豊橋市の鎌倉街道   
都と東国を連絡する東海道は飽海(あくみ)川と呼ばれていた豊川(とよがわ)を志香須賀の渡しで渡河していたが、鎌倉時代初期から約百年間、
平安海進(海面上昇)等により渡河地点が上流に移動した。 このことにより街道も国府付近から国分寺跡、伊知多神社、本野ケ原、豊川宿と
丘陵の裾野に移動している。
★豊川宿から豊川を渡る経路・諸説あり
〇「愛知県歴史の道調査報告書ー東海道ー」(平成元年3月31日愛知県教育委員会発行)は、P48中世で
 @豊川宿を出発して、馬場の東北辺から牧野に入り旧石原を経て、三上の北部と旧楽之筒村(楽の渡)辺の間を通り川を越して、賀茂の条里
   制水田の南方にあった伝説の緑の池(旧三上村地内、和泉式部の詩に出てくる)に沿って勝山城下を通り、権現山を廻って旧和田村の嵯峨
  城(和田城)の東に出る道。
 A豊川宿から三明寺の前を通り、当古で川を渡って旧和田村の二本松(弁慶塚)に至る後世の本坂道である。(安藤勲「豊川宿付近の鎌倉街
   道の伝承」) 
   の二説を紹介している。
〇「東三河の古道と鎌倉街道」は、<豊川宿(古宿町とされる)から河岸段丘を北に下り、三明寺前付近に出て、渡船に乗るが、渡船場の位
  置は不明であるとしている。 また、左岸(東岸)の出口は、弁慶塚、二本松と呼ばれていた本坂(姫)街道和田西としている。
〇参考としている「平安鎌倉古道」は、浪の上町矢口とする等
〇新編豊川市史は、幾筋にも分かれて流れていた豊川を常備の船、水流の少ない時は徒歩で渡り、豊川左岸の段丘をしばらく行ったところで
  大岩方面に抜け、潮見坂を通って橋本宿に至った。 豊橋市史第一巻(昭和48年3月)は、豊川宿から橋本宿(静岡県)の鎌倉街道は変遷
  があり明確にすることはできない。 等である。
豊川の流路が洪水等で何回も変遷しており、当時の自然堤防等の状況も不明であり明確にすることはできないと思われる。
 このように豊川左岸(豊橋市)の渡河地点及び周辺の街道遺構情報が少ない中、海道記は渡河後、しばらく歩いて、ようやく夜明け時となり、
薄明りの山の景色を幻影的に書き留めている。(原文には山の名が書かれていないが、東三河の古道と鎌倉街道P185で豊川宿の夜中起き
の時間と距離から石巻山を西方から見た景色と推定している)
この幻影的な景色をどうしても確認したい気持ちが強くなり、平成28年12月20日、豊川市内から三上橋、小倉橋と並行している河岸段丘
中段の牟呂用水沿いに徒歩調査した。 石巻本町字桑原で河岸段丘が途切れ、初めて石巻山が見える地点を確認した。 史料がないが、
これらの推測を繋ぎ合わせると、海道記の作者は先の桑原から戻り、しばらく歩いた場所となる上流の当古町から三上町までの間で渡河した
と推察できるが、渡河地点を特定することはできなかった。 <平安鎌倉古道の浪の上付近渡河説は、石巻山が直ぐに見えるので、海道記の
「しばらく歩いて、ようやく夜明け時となり、薄明りの山が見える景色」の条件に合致しない>
  また、海道記では「豊川を立って、野くれ、里くれ遥々と過る・・・」と民家のある道中を述べており、仮に歩いた河岸段丘中段に里が見当たらず、
気になっていた。 このため再び、平成29年1月18日、石巻山の全景が見える場所を探して豊橋市石巻本町に赴いた。 偶然にも玉川小学
校付近で出会ったご婦人(清原さん)に尋ねたところ、ご案内していただけることになり、歩いて移動している中の会話で鎌倉街道を知っておら
れ、詳しい話は知らないから地区センターで聞くことを勧められた。 やがて県道の日南坂(ぼとうざか)で民家や藪等で隠れていた石巻山が
全景で見えることを確し、その足で地区センターに戻り、鎌倉街道について尋ねると、<玉川校区のあゆみ>に記事があると見せられた。
地元の伝承等による推測であるが、豊川左岸から乗小路までの経路や豊川渡河点が分かりやすく書いてあり、満足できる資料となった。
そして、資料の内容の濃さに鎌倉街道の根強い人気を十分感じた。 また<多米校区のあゆみ>でも鎌倉街道の記事があり、豊橋市民が
鎌倉街道に関心と愛着を持っていることが分かり、街道探索人として嬉しい思い出の一日となった。
参考<豊橋市制施行100周年記念・校区のあゆみ玉川、校区のあゆみ多米>(平成18年12月25日発行)
★豊橋市から静岡県に入る普門寺峠経由説と火打坂経由説について
平安鎌倉古道や豊橋市史等は普門寺峠を越える道を鎌倉街道としている。 平成27年12月、湘南海岸と冠雪の富士山の写真を撮りに鎌倉
市を訪れた際、空いた時間を利用して鎌倉市図書館で資料探しを行った。 資料の中に<三河路に消えた「いざ鎌倉」の古道>(平成元年・
浅野浩一著:豊川市二川町在住・非売品)を発見した。記載の電話番号で、ご本人と連絡が取れなかった。 ダメ元と覚悟しつつ印刷所(アカベ
印刷)に電話すると在庫があり、入手できた。 この本を手元におき、西から東に探索を進め、平成28年末に豊橋市まで進んだ段階で先の本を
読みだした。 二川町を中心に詳細に書いてある内容に、地名や地理等が分からなく理解するのに苦心した。 地図を片手に何回も読み直す
うちに、普門寺峠経由の街道は源頼朝が通った以外に記録がなく、少し遠回りになるが紀行文に書かれている火打坂経由が鎌倉街道の
本道
であるとの説に納得できるものを感じた。 さらに、紀行文の中で火打坂の道の記述もあり 、採用させていただくこととした。
 
