岡崎市東部T(美合町・岡町・藤川町・市場町)の鎌倉街道  
岡崎市街地の鎌倉街道は、 明大寺丘陵の山裾を辿ってきたが、東部の街道遺構も山綱川を挟んだ丘陵地帯の山裾を進んできたといえる
。特に、岡町の山綱川の周囲は農地整備と工業団地建設で山裾が寸断されているが、宝塔寺以東にわずかに街道遺構が残されており、雰囲
気を楽しむことができる。江戸時代東海道が山綱川南に建設され、高札場跡で交差しており中世鎌倉街道と近世東海道の双方を楽しめれる場
所でもある。また名鉄電車名古屋本線藤川駅に隣接して道の駅「藤川宿」が5年前に開業し、連日、大勢の客で盛況である。当地の名物や観光
パンフレットが常備されているので寄られることをお勧めしたい。
 
     
土呂殿本宗寺(とろでんほんしゅうじ)
<岡崎市美合町平地>

寺伝によると、本願寺第八代蓮如上人が西三河地方教
化のため、本願寺の分身として応仁二年(1468)に土呂
(現在の福岡町)に創建された。
蓮如の布教により、「三河三ヶ寺」の上宮寺<じょうぐうじ
>(上佐々木町)、勝鬘寺<しょうまんじ>(針崎町)、本
證寺<ほんしょうじ>(安城市)を核に末寺、門徒で強力
な三河本願寺教団が組織された。本宗寺は、この教団を統括・支配する三河で最上位の寺院であった。
永禄6年(1568)秋、三河で一向一揆がおき、家臣が分断
した家康が危機に陥った時もあるが、翌年春、和議に持
ち込み、平定された。家康は寺院に改宗を迫り、拒んだ
ものには破却を命じた。本宗寺
は破壊され、住職は他
国へ退去した。天正11年(1583)、家康の重臣・石川数正
の母、妙西尼(みょうさいに)の懇願により、最初に復興
が許され、数度の移転後、慶長6年(1611)、現在地に再
建された。
  生田(しょうだ)蛍<岡崎市美合町・岡町
街道遺構は生田城址から美合小学校に向かっている。
国道一号線美合町西交差点近くの山綱川の小橋を渡り、
川沿いの道を右に進み最初の道で左折すると学校の前
にでる。
橋の際に「生田蛍」の看板を見かけ、気になり撮影した。
事情が分からなくインターネットで検索したら、美合小学
校で30年以上に亘って「生田蛍の保護観察活動」が行わ
れていることを知った。詳細は、美合小学校ホームページ
で掲載されており参照されたい。
 
     
美合小学校<岡崎市岡町>
学校正門の写真である。街道遺構は学校の北面である
ので、南西角から左廻りで半周する経路となる。
 
  船山<岡崎市岡町>
美合小学校北面を離れ、市道を横断し直進すると平野の
中に独立した船山が正面に見える。右手に参考にしてい
る「平安・鎌倉古道」掲載の墓地が見える。この先は、民
家前後の小道を左折し、左にある市道を船山北に進む。
 
     
岡保育園<岡崎市岡町>
船山の北にある岡保育園。街道は保育園の裏にあった
が土地改良等で
地形が変わり、新しい道路が建設され
ている。
  船山と街道遺構<岡崎市岡町>
小高い農地の中い見える船山。街道は、正面右の建物
の宝塔寺の右から山裾を辿り、船山の北(右)にある岡
保育園の北を通っていたが、農地整備により遺構は残存
していない。
     
七面山宝塔寺<岡崎市岡
本堂の右手に街道遺構が残っている。周囲は土地改良
事業対象地になっているが、この周囲のみ残っている。
平成28年6月11日に現地調査した時、信徒の方が見
えて、戦後頃に移転してきたとの説明であった。
  鎌倉街道遺構<岡崎市岡町>
宝塔寺と「駒の爪」の間にある街道遺構。前方の竹藪を
抜けると葵工業団地に向かう市道に出る。そこから宝塔
寺が目前に見える。
     
