある。これが鎌倉街道の遺構と
伝わる。
 
     
諏訪社西の街道遺構<緑区鳴海町相原郷1>
浄連寺と諏訪社の間にわずかに残る街道遺構。浄連
寺側はわかりにくいが、諏訪社からは境内の遺構を西
に進むと車が見える市道となり、少し斜めに遺構の入
り口が見える。










  庚申(こうしん)堂<緑区鳴海町相原郷1>
諏訪社入口の少し東に写真の北東に斜めに走る道が
ある。入口から左手の壬申堂が見える位置にある。
庚申信仰は、道教の迷信からおこり、壬申の夜に人間
の体内にいる三戸(さんし)虫が天に上がって人間の罪
科を天帝すなわち帝釈天に告げると信じられた。中世の
貴族社会に受け入れられ、庚申の夜を徹して語り合い、
酒食の宴を催す風習になった。これが民間に伝わる庚
申講の元になっている。人間の体内にいる三戸虫を体
内から出ないようにするため、その夜は寝ないようにす
れば、人間の悪事は露見せずにすむというものである。
庚申待ちの夜には庚申軸を掛けて行事を行ってから夜
食を出す。その後で、村の出来事や種々の話が出る。こ
の信仰によって家内安全が叶えられるという。
 
     
鴻仏目交差点<緑区>
相原から八つ松に移動する時に利用する交差点。交
差点の北側に、早川モータースがあるが東南の展示
場の東(手前)に地蔵尊が安置されている。


  鴻仏目地蔵尊<緑区>
昔、環状2号近くの鎌裏街道沿いに道標地蔵尊が祀ら
れていたが、伊勢湾台風で流された。その後、新しく再
建された。環状線2号?工事のため、鴻仏目交差点近く
の民家に移転安置
された地蔵尊である。
     
新鴻仏目(こうぶつめ)橋<緑区>
鴻仏目交差点を南下すると扇川に架かる新鴻仏目橋
がある。以前の扇川は、この周辺を蛇行し、堤防を街
道が走り、少し上流で水車が動いていたし静かな風景
であったという。橋の北西にドン・キホーテができ、撮
影日(9月19日)に駐車場で若者が仮装用品(ピエロ)
をテストしている風景を見て時空を感じてしまった。

  八つ松及び鎌倉台の拡大図<緑区>
赤い点の現在地は八つ松交差点近くです。右下の公園
 蔵王権現と八幡社に隣接している「八つ松西公園」で
す。街道は現在地と左(西)の尾関山2丁目交差点下付
近となります。
地図赤い点の現在地下の「八つ松二丁目」の文字の左
下変則交差点が「鎌倉台1丁目」で鎌倉台中学は、更に
1本下の道路沿いにあります。
     
蔵王権現と八幡社<緑区八つ松1>
蔵王権現と八つ松八幡社は小高い丘に祀られており
参道は階段を登る。蔵王信仰は「猿田彦」を祀り、旅
人の安全守護の神とされる。神社の奥(北)に
「八つ松
西公園」が整備され、素晴らしい景色を楽しむことがで
きる。
八っ松地区に宝永年間(1704〜1710)まで「義経鎧
懸松」があったといわれているが、今は跡形もないとい
う。
  市立鎌倉台中学校<緑区鎌倉台2>
街道遺構から街路一本を移動すると鎌倉街道に因んで
命名sれた「鎌倉台中学校」がある。
 





     
鎌倉台中学の校名由来
校名の由来を刻まれた石板が校門付近に展示されて
いる。
平成5年の開校を控え、平成3年12月公募によ
り決定されたことや鎌倉街道の経路や多くの要人、文
人が往来したこと等が簡潔に説明されている。
  八ツ松から二村山に向かう道筋<緑区大清水5>
蔵王権現を出て、街道はほぼ直進で東に向かう。大清
水の新興住宅地を抜ける頃、右手(南)に塀が見える。
中京競馬場の厩舎群を隔てる塀のようだ。
 