     
威徳山春興院 <豊橋市石巻本町>
曹洞宗の寺院で、
 永禄・元亀年間(1558-72)に和田城主・渡辺氏が
菩提寺として創建した寺である。

  和田城址(嵯峨城址) <春興院一帯>
築城年は定かではない。 永禄・元亀時代(1558〜1573年)、和田
民部、渡辺久左衛門−図書助浄−山城守の居城とされる。 詳細は
不明。 画像は春興院東の竹藪の中に残る空堀。 南北朝時代、南朝
三代目の長慶天皇が北朝方の軍勢に攻められ、各地を転々と移動し、
和田の玉川御所におられたという伝承があり、当地に嵯峨城が築かれ
たという。
   
椙本八幡社 <豊橋市石巻町>
境内の案内板によると、始まりは定かでないが、和田郷の中心で
あった和田村に古くからある神社という。 秋の例祭(今は10月
第二土・日曜日)に江戸時代から始まる綱火(つなび)が宵祭の
夕刻、行われる。
<豊橋市指定無形民俗文化財・昭和59年2月24日指定>
  








  石巻地区の鎌倉街道<豊橋市石巻本町>
豊橋市制施行100周年記念・「校区のあゆみ玉川」の第2章歴史と
生活の中の記事の要約は
当時の人々が利用した道路はいくつかあ
った。 その一つが、玉川の和田から当古へ出て、豊川の瀬渡りを
して本地ヶ原、古宿へ行くルートであった。 豊川の川筋は、古代は
何本もあったが奈良時代前後に大きな流れとなって、三明寺あたりを
流れていたと考えられている。 その後だんだんと東に移動してきた。
豊川の流れが変わるので、その都度瀬渡りのできる場所を選んで渡った
ため、和田から古宿へ行くコースがいくつもあった。
源頼朝は上洛時、雲谷の普門寺に立ち寄り、山を越えて岩崎で馬を
留めて休息し、朝倉橋を渡り、乗小路峠を越えて和田に出たと考えら
れる。 乗小路から神ヶ谷を通って日南坂を昇り、左に折れて校区市
民館の前を通過して今の姫街道に出て当古から瀬渡りして本野ヶ原に
行ったものと思われる。
  