山綱川の小橋<岡崎市岡町>
山綱川に架かるポイントとなる橋。前方の民家前から斜
め西方が右上の写真の場所となる。
橋の右に見える車がいる川岸を右に進むと駒の爪石が
川岸にある。
東に進むには、川を渡り川岸の道を東に約5百mで国
道一号線「三河高校入口」交差点に出る。一号線を約2
80m東に移動すると喫茶「いこい」前に出る。街道遺構
はお店の裏(北)で、そこから約200m東に進むと関山
神社前となる。
  奇岩・駒の爪<岡崎市岡町>
川岸沿いにある駒の石。夏場は草が茂り、入って歩く難儀
、草の中を探す困難は相当な覚悟が必要と思う。
 写真の
石に大きさが分かるようにペットボトルと椿の花が置いてあ
る。3月に出直してようやく、たどり着いた。
この先は歩行困難であるので、左の小橋まで戻ることにな
る。
***
この写真が<藤川地区景観まちづくりガイドブック> 
編集・発行:岡崎市都市整備部都市計画課・平成23年
4月発行 P64に「駒の爪」の写真が一枚使用されていま
     
地名は「平八」<岡崎市藤川町>
関山神社鳥居前を西進する道の一画に「藤川宿まちづく
り研究会」が設置した案内版が右に見える。
内容の要旨
は、
〇平八は藤川町字王子ケ入、東・西川向一帯をいう。
〇江戸時代以前、山綱川北部を平八と呼称されていた。
〇江戸時代以前の一時期、鎌倉街道が通っていて、藤
川の古い集落がここにあった。
〇天正18年(1590)、時の藩主田中吉政は、山綱川の南
に新しい街道を整備し、平八の住民を移転させた。
平成20年3月撮影
***地域の歴史が分かる良い案内版でした。感謝
  関山神社<岡崎市藤川町>
往古、藤川の里を見おろす明神山山頂に村中安全、五
穀豊穣、疫病退散を願って赤山大明神を勧請し、藤川の
鎮守として崇敬されてきた。戦国時代、藤川城主内藤弥
次谷衛門家長が本殿を建立、江戸時代後期、現在地に
副殿を建立、里宮とした。
<境内の奥宮案内から引用>
 
     
関山神社参道<岡崎市藤川町>
旧東海道の藤川宿本陣跡の西に参道入り口を示す灯
篭がある。この先の右側に本陣跡の石垣を見る絶好の
ポイントとなる。
しかし、鎌倉街道は、東方の高札場付近を通っていたと
推定され街道遺構ではないが、この道は名鉄本線踏切
、山綱川を渡る橋があり神社近くに行くには便利と思う。
ただし国道一号線は中央分離帯があるので、喫茶「いこ
い」前の地下通路を通ることになる。
  柳田院称名寺(りゅうでんいんしょうみょうじ)
<岡崎市藤川町>

浄土宗西山深草派(本山ー京都・誓願寺)の寺院である。
寺伝によると永禄11年(1568)の創建とし開山は法藏寺
第七世の貫主であった教翁洞恵上人とし、当初は王子ケ
入に創立されたという。天正18年(1590)、徳川家康の
関東移封に従って第3世上人が江戸に移ったため、寺は
衰退した。
 正保3年(1646)に再興されたが、寛文2年
(1662)、現在地に移転、再建し今日に至る。
ご本尊は阿弥陀如来坐像であるが、創建当時のご本尊と
思われる(室町時代の作と思われる)十一面観世音菩薩
立像が安置されている。・・・境内設置案内板引用
     
人形所<岡崎市藤川町>
東海道の高札場前にある人形店。左の小道が鎌倉街道
遺構である。この先は、称名寺の東横に出、その先に明
星院の入り口がある。
撮影位置に江戸時代の高札場跡
の説明版が設置されている。
  法弘山明星院(みょうじょういん)
<岡崎市市場町>

密教的な祈祷や占いを中心とした修験道の寺院である
。開運、厄難消除の霊験あらたかな願かけ寺という。ご
本尊は「不動明王立像」俗に「片目の不動」
(秘仏)と呼
ばれ、真言宗醍醐派の寺院である。
寺伝によると、山中郷の舞木に建てられた堂が始まりで
熊野那智山の末寺であった。慶安元年の藤川宿の加宿として移住した市場村の移転に伴い、延宝3年(1675)
に役行者秀悦が現在地に移転し、山伏修験道の道場と
し、三河一円の帳元であったという。
その後、天和年間(1681〜83)京都醍醐三宝院末に
改宗し、真言宗醍醐派の三河の中心的な修験道修験道
場として修験者を迎え、苦行、祈祷を中心とした「行」に
励む場所となっていた。・・・境内設置案内板引用
     