     
大清水のオヒジリ構<緑区大清水5>
嬉しいことに地蔵の右下に由来を記した説明板がある
。これによると聖観世音菩薩は六道の衆生を得度する
六種の観音様の一人で古道が「八ツ松山」を登りきり、
やがて濁池へ下りかけるところにあったが、交通の

繁化で現在地に移転した。江戸時代後期に古道を利
用する旅人がいて、その安全を祈って建てられたもの
である。移転先は、街道遺構から少し北になる「大清
水第二公園」の東である。
  濁池への道<緑区大清水5>
右手の競馬場障壁塀が無くなるころ、下り坂となり正面
に森が見えてくる。濁池周辺の森で直進することになる。
また、右手に中京競馬場のスタンドが見えるようになる。





 
     
愛知用水<緑区鳴海町字大清水>
小さな森を抜けると愛知用水を渡る数少ない橋に出る。

  濁池周辺の地図<緑区鳴海町字大清水>
名古屋市大清水処分場の案内図です。愛知用水と濁池
があり、右に豊明市となり藤田保健衛生大学があります。
 


豊明市の鎌倉街道  
 
     
濁池と藤田保健衛生大学病院
<豊明市沓掛町田楽ケ窪>
濁池を半周すると大学病院が見えてきます。二村山
へは、ほぼ直進となります。敷地内は病院と大学の建
物が入り組み、高低差があるため階段と迷路のような
通路である。遠回りとなるが、このまま進み外周で正
門近くに移動することになる。
  二村山西入口<藤田保健衛生大学病院内>
病院の正門近くにある立体駐車場ゲート左の写真で
す。左の木がある箇所が二村山の入り口です。



 
     
二村山への街道遺構<豊明市沓掛町田楽ケ窪>
雑木林の中を進む雰囲気のある古道。


  二村山の峠<豊明市沓掛町皿池上>
古道は十分程度で二村山の頂上下の峠にでる。小広
場で鎌倉街道の説明版や道標等が整備されており一
読する楽しみがある。
 
     
西入口の説明文


  石に貼り付けられた陶器製の説明版
陶板であるため日焼けや劣化が少ないため9年前の
画像と比較したが、そん色なく読めることができる。 
     
道標
正面に鎌倉街道、右にみかわ、左になるみ と刻まれ
ている。







  源頼朝歌碑
建久元年(1190)10月、露の季節。初めての出京に
歌枕で名高い二村山は印象が深かったと思われる。
よそに見しをさヽが上の白露を たもとにかくる
二村の山
                      源頼朝 

頼朝の詠歌として続古今和歌集に残っている。
この時の上洛で後白河法皇に拝謁して右近衛の大将
に任ぜられた。・・・・設置の説明版より引用
     
二村山峠地蔵尊
広場の地蔵堂に三体の地蔵尊が安置されている。左
の地蔵尊(峠地蔵尊)は大同2年(807)、中央は言文
年(1738)、右の地蔵尊は明和3年(1766)と銘が刻
まれている。左の地蔵尊は首なし地蔵とか身代わり地
蔵とも呼ばれている。首は元文5年(1740)の落雷で
折れ、今は昭和区の島田地蔵の腹の中に納まってい
るとされる。
里に伝わる伝承として熊坂長範という大盗賊(平安時
代末)がこの山に隠れ、ある時、旅人を襲ったが地蔵
尊が身代わりになったとい「身代わり地蔵」の伝説が
生まれた。
  二村山勝地の碑
山頂に名所指定の碑がある。
二村山は豊明市の最高地(標高72m)であり、三河、
尾張が眺望できる和歌の名所として、古来から多くの
和歌に詠われてきた。







 
     
二村山山頂からの景色
標高72mの山頂に三階建ての眺望台が設置されてお
り周囲が一望できる。左に藤田保健衛生大学病院が
見え、正面の森の中を進んできたことになる。