<和田城及び高井城の概要を図示したP19掲載図であるが、
    鎌倉街道の遺構が書かれている>
     
玉川小学校と鎌倉街道 <豊橋市石巻町野添>
玉川校区市民館の北隣にある玉川小学校と右の鎌倉街道。


  日南坂(ぼとうさか)からの入口) <豊橋市石巻町野添>
県道31号(東三河環状線)の玉川小学校南交差点傍の鎌倉街道
入口。 赤いポールの部分が旧道で正面左の道を入り、直ぐに玉川
校区市民館と玉川小学校の前に出る。
  
     
日南坂(ぼとうさか) <豊橋市石巻町野添>
県道31号(東三河環状線)の玉川小学校南交差点南から石巻
山が見えた場所の地名は日南坂という。 中央灰色の壁面が環状
道路の横部分、その手前に鎌倉街道遺構と言われる旧道部分。
左のお店は地名の読み仮名を教えていただいた「柿最中」の「いず
みや製菓」である。



 






  石巻山 <豊橋市石巻町>
神田川の支流を挟んで石巻山の全景が見える。海道記の幻想的な
描写はここでしか確認できない。
<海道記>(貞応二年1223年4月十日)
 十日、豊川を立ちて、野くれ里くれ遥々と過ぐる。 峯野の原と
云ふ所あり。 日は、野草の露より出でて、若木に枝に昇らず、
雲は、嶺松
(れいしょう)の風に晴れて、山の色天と一(ひとつ)に染め
たり。 遠望の感心情つなぎかたし。
  
<山の端(は)は霧より底にうづもれて野末(のずえ)の草に
    明くる凌晨
(しののめ)
<解説>・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
十日、豊川を出立し、野となく里となく遥々過ぎると、峯野の原と
いう所がある。 朝日は野草の露から出て、若木の枝にまでも昇らず、
雲は峰の松を吹く風に浮び、山は空と同じく青色に染まっている。
遠く眺めわたす感動は、言い表しようもない。
  <山の端は草の露より下に埋もれて見えず、野草の草のところから
    夜が明けていくことだよ。>
     
牛川原人之碑  <豊橋市牛川町乗小路
牛川原人は、昭和32年(1957)、牛川町の石灰岩採石場で、1万
年以上前の更新世
(こうしんせい)地層から発見された。 東大の鈴木
尚教授の鑑定によると、(約二十万年前の旧人類)身長134.8pの
成人女性と、二つ目は身長149.2pの成人男性のものと推定されて
いる。 参考:
  縄文時代 16,500〜3000年前とされる。
  高野山真言宗赤岩寺(せきがんじ)<豊橋市多米町字赤岩>
神亀3年(726)聖武天皇の本願により行基が開いたと伝えるられる。
その後、天安元年(857)弘法大師の高弟である杲隣が再興し、後
に真言宗高野山明王院の末寺として一山十二坊を誇る大寺院と
なった。
     
路面電車<豊橋駅前〜赤岩口又は運動公園>
豊橋では、路面電車は私鉄であるが、通称・市電でとおっている。
豊橋駅前から、この「赤岩
(あかいわ)口」行きと、途中で分岐する
「岩田運動公園」行きがある。 終点まで20分、料金は一律150
円です。 <安いですよ>
この電車は古いタイプですが、環境に優しいことから人気が出て
おり、最近、欧州タイプスタイルの低床型も導入されている 
この画像は平成28年12月撮影したものであるが、食べ物の「おで
ん」と電車を意味する名称となっている。 集客
にユニークな取り
組みがなされている。 
  鬼祭り(安久美神戸神明社)<豊橋市八町通3>
豊橋市の安久美神戸(あくみかんべ)神社で毎年2月10、11日開催
される国指定重要無形民俗文化財です。 平安時代から始まると
され、鬼の播くタンキリを浴びると夏病みしないといわれる。
二日目の午後3時から赤鬼と天狗のからかいが見どころとされ、
引き続き、タンキリと飴が一斉に播かれ、境内の神事は終わる。
このあと、鬼のぬいぐるみが町内を走りまわる。 当日も市電の
走る道路を大勢の見物人を引き連れ、走っていた。
(09.2.11撮影)

     
岩屋観音 <豊橋市大岩町>
始まりは天平二年(730)行基がこの地に赴いた時、千手観音
像を刻んで岩穴に安置したと伝わる
。 以来、東海道を往来する
旅人たちの信仰を集めた。 この観音堂は山麓の大岩寺(だい
がんじ)の境外仏堂として奉仕されている。