鎌倉街道遺構推定線<岡崎市市場町>
藤川町、市場町から山中八幡宮(前面左の鉄等下)への
道筋は「平安鎌倉古道」では、明星院からほぼ直線で前
面工場(ジェイテクト)を横断する説明であったが、数回
の現地調査でも農地の中に遺構を発見することができな
かった。平成28年9月10日、藤川駅から本宿駅まで徒
歩調査を行った際、念入りに現地を見渡したが手がかり
がなく、諦めて藤川郵便局横の小道を東に歩いていた時
に、水路(消火用水溜穴)掃除をしている地元の鈴木さ
ん(80数才)に何げなく尋ねると、工場の南(右)付近か
ら明星院に斜め方向に昔の道があったと教えられた。畑
の中のあぜ道を近づこうと試みたが、夏草が多く歩行困
難であった。帰宅後、グーグルアースで確認すると一部
であるが古道とも思える道があり、更に国土地理院地図
に連続する小道の表示がある。確たる証拠はないが、
地元の古老の知見を信じたい。
 
  山中八幡宮南の西入口<岡崎市舞木町>
正面と左に道があるが、右の木の下に右の写真の手作
りの案内がある。
なお、西のジェイテクト岡崎工場側から行けなかったので、
東の山中八幡社側から入って撮影した写真である。
     
旧鎌倉街道の案内<岡崎市舞木町>
この写真は07年(平成19年)3月撮影したものである。
手作りの素朴な案内板であるが、発見した時はめちゃく
ちゃに嬉しかった。作った人の思いを十二分に受け止め
ることができ、多くの方に知っていただきたい思いである。
平成28年9月現地調査の時には、かなり文字が薄くなっ
ていた。今では貴重な写真である。
 
  山中八幡宮南の道<岡崎市舞木町>
上の写真の右正面の道を進んでくると東出口付近に馬頭
観音等二体が安置されている。奥の像に大正七年と刻ま
れている。中世の鎌倉街道と時代が違うが、最近まで道としての歴史があったことが証明されている。
 (撮影日時が9月10日であったため、像につる草が絡ま
り七年が九年に見えた。この後、地元池金町在住の小林
さんにお会いでき、七年であることが判明した。また後日、
自家出板されている「鎌倉街道はどこに」の冊子をいただ
きました。山中学区を中心とした範囲ですが、内容が濃い
ので参考にさせていただいています)
     
山中八幡宮南の道東出口<岡崎市舞木町>
森を抜けると山中八幡宮参道の灯篭や家屋が見える。
しかし高低差があるため、道は右に折れ、竹藪の脇をとなり、左なりに進むと、右の写真の車庫の下の道にでる。
  山中八幡宮南の道東出口<岡崎市舞木町>
民家の脇にある街道遺構。久しぶりに訪れ、少し戸惑った
。初めて訪問する人には、躊躇するような小道の街道遺構
である。
撮影の位置にカーブミラーがあり、山中八幡宮境内前の道で約50メートルである。


 東海道(藤川宿)の風景
藤川町は、中世と近世の二つの街道が通過していた。近世の東海道53次の藤川の宿場でもあり、街道遺
構が残されていたり復元されている。代表的なものを数点説明したい。
 
     
東海道松並木<岡崎市藤川町>
国道一号線から別れた東海道は、藤川宿までの
約1qの間、岡崎市の天然記念物指定を受けている
約90本の松並木を楽しむことができる。
  吉良道道標(きらみち・みちしるべ)
<岡崎市藤川町>

土呂町(岡崎市福岡町)、西尾(西尾市)、吉良町
(西尾市吉良町)
に出る吉良道と東海道との分岐点
に文化11年(1828)甲戌5月建立の道標がある。
     
十王堂<岡崎市藤川町>
冥途にいて死者を裁く十人の判官を祀る祠。創建年次は不明であるが、十王が座る台座の裏に、「宝永七庚寅年」(1710)の記年があるので、堂も同年と
推定されている。・・・藤川宿まちづくり研究会設置の
案内板(お堂右の高札)より引用
  芭蕉句碑<岡崎市藤川町>
十王堂の西に、風景を詠んだ芭蕉の句碑がある。
 <ここも三河 むらさき麦のかきつばた>」
     
藤川宿西棒鼻跡<岡崎市藤川町>
市立藤川小学校の南に隣接する西棒鼻跡。棒鼻
とは宿場の出はずれ、出入り口を意味するという。
ここは藤川宿の西入口となる。
  紫麦<岡崎市藤川町>
むらさき麦とは高野麦(紺屋麦)で、麦穂や茎の部分
が紫色に変色するので、こう呼ばれていたらしい。戦
後まで細々と作られていましたが、いつのまにか作ら
なくなり、幻の麦となっていた。松尾芭蕉句碑にちな
んで藤川宿に再現したいと願い、平成8年訪れた時
には、藤川郵便局が作成した「むらさき麦栽培地」の
案内板が右の畑に設置されていた。
藤川まちづくり協議会のホームページによると、国道
一号線の北側、「駒の爪」石近くの農地でも栽培され
ており、オーナー制度も採用されている。
 