  二村山切られ地蔵尊<二村山頂上>
胴体部分が斜めに切られた形になっている地蔵尊。
下半身の背に「古来の仏、大破するに依り、これを建
立す。延宝七巳未年(1679)」との銘がある。峠地蔵
尊が破損したので、代わりに建立されたものである。
<豊明シティガイドマップより引用>
 
     
十王堂跡と道標地蔵堂<豊明市沓掛町字宿>
皿池交差点と若宮交差点の間に十王堂跡の竹藪が
左の写真のようにあったが、平成27年秋では、藪が
除かれ擁壁が築かれ様代わりしている。
  道標地蔵<豊明市沓掛町字宿>
地蔵尊は変わりなく参拝されており花が供えてあった。 

     
鹿島神社<豊明市沓掛町字宿>
昔、川原神社と称されていた。創建年次等は不詳で
ある。








  在原業平歌碑<鹿島神社境内>
 あひ見ては心ひとつをかはしまの 
  水の流れて耐えじとぞ思ふ 在原業平

字宿の当地には「両村駅(ふたむらえき)」が置かれて
いた。在原業平が東下りの折、宿屋の軒先にわら沓
が掛けてある風景をおもしろく思い、「沓掛」と名付け
て以来、地名として今日まで残されている。
業平はここの女を愛し、離別に臨んで一首を詠じたの
がこの歌といわれ、伊勢物語に載っている。
   市観光協会設置版より引用
 
     
鹿島神社南の街道遺構<豊明市沓掛町字宿
東の大久伝目指しているが、直ぐに行き止まりとなる。
  青木地蔵<豊明市沓掛町字宿>
鹿島神社の東約450mの田の中に青木地蔵堂が楠
の下にある。
 信号手前右は市消防本部の建物であ
る。
     
青木地蔵<豊明市沓掛町字十三塚>
鎌倉街道沿いに祀られていた青木地蔵尊。根元に仁
治(1240〜42)の銘がある。32センチの花崗岩で顔
面がなく下半身保護地蔵として安産を祈る旅人が多か
った。大正6年、沓掛町の寺田地蔵堂に移され、現在
は代替仏が安置されている。
  十三塚から大久伝への道
<豊明市沓掛町字十三塚>
青木地蔵尊から大久伝へは田の中をまっすぐ東進す
ることになる。半分は、簡易舗装がしてあるが、残り
半分は未舗装の農道となる。

     
大久伝(おおくて)八幡社
<豊明市大久伝町字東>













  十三塚碑とお紺女郎の塚の碑
<南大久伝八幡社境内>
右の大きな碑が「十三塚の碑」、左が「お紺女郎塚の
碑」である。

かつては街道を挟んで南側に13基、北側に7基の塚
があり、これを鎌倉街道の十三塚と呼んでいた。大き
いもので100u、小さいもので15uほどの規模であっ
た。いわれについては様々な説が伝えられた。大久
伝八幡社の碑文には、経塚とも非業の死を遂げた者
の墓とも、あるいは伊勢古市のお紺女郎の亡霊の鎮
魂塚ともいうとある。また、行き倒れの旅人の墓とも、
祖霊追善のための十三の年回毎に供養の目的で築
いた塚であるともいわれている。昭和45年頃、青木
地蔵の塚を除いて土地整備事業のため消滅してしま
い、現存していない。
     
飛鳥井雅世歌碑<豊明市大久伝町字南>
 それと聞くしるしばかりかさかひ川
    ほそき流れは名にながれても
                       雅世

飛鳥井雅世は和歌と蹴鞠の師範を公家の家柄で、足
利義満、義持、義教に仕え、幕府歌会の第一人者とな
った。この歌は永享4年(1432)9月、鎌倉古道の尾
張と三河の国境で詠んだもので、国境を流れる川なら
ば堂々とした川かなと思ったのに、案外やさしい川な
のだなという意味である。 
 ・・・傍の市観光協会設置説明版
  境川橋<豊明市大久伝町字南>
尾張の豊明市と三河の刈谷市の間を流れる境川に
架かる境川橋。橋を渡れば三河の国となる。