  聖観音像 <岩屋観音境内> 
宝暦四年、東海道の吉田大橋架け替え工事を請け負った江戸
下谷
(したや)の大工・茂平、善右衛門の二人が架橋の難しさに困って、
当寺のお堂に七日間参籠し、満願の日に一筋の縄が流れる夢を見
て、川の両岸から縄を引き、水に流されるたるみから橋の勾配を算
出し、無事に工事を完成させた。 この報恩のために、明和2年
(1765)江戸下谷の講中によって九尺六寸の銅製の聖観音像が岩屋
山頂(75m)に建立された。 なお、当初の像は太平洋戦争中に供
出され、昭和26年に再建された二代目である。
     
飯村町・岩田町への道<豊橋市大岩町>
火打坂北の園芸店ガーデンガーデンから約4百mの場所から
飯村(いむれ)町方面を望む。 途中に江戸時代東海道との分岐点
となる北山交差点がある。 火打坂を通り、新所原へは、小さ
な坂道がある程度
である。 普門寺峠越えと比較すると旅人の
負担は、はるかに少ない
。 この南に火打坂があり、海道記で
<火敲坂を過ぐれば>と当地を通過したことが確認できる。
  火打坂への入口<豊橋市大岩町>
坂の名前は、付近から燧(ひうちいし)を産出したことによる。 岩屋
山東麓の火打坂(左)で西にソバ屋がある。 北からの入り口は、園芸
店ガーデンガーデン付近から江戸時代東海道から分岐する入口が
ある。 分岐点直ぐに鋳物工場がある。


     
松明峠<豊橋市大岩町>
火打坂の途中にある松明峠への道案内。 松明峠(250m)は
写っていないが右にある。 松明峠の名前の由来は、山賊が街
道を通る旅人を見張っていて、山上から狼煙を上げて仲間に知
らせたことからと伝わる。<三河路に消えた「いざ鎌倉」の道」>

***高志山・高師山について
「高師山孝」(羽田野敏雄著)に
高蘆
(たかし)ノ里あり、その辺(ほとり)二・三里にわたれる平山
(ひらやま)の大号(おおな)を全て<たかし山>といい其辺の村々、
・・二川・それより遠江国白須賀、長谷部までもみな高足ノ庄と
称ひ。 当初は三河の枕言葉であったが、二川から白須賀に続く
弓張山地(湖西連峰)の麓の低い山を指している。

  弓張山地(湖西連峰)南端麓の道<豊橋市大岩町>
江戸時代東海道から分岐した街道遺構は、左にある三ツ池の横を
通り、山地の裾野を進み、建物の先に見える高圧線鉄塔のある山
裾を左に曲がって進む。 <三河路に消えた「いざ鎌倉」の古道>は、
前方の山を左<チャンチャラ山>、右<ザラザラ山>で、チャート
(堆積岩)が散乱した悪路の街道であったと説明している。
<海道記>
 やがて、高志
(たかし)山にかかりぬ。石角(いわかど)を踏みて、
 火敲坂
(ひうちさか)を打ち過ぐれば、焼野が原に草の葉萌え
 出でて、梢の色、煙
(けぶり)をあぐ。
<解説>・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
まもなく高志山にかかった。 石の角を踏みながら、火敲坂を過ぎ
ると、焼野が原に草の葉が萌え出ており、梢の色は緑の煙をあげた
ように霞んでいる。
     
火打坂から伊寶石神社への道<豊橋市大岩町>
三ツ池を過ぎて右なりに曲がった道は、直ぐに下り坂となる。 最
初の変則交差点を左折する。 普通の住宅地の道を、約80m歩く
と<大岩の森・太田整形外科医院>の前を通る。 この後は、山
裾が見える道を約6百m先で下り坂となり、県道三号線沿線の店
舗が見える左手に伊寶石神社の鳥居前である。
  伊寶石(いぼいし)神社<豊橋市大岩町>
鳥居前の案内板によると医薬の神である少彦名命(すくなひこなのみこと)
を祭神とし天保十五年(1844)大岩村の大石新左エ門が疣(いぼ)
神社を建てたとある。 江戸時代のことであり、鎌倉時代にはなかった
ことになる。
     