     
道の駅「藤川」<岡崎市藤川町>
2012年12月オープン。平成28年6月11日(土)
のお昼時に撮影した写真であるが、人が多く、顔を
写さないように苦心した一枚です。地元野菜等の産直コーナーが人気であるが、むらさき麦入りうどん、
むらさき麦入り甘酒もあります。
  藤川宿本陣跡<岡崎市藤川町>
本陣の建物は残されていないが、周囲の観光ポイン
トを解説したパネル等が整備されている。
 
     
藤川宿「米屋」(小箱ショップ)
<岡崎市藤川町>

米屋として建てられた約150年前の建物を活用して
土日曜日の午前十時から午後三時の間、開館。手
作りの作品が販売されている。市景観重要建造物指
定の建物内部の見学も可能。
  藤川宿・高札場跡<岡崎市藤川町>
法度、掟書を記した板札を交通量の多い市場、辻な
どに掲げられた高札場跡。手前の道が鎌倉街道遺
構であり、今は先に道がないが前方の山裾の関山神
社前に進んでいたとされ、辻に設置された高札場で
あった。
また、鎌倉街道は近世になっても地域の道として使われ、人が多く集まる(通る)場所であった。
     
藤川宿・東棒鼻<岡崎市市場町>
藤川宿から東進し、国道一号線に合流直前にある
東棒鼻跡。左の小高い緑地帯は、ジェイテクト岡崎工場の北外周である。鎌倉街道遺構は、工場敷地南外周の約5百m先になると地元でお聞きしている。
  浮世絵「棒の鼻図」<岡崎市市場町>
安藤広重作浮世絵「東海道53次・藤川宿」<棒鼻
ノ図>は、東の入り口となる東棒鼻 



岡崎市東部U(舞木町・山綱町・本宿町・鉢地町)の鎌倉街道
東部Uは、
〇街道遺構が残されている舞木町及び山綱町
〇宅地開発が行われ街道遺構がほとんど残されていない本宿町
〇鉢地町から豊川市長沢町は、地元の人々が近道として利用していたが、大正時代頃から利用されなくなり街道遺構
 が残されていない。「三河の古道と鎌倉街道」(武田勇著:昭和50年)及び「平安鎌倉古道」でも、出入り口情報が無
 く、現地で里山を前にして、なすすべもなく、お手上げ状態であった。

このように東部U地区の鎌倉街道遺構の現状は探索を進めるうえで大きな壁があり、途方に暮れていた。方策を考えた
末、参考としている「平安鎌倉古道」の中で、地元の郷土史家として登場している小野田昇次さんを平成28年9月10日
に訪ねた。やはり、ご本人は逝去されており、80歳代のご子息の譲さんが外出前の忙しい時にも関わらず会っていただ
き、後日の訪問をお願いすることができた。9月25日、再訪問し、古い資料を見せていただいたり、郷土史を研究されて
いる香村迪郎さんを紹介され、その足で数軒お隣の香村さんを訪ねた。

〇香村さんの話によると、推定街道遺構は諸説あり、過去から地図に印されなかった理由の一つという。諸説の概要と
共に、住宅化が始まる前の様子を話していただいた。後日、香村さんと連絡した時に、平成26年10月、<本宿・山中社
会教育委員会等主催>「鎌倉街道を歩いて歴史を訪ねるウォーキング」が行われているが、自分は参加していなく資料を
持っていないが、マップが配布されていると思うので、入手・提供したいと申し出をいただいた。数日後、作成した関連資
料や航空写真も郵送していただいた。更に、ウォーキング・マップ作成者で郷土史を研究・調査し鎌倉街道に関心を寄せ
る小早川さんをご紹介いただいた。11月4日、香村さん、小早川さんにお会いし、航空写真等で確認しながら本宿周辺の
鎌倉街道遺構の検証・話題に話が弾んだ。その後、現場をご案内していただき、地元の人ならではの話を教えていただき
ました。三人の出会いが、私に理解できなかった山綱駅家周辺の街道遺構を私なりに推測できた力を与えていただいたと感謝したいです。