社殿裏の巨岩の霊水<伊寶石神社境内>
案内板によると窪みの水が疣を取るに効用あるという。 皮膚科
専門の医師は、この状態の水は不衛生であるので使用しない方が
いいという意見である。

参考
イボとり神様・仏様

  ドンドの谷への道<豊橋市大岩町> 
伊寶石神社から山沿いの道を進むと、健康フレンドの看板がある
付近で行き止まりとなる。 細い道を山際に進むと「く」の字で低い谷を
越える。 直ぐに舗装道路に出て、直進の道を240m先は行き止まり
となり青シートの物が置かれている。 その先を覗くとかなりの高低差
の芝生斜面である。
<三河路に消えた「いざ鎌倉」の古道>では、ドントの谷と紹介し江戸
時代末期頃、豪雨による東郷内川の氾濫侵食で地盤が流失し街道
遺構もなくなったという。 左山側には道がなく、止む無く県道三号線
まで移動したが、その間も対岸に渡る道はなかった。
     
ドンドの谷<豊橋市大岩町> (地図Aの位置)
県道三号線から谷部分に進むと西側は芝張された法面、高低
差は、地理院地図によると約5mである。 奥の山際には土砂
崩れ防止の土嚢が積まれていた。
  遠江への道<豊橋市二川町・大脇町>
約180m先に道があるが、高低差があり階段が設置されている。
土砂が流出して谷となった文書等史料はないが、東西の道が谷で
分断されたように途切れている。 地図上で復旧すると街道のように
スムーズに繋がる。(地図AとBの間)
階段を上がると真っすぐな道で写真の積善会病院前、少し先の
右手に老人保健施設・尽誠会の建物がみえる。
この道は、約650mで行き止まりとなり、地図では約260m先に
道があるが、右往左往し、地元の人に聞いても分からない。
<三河路に消えた「いざ鎌倉」の古道>によると、右前方にある景
色ノ池周辺の湿地帯のため古道が消失しているという。 池は探せ
たが、やはり道が分からなく、断念し県道三号線まで移動した。 
     
遠江への道<豊橋市雲谷町>(地図Bの東位置)
大脇町で行き止まりとなった道は、地図では約260m先にある島
病院から道が始まる。 東側も島病院の駐車場から確認したがフェ
ンスの先は踏み入れることができない草地であった。
<三河路に消えた「いざ鎌倉」の古道>によると、左方にある景色
ノ池周辺の湿地帯のため古道が消失しているという。 池は探せ
たが、やはり道はなかった。 B箇所は通行不可能で、県道三号線
まで迂回することになる。
<右蘭の蘭冨士記の解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
二子塚という所で、富士山を初めてご覧になったとおっしゃって、
 二つと類のない富士を見初めた道中の名を、なんで二つある二子
(ふじ)塚というのであろうか。
 この和歌に続けて、また御返答した歌
 今日の旅の行く先にある二子塚、そこから富士山を見初めたのは、
まさに二子
ということで、互いに深い契りがあったためでしょう。
  二子塚<豊橋市雲谷(うのや)町>
県道三号線大脇交差点から約350m移動し、次の雲谷交差点から
山側目指して進むと二子山(二子塚)とその間を抜ける峠道がみえる。
乗小路という名であるが地元の人は、乗越し(のっこし)と呼んでいる。
地図B方面は、中間に「エホバの証人・東海ホール」があり、その案
内看板が比較的大きく左側にあり、分かりやすい。


<覧富士記> 
(永禄4年(1432)歌僧堯孝)
 二子塚と申し侍りし所にて、富士をご覧じ初
(そ)められたるよし
 仰せられて、たぐひなき富士を見初
(みそ)むる道の名を二子塚
 とはいかでいはまし これについで、また申し入れ侍りし契り
 あれや
今日の行く手の二子塚ここより富士を相見初
(あいみそ)めぬる
     
立岩<豊橋市中原町>
県道三号線に隣接し東海道新幹線から見える小高い岩山。 標
高は国土地理院地図で78メートル、昇り口の標高は31m、約
50m近い高さである。 上部は、岩山で素人が昇ることは不可能
と思われるが、裏側(右)から岩場近くまで近づくことができ、何とか
よじ登ることができた。
  二子塚近辺からの富士山<立岩頂上>
「覧冨士記」の富士山が見えた場所は、二子塚周辺とある。 道が
ある峠からは樹木があり見えない。 しかし立山山頂であれば見る
ことができる足利義教(よしのり)の富士遊覧の旅は、歌の内容どおり、
この道を通ったと思われる。(17.02.15撮影)
<左から二本目の鉄塔の上に富士山が薄く見える>