〇9月25日、香村さんにお会いした後で、鉢地町から豊川市長沢町の里山の中にある街道遺構への出入り口を探しに
現地に出向いた。鉢地側では、まったく手がかりがなく、豊川市側の<大鰻伝説の池跡>を調べるため豊興工業の東に
移動している途中に外出先から帰宅された落合工業の社長さんを見かけ、街道遺構をお聞きすると武田勇さんが設置さ
れた石碑のある場所の入り口及び「音羽町史」や「平安鎌倉古道」でキーポイントとなっているが今は廃業され場所が特
定できなかった<満腹食堂跡地>が飛鳥運送であると教えていただいた。直ぐに入り口に向かうと、教えていただいた通
りに石碑及び街道遺構の雰囲気のある道を楽しんだ。旧満腹食堂の位置も分かり、三回の探索で鉢地側の出口も推定で
きるまでになった。***この地区は次回、<豊川市の鎌倉街道>として掲載予定

〇なお、岡崎市立図書館で<鎌倉街道はどこに>という図書を見つけた。タイトルに引き寄せられ平成28年9月10日
に藤川町〜本宿町を徒歩調査した途中、いきなりの電話であったが池金町在住の著者・小林清司(きよし)さんにお会い
することができ、説明していただき、後日、お手製の冊子を郵送いただいた。舞木町及び山綱町<山中学区>の街道遺
構及び周辺情報は十分調べたつもりであったが、伝道寺近くの鎌倉街道石碑の建立者等詳細に書かれており、活用さ
せていただくことができた。


〇また、長沢町内の遺構のポイントである赤石(あかいわ)神社の奥宮(おくみや:元宮)の場所が音羽町史等に記述がなく、これも課題であっ
 た。詳細は次の<豊川市の鎌倉街道>で説明予定であるが、年中行事の大祭(9月の第一土日曜日実行)にお参りし、地元の方から教えて
いただき、里山の中を右往左往しながらも無事発見することができた。

〇遠く離れた場所で街道遺構を探索するに際しては事前に準備を行うが、小字等や隠れた歴史は知ることができず、かなりの難儀となる。今回
が、探索の難所で本当に苦労した。路上でお聞きしたことも数多くあり、親切にご案内いただきました。多くの方のご協力で、最大の難関を突破
できたと思う。証拠等なく完璧な内容ではないかもしれないが、自分に合格点をあげたい心境である。
 
     
山中八幡宮<岡崎市舞木町字宮下>
文武天皇三年(699)この地の長(おさ)山中光重が、九州
宇佐八幡宮のお告げを受け、山の嶺にかかった祥雲から
舞い下がった榊にこもった神霊を祀ったのが始まりと伝わる。
 
  鳩ケ窟(はとがくつ)<山中八幡宮>
桶狭間の合戦で今川が負けたことにより家康が独立
した初期の段階は、「一向一揆」に苦労した。ある時、戦
いに負けた家康が鎌倉街道を逃げ、山中八幡宮の傍に
ある、この洞窟に身を隠した。一向衆が洞穴に槍を刺し
た際、鳩が二羽飛び立ったことから人がいないとなり、立
ち去ったという
  
     
山中八幡宮「デンデンガッサリ」<岡崎市舞木町>
室町時代から続く古式ゆかしい五穀豊穣を祈念するお祭り
である。御田植ノ歌、牛(役)が餅を背負わされ、重すぎて牛
ですら倒れるほどの豊作を祈願する所作が主な内容である
。最後に細かく切った餅投げがある。毎年、1月3日午後2
時から開始される。
*写真は、御田植ノ歌の場面です・・平成21年1月3日撮影
  山中八幡宮「デンデンガッサリ」続き
*写真は、牛が餅を背負い、歩きまわる一場面。重いの
で奉賛会の人が支えている。このあと、倒れる場面がある
     
山中八幡宮と舞木二号橋の中間から見た
阿形橋
<岡崎市舞木町字広池>

山中八幡宮南の山を出た街道は、順念寺に向かうが、何故
かジクザグに進み阿形(あかた)橋
<田の先の橋>を渡り
順念寺南西角に突き当たる。
(平成28年11月4日八幡宮と舞木2号橋中間で撮影)
「鎌倉街道はどこに」の作者である小林さんは、田の場所に
広池という池があったり、八幡宮前には何本もの悪水抜け
用水抜きが十五か所あった。街道はそれらを避けて作られ
たという。なお、山中八幡宮から直線道路に架かる「舞木
2号橋」は新しく、前身は農業用の堰の上に板切れが2枚渡
してあっただけという。
  順念寺<岡崎市舞木町字阿形>
真宗大谷派の寺院。山中八幡宮の東にある田から小高
い位置にある。
山門にベンチが置いてあり、「どうぞ一休
みください」と書かれていた。9月10日の暑い中を歩いた身
に涼しい風が吹いてくれました。嬉しい心遣いに感謝。
     
阿形(あかた)地蔵<岡崎市舞木町字阿形>
子守地蔵とされ、エプロン(よだれかけ)に「Baby」の文字
が入っている。花が供えられ綺麗なお堂でした。
順念寺の一本東の道少し入った場所に安置されてる。 
  山中城址<岡崎市葉栗町>
鎌倉街道を見おろす(監視)位置にある。明大寺に館を有
、乙川の北に岡崎城を築いた西郷信貞は、 ここに山中
城を築き、東三河に対する守りを固め、西三河を制覇しよ
うとしていた。しかし、大永4年(1524)安祥城の松平清康
(徳川家康の祖父)の奇襲を受け、一夜にして落城した。
その後、駿河今川義元の西三河進出の拠点となった。
     
市立山中小学校<岡崎市舞木町字天神越>
山中八幡宮の真東約900mに位置する。街道は学校の
正門を通り過ぎ、右手に山中保育園を見て直ぐの右折す
る小道が街道遺構である。
  市場地蔵<岡崎市舞木町字天神越
山中小学校のプール際の消防施設(立入禁止と赤書きさ
れた扉の小屋)の右の小道を少し進んだ右手の岡に安置
されている。
 小道の正面は学校のフェンスとなり行き止ま
りとなる。
     
代表的な街道遺構<岡崎市山綱町>
伝道寺西の竹藪(下の写真)の北の街道遺構。若草色の
建物は山中学区子供の家である。この先は市道に出て、
直ぐに左斜めの小道が遺構である。その先に山中保育
園の横を通り小学校、市場地蔵への小道入口となる。
  
  傳道寺<岡崎市山綱町>
山中の町中にある浄土真宗(西本願寺)のお寺さんです。
正面本堂の裏が右の写真の街道遺構である
     
傳道寺西の街道
街道は山中小学校から南に向きを天神越の山すそを
進んでいる。ここは傳道寺西の写真です
 
  鎌倉街道碑<岡崎市山綱町>
山中小学校と青木社の中間に位置する<鎌倉街道と郷倉
之跡碑>。「鎌倉街道はどこに」の作者である小林さんは
、昭和50年に地元の人によって建てられた新聞記事が掲
載されており、「言葉だけでの記録では歴史的遺産は忘れ
られてしまう。これを契機に街道の研究が進めばとの願い
をこめていた」と関係者の気持ちが書かれていた。
なお、郷倉は江戸時代に農村に設置された公共の貯穀倉
庫、年貢米の一時的保管倉庫と解説されている。
     
青木社<岡崎市山綱町>
境内の社記によると
〇天水分命 ○国水分命 ○天照大御神
   を祀る。
口伝によると、旱害(日照りによる害)の時、南の扇守山の
「牛の滝」に降雨を祈り、お礼に滝の上の磐上に小祠を建て
た。その後、村里離れた不便を解消するため現在地に社を
建設し移転したという。
<文字が薄いため概要をまとめた。間違いがあればご容
赦ください>
天神越えの入口は青木社本殿の横にあります
  天神越えの出口<岡崎市山綱町>
墓地の下にある右の道が鎌倉街道である。 
     
天神越えの鎌倉街道(山中方面)
<岡崎市山綱町>
山中と本宿を結びます。現在はほとんど使われていなく、
倒木も多くありました。途中で道を間違え引き返しました。
しかし人が通らないと思われるのに、蚊が多く落ち着いて
撮影できませんでした。
  同左の画像(平成29年6月19日午後2時頃撮影)
東京在住のモノクロ撮影を趣味としているNさんを案内し、
この機会にモノクロで撮影した画像です。
見慣れた画像と異なり、先ず、印象が新鮮で、次いで光が
明確に見え、全体がしっかり見える。
     
市立東海中学校<岡崎市山綱町>
街道は直進しグランドを横断したようです
  市立東海中学校<岡崎市山綱町字下中野>
グランドを横断し、南進する市道で向きを変え推定山綱駅
家を目指す。この写真の道は、自動車関係団体の駐車場
への道であるが、行き止まりの先は、東海中学校グランド
である。
     