 頼朝が通った道
平安鎌倉古道」 、豊橋市史第一巻(昭和48年3月)等主な資料は、普門寺峠越えの道を鎌倉街道として説明している。 しかし紀行文では
弓張山地南麓の火打坂や二子山(二子塚)を歌に詠みこんでおり、普門寺峠経由の街道経路とは想定できない。 普門寺峠経由説は、建久
元年(1190)、源頼朝が上洛時、普門寺を再興した叔父の化積上人を訪ねた伝承によるものと思われる。 この伝承は、吾妻鑑に記録がなく、
上洛から340年を経た天文3年(1534)に書かれた「三州船形山普門寺梧桐岡院之縁起由来」に宿泊したことを記した文献によるものである
という。<出典:三河路に消えた「いざ鎌倉」の古道>
周辺に源頼朝の伝承があり、通ったことを否定するものではないが、紀行文等の作者や旅人が普門寺峠の険しい道を通らなくても、少し遠回り
となるが、ゆるやかな坂道の火打坂経由の山麓の道を歩いたと思う。 次に、普門寺峠越の道を<頼朝が通った鎌倉街道>と限定し案内したい。
     
鞍掛神社<豊橋市岩崎町
もとは南の米山に祀られていた米山大明神(鞍馬大明神)が文治
四年(1188)に今の地に移ったものである。 源頼朝が都にのぼる
時、ここを通り、その愛馬の鞍を奉納して武運長久を祈願したので、
それ以来「鞍掛神社」と名を改めたと伝えられている。
赤岩寺と多米小学校の南にあたる 
  頼朝公駒止の桜<豊橋市岩崎町>
鞍掛神社を東に進み、川を渡るとT字道路となる。左(東)に進むと、
画像の[ゆめのこ幼稚園」が正面に見え、建物の東の川岸の小
公園の一画にある

     
豊橋自然歩道(普門寺コース) <豊橋市雲谷町>
普門寺峠手前の自然歩道。岩に倒木がある、一番悪条件の
場所である。
 
  船方山普門寺豊橋市雲谷(うのや)町
神亀4年(727)、船形山の霊気を感じた行基が開山したとされる。
平安時代末期に、比叡山の僧侶からの焼き打ちにあったが、源
頼朝の命により、頼朝の叔父にあたる化積上人が再興した
     
鹿島神社豊橋市雲谷町
武甕槌命(たけみかづちのみこと)、応仁天皇を祭神とし、聖武
天皇の神亀年中(724〜8)の創建という。
 
 
  八幡神社<静岡県湖西市梅田>
社伝によれば慶長8年、遠江、三河の国境なる此の地に、女河
八幡宮の御分霊を奉斎したものと伝えられる。
<静岡県神社庁HPより引用>
  
     
 行者道<八幡神社境内>
八幡社拝殿前にある行者道の案内
 
  行者様<八幡神社境内>
八幡社から約十分で行者様と呼ばれている「石像」の前に至る。
詳細な情報がないが、頭巾を被り脛を出しているので、修験者
の役行者(えんのぎょうぎゃ)と思われる。 冬至前後に行われる奥
三河の花祭りは、鎌倉時代末期から室町時代に熊野や白山の
修験道の影響(交流)があるといわれる。 当地の街道も交流の
道の歴史があるかと思わせる。 
     
臨済宗大碓山法源寺<湖西市梅田>
街道は、このお寺の前の道を西北から東南に斜めとなるが農地
改良がされており、遺構はない。
 この右に微笑(びしょう)保育園
があり、静岡県道334号線から
  新所原駅静岡県湖西市新所原3>
静岡県の西入口となるJR新所原駅。
 浜名湖北岸を巡る天竜浜
名湖鉄道新所原駅が左隣りにある。
東からの街道は、新所原駅の東にある「天竜浜名湖線」跨線橋から
北進する。 ここには、平成20年10月まで歩道橋があったが、道路
改良工事のため撤去されており、景色が変わっていた。