推定山綱駅家跡周辺の街道遺構の検証
<岡崎市山綱町字上・下平田、字中野>
「三河古道と鎌倉街道」P71で著者の武田さんが駅家と鎌
倉街道と図示された地図。住宅化が進み、解説の文のみが
ヒントであるが、確認困難であった。
***
〇「鎌倉街道はどこに」<小林清司著>で、当地区の戦後
史が書かれている。地図にない項目で草競馬が開催されて
いたキーワードが、今回、場所を推定できた要因の一つで
ある。
〇本宿町の香村さん、小早川さんとの交流のなかで右の航
空写真をいただいた。競馬場の痕跡が明確に残る。三人で
検証した結果、競馬場の位置が確認できた。
〇この二点と11月4日午前、現地調査を行った結果を突き
合わせ、検討し,右の結論を出した。***

  昭和23年の航空写真(国土地理院)で検証
<同左>

写真下の左の四角の部分は
、左の地図の元小学校運動
場である。最近では、平成23年まで竹千代温泉であった。
右の丸い輪は戦後、草競馬が開催された場所である。
問題は、左の地図では、草競馬場の場所に平吾川があり
確認できない。
〇左の地図は、平吾川の流路を駅家跡南面に接している
が、間違いで、水色の直線で結ぶのが正しい。

その膨らんだ場所が草競馬場の跡で、現在は住宅地にな
っている。その東を平吾川が流れている。
〇街道遺構であるが、左の地図では竹千代温泉跡付近で
離れており、<三河古道と鎌倉街道P73>では山津波等
で下流(南)に押し流されたようにも思われると解説されて
いる。山津波等の具体的な内容が不明であるが、平吾川
は北流しており道が南(上流)に押し流されることは考え難
い。
(緩やかな南斜面で崩落の可能性が皆無とは断定できな
いが、崩落したと仮定すると街道の痕跡は皆無で探索は
不可能となる。ただし図のように街道が分離・連絡しないま
ま放置されたとは思えない)
〇推測であるが、地図で道が離れている部分は、本来は
直線的な形の道が、下流(北)に押し流され、ややV字形に
なっていることを意味すると理解したい。
〇したがって左の地図に赤く示したように竹千代温泉跡前
から今の下平田公園付近に至り、平吾川を渡り
本宿神明
社及び鉢地町に向かったと思う。
     
元竹千代温泉前の街道遺構
<岡崎市山綱町字上中野>
東海中学グランドを抜けた街道は、国道一号線下中野交差
点から南下する市道として元竹千代温泉前に至る。ここま
では、傾斜はほとんどないが、この先は、急坂に下がり、住
宅地となるが、平吾川で行き止まりである。街道は、ここで
左折する。

  推定駅家跡周辺の街道遺構
<岡崎市山綱町字上中野>
竹千代温泉前を左折すると、左に小高い丘(推定駅家跡)
があり、道は坂道を下る。
 
     
推定駅家跡周辺の街道遺構
<岡崎市山綱町字上中野>
岡が終わると、地図に書き足した赤い街道のV字にあたる
左折の道と右なりに進む道となる。
右に進むと直ぐに平吾
川がある。
  下平田公園と平吾川
<岡崎市山綱町字上中野>
右なりに来た道は、平吾川と下平田公園に至る。遠方に
坂道の擁壁際の高木が見える。右手に本宿神明社が近
い。
 
     
本宿神明社<岡崎市本宿町>
境内の由緒記によると、天照皇大神を祀る。第十二代景
行天皇のとき(西暦111年)、蝦夷征伐の日本武尊が立ち
寄られた際、山の上に紅白の雲棚引き、しかも錦の御旗
のようであるので感激され山に登り戦勝を祈る。
法蔵寺との関係が深く、僧行基や
弘法大師が訪れたと伝わ
る。
南北朝時代、法蔵寺龍芸上人が堂中に祭祀する皇大宮を
現在地に遷し産土神として社殿を建立する。
  欣浄(ごんじょう)寺<岡崎市本宿町東木竹>
壇林二村山法蔵寺の本寺にて、浄土宗西山深草派に属
し、山号を「林光山」、院号を「厭離院」、寺号を「欣浄寺」
と称する。
法蔵時第8代融翁洞文上人は、齢53歳をもって、天正7年
(1579年)、洞元山の麓に庵を結んで隠栖した。ここは、
鉢地川を隔てて法蔵寺本堂が正面に展望できる閑静な
地で、念仏三昧の隠居生活には絶好であった。これが欣
浄寺の始まりである。東海道が開かれたのちは、庶民が
参拝するのに不便な地であるので、享保7年(1722年)、
第7代啓空序麒西堂は街道沿いの十王堂近隣の現在地
に移転し、堂宇を再建した。・・・欣浄寺HPより引用
     
本宿神明社からの道<岡崎市本宿町>
〇本宿神明社から住宅団地「グリーンランド」及び県営住
宅を縦貫する国道473号線の東(南進の場合は左手)にあ
った峠道を鉢地町に直進するルート。(団地建設で地形が
変わり道は無くなった。元の位置に新しい道が建設された
が、区画分断されており移動には不適当)住宅団地建設
時、峠付近に宝篋印塔数基があり行き倒れ者を弔ったも
のかもしれないと推測されている。
〇本宿神明社を東に進み、今の欣浄寺付近から法蔵寺
裏山(写真は大池から欣浄寺を望む)を周りグリーンラン
ドの一画の円如ケ入経由鉢地町に至るカーブ形のルート

「平安鎌倉古道」に図示されているルートであるが説明がな
く根拠が不明である。山裾を辿ったように思われる。
  二村山法蔵寺<岡崎市本宿町寺山>
浄土宗西山深草派の寺院。山号は二村山(にそんざん)
。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば大宝元年(701年)
行基によって法相宗の二村山出生寺として創建されたと
される。至徳2年(1385年) 教空龍芸により浄土宗の法蔵
寺に改められた。その後、松平初代親氏が帰依してお堂
を建立し、「法蔵寺」へ改めたと伝わる。
鎌倉街道は、現在の法蔵寺の裏山を通り、寺も街道のほ
とりにあったといわれている。
(三河の古道と鎌倉街道P159)
     
近藤勇首塚<法蔵寺内>
境内の東の墓地に、幕末、時代の流れに翻弄され、京で
処刑された、近藤勇の首塚があります。三条川原のさらし
首を同士が盗み出しし、家康ゆかりの当寺に埋葬したこと
が、当寺の本山にあたる誓願寺(京都)の旧記により判明
したとされる<諸説あります>
 
  法蔵寺だんご<法蔵寺関連>
東海道に面した法蔵寺の入口のモニュメントと「法蔵寺だ
んごの由来」を書いた高札。江戸時代中期頃から本宿の
名物として<法蔵寺だんご>が知られ、寺周辺の茶店

売られていたと解説。昭和初期まで売られていたが、なく
なった。しかし、最近は<道の駅・藤川>の屋台で販売さ
れて、モニュメントのように上下を平たくした醤油味のだん
ごが賞味できる。午後4時までの営業ですのでご注意。
     
円如ケ入(えんにょうがいり)
<岡崎市本宿緑町>

法蔵寺裏山の西にある大池(江戸時代に溜池として建設)
の上(南)にある緑町バス停。この先は、直ぐに左折し山裾
を鉢地町になだらかに下っている。
小野田昇次さんの資料にヒントを得て当地を探すことが
できた。
  鉢地(はっち)町への道<岡崎市本宿町>
住宅団地グリーンランド、県営住宅を縦貫する国道473号
線を進み最後は鉢地町牛田交差点で左右に分かれ、直
進できない。地図では分かりにくいが、高低差があること
が要因である。
右の建物は県営住宅である。また遠方左
にキーポイントの豊興工業の工場棟が見える。工場敷地
の裏側に街道遺構らしき道がある。
     
鉢地町から法蔵寺裏山の街道遺構の出口
<岡崎市鉢地町>

左の写真の反対側の鉢地川付近からの写真。左が県営
住宅で正面が法蔵寺裏山である。昔の鉢地川は高台寄
りにあったという。そうすると急斜面と下にある川
が迂回
遠回りする理由となる。街道は川上の神明社や菩提院付
近で鉢地川を渡ったという。
地元の方の記憶では、人間が通れる小橋が架かっていたと
いう。また鉢地町の集落に続く小道があり、その先に南北
朝時代に二村山法蔵寺と改称し、隆盛を図った龍芸上人の
墓所があり、人の往来を感じることができた。
  鉢地神明社<岡崎市鉢地町>
菩提院の隣接地にあるが概要は不明である。 
   
菩提院<岡崎市鉢地町寺前>
応永15年(1408)法蔵寺住職の滝芸師の開基(隠居寺)に
なる浄土宗西山深草派で阿弥陀如来がご本尊である。
  
  鉢地町から豊川市(旧・音羽町)長沢町へ入口
<岡崎市鉢地町・豊川市長沢町>

神明社や菩提院付近から鉢地川を渡り豊興工業の東南
角(正門から約50m南の敷地境界フェンスの先)にある赤
石(あかいわ)神社へ通じる近道(古道)の入口。
小野田昇次さんの資料にヒントを得て当地を探すことがで
きた。
近くの方(女性)にお聞きしたら、入ったことがないが
、近道と聞いていると教えられた。