古代・平安の東海道<鎌倉時代前期を除く> 
都と東国を連絡する東海道は飽海(あくみ)川と呼ばれていた豊川(とよがわ)を志香須賀の渡しで渡河していたが、鎌倉時代初期から約百年
間、平安海進(海面上昇)等により渡河地点が上流に移動した。 このことにより街道も国府付近から国分寺跡、伊知多神社、本野ケ原、
豊川宿と丘陵の裾野に移動している。 そして、再び、渡津宿経由に戻る時期を東関紀行(仁治3年1242)は、<最近、急に渡津の今道と
いう方に旅人が多く向かう>と道の経路が変わりつつあることを書いている。 東関紀行の作者が豊川宿と渡津宿を連絡する鎌倉往還を歩
いたかは不明であるが、経路としては短縮でき利用者は多かったと思う。 なお、今道とは、陸地化が進んだ場所に橋まで行ける道とされる。
橋の新設時期として、承久の乱に大軍を率いて上洛し、その後は探題として京に滞在し京・鎌倉間の迅速化を痛感した北条泰時が執権と
なった貞応三年(1224)頃と推測されている。 北条泰時は、本野ケ原に道しるべとなる柳を植えさせた人物である。
       ・・・豊橋市史第一巻(昭和48年発行)
     
瓜郷(うりごう)遺跡 <豊橋市瓜郷町>国指定史跡
約4qの広大な豊川の沖積地の中でも周りよりやや高い自然
堤防の上にあった。 ここでは弥生時代中期(約2000年前)
の土器等が発掘されている。 豊川の自然堤防や中洲が複
数でき、それらが連結し、陸地化が進んだ。 中世の頃、東側
に本流、それ以外に数本の細流となった。 細流に架橋され、
本流は渡船の時代を経て、鎌倉時代の貞応三年(1224)頃
とも推測できる。  ・・・豊橋市史第一巻(昭和48年発行)
  吉田城址<豊橋市今橋町>
永正2年(1505)、今川氏親(うじちか)の命を受け、豊川の一色
城主・牧野古白により今橋城が築かれたことに始まる。
<渡津からの渡船の船着場が周辺にあった。 築城工事により、
船着 場の遺跡等が消滅した>
この時の対抗勢力は田原の戸田氏で、今橋城より東にある二連木
城の城主であった。 大永2年(1522)、今橋は「忌橋」と重なるため、
吉田と改名され、吉田城は戦国時代の争乱の中で、今川、武田、
松平(徳川)ら戦国武将により激しい争奪戦が繰り広げられた。 



 古代東海道
大化の改新を契機に、朝廷は地方統治の円滑化を図るため、官道の整備を行った。 初期段階の官道の資料は無いが、平安時代(927)に
完成し、施行された「延喜式」により七道駅路の概要を知ることができるようになった。
ただ、これらの記録だけでは、経路となる駅路の正確な姿を知ることができなく、約400箇所とされる駅そのものの場所さえも大部分は不明
である。 愛知県を東西に縦貫していた古代東海道は、馬津(まつ)駅<津島市松川>、新溝(にいみぞ)駅<名古屋市中川区露橋>、両村
(ふたむら)駅<豊明市沓掛町>、鳥捕(ととり)駅<岡崎市宇頭町>、山綱(やまつな)駅<岡崎市山綱町>、渡津(わたつ)駅<旧小坂井
町平井>の6駅があるとされるが、場所未定で全て発掘未調査である。
この街道経路について、豊橋市史(昭和48年3月)第一巻のP263で、「渡津を経て飽海渡(しがすがの渡)を渡り、坂津、往完(環)町、高師
を通って浜名橋にでた」と推測している。
豊橋市二川町在住の浅野浩一さんが平成元年自費出版された<三河路に消えた「いざ鎌倉」の古道>で、上記の町名をあげて、現在も県
道386号<平井・牟呂・大岩線>として使用されていると紹介している。 地図での説明がないので、平成29年6月29日、午前10時からJR
二川駅を出発し、牟呂町坂津を目指して現地調査を行った。その結果は
〇平安時代は葦(あし)の茂った荒野といわれた当地の道の遺構等は、当然残されていなく、想像することも困難である。 東海道本線及び東
  海道新幹線を跨ぐ北岩跨線橋から 愛知大学周辺までは上の県道386号で探索することができた。
〇県道386号は伊良湖街道(国道259号)で、少し北上し、時習館高校南を西に進む。 西北の往完町や牟呂町に向かうには、愛知大学西
  北の高師口交差点から県道502号を進んだ。 史料はないが、愛知大学の敷地か周辺が古代東海道の遺構であった可能性が高い。
〇昭和43年に入学式、その数年後、ゼミの夏合宿で数日利用しただけの名古屋校舎の学生時代であった。 当時は、戦前から利用されてき
  た木造校舎が多く、古い、野暮ったい記憶であった。 今回、街道探索の名目(中継地)で豊橋校舎を訪問することができたが、女子学生が
  多く新しい校舎も多いが、緑が多いという印象であった。 2017年度の入試実蹟は、一般入試で3.3倍、入学者は学部合計で約2,200人
  強、内女子が約1,000人とお聞きしているが、女子学生が多いことを実感できた一日であった。
〇豊川(飽海川)渡河地推定地の牟呂町坂津まで、無事歩くことができたが、湊(みなと)に関係が深い観音霊場の碑は確認できたが、具体
  的な情報を入手できなく、単なる報告程度の内容となった。自分も含め、今後の探究者に期待したい。
参考
高師の地名の文献登場について
〇平安時代に編集された「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」で「高蘆(たかし)郷」と記載
〇鎌倉時代に伊勢神宮の神領三河三八か所の一つとして「内宮 高足御廚(たかしみくりや)」 と記載
              ・・・・豊橋の史跡と文化財(豊橋市教育委員会編集・発行・初版 昭和56年)
〇江戸時代の神官で国学者である羽田野敏雄は、高師山は本来三河の地名であるが、歌などによって汐見坂から東北に連なる遠江の山を
  もいうようにななったと発表。・・・濱名の渡りと鎌倉への道(2001念7月発行、加茂豊策著(浜名郡舞踏町))
     
坂津観音霊場碑 <豊橋市牟呂町境松>
高野山真言宗の寺院で、三河准四国八十八ヶ所霊場41番札所。


  三ツ山古墳 <豊橋市牟呂町字坂津>
台地の端に築かれた全長36m、後円部分の径は19mの前方後
円墳で、三ツ山児童公園の中に1基だけ残されている。 かつて
は周辺に6基の小古墳があったという。
 
     
牟呂八幡宮 <豊橋市牟呂町字郷社>
文武天皇元年(697年)の創建と伝えられ、「従五位牟留天神」を
祀っていた。 
文治2年(1186年)、牟呂天神境内に武神として
八幡大菩薩を併祀した。 建久二年(1191)鎌倉から八幡神を
勧請した。 貞応元年(1222)鎌倉幕府の命により鶴岡八幡宮に
ならい改装をし牟呂八幡宮となった。
<境内鳥居前に設置案内版より引用>




  「ええじゃないか」発祥の地 <牟呂八幡宮>
塔前にある白い説明版によると
江戸時代末期の慶応3年(1867年)7月14日、牟呂村の大西に
外宮のお札が降った。 村で相談の結果、文政13年の行われた
お鍬祭にならって二夜三日の祭礼を行うことになり大西の総代が
お札を捧げ牟呂八幡宮に向かった。 村の人達はお揃いの衣装
で「参百年は大豊作」の古歌を唄いながら踊りたわむれた行列は
所々で手踊りがあった。 社前に幟をたて、人々には樽酒をふる
まった。 その後、牟呂村では各社でお札が降った。 これを機に
お札降りに伴う「ええじゃないか」のから騒ぎは次第に各地に広ま
っていったという。
     
愛知大学豊橋校舎副門 <豊橋市町畑町1−1>
正門の写真も良いが、左に近代的な学生会館が映っており、
学生も少しではあるが見えており、この副門を採用した。 門の
右脇が豊橋鉄道の「愛知大学前駅」で交通至便である。 正面
は美術部作成の第52回文化フェスティバルの案内
ポスターで
ある。 なお、平成29年11月4日(土)に愛知大学同窓会全国
総会が、この豊橋校舎で開催された。 参加できなかった方にも、
昔のイメージを一新した新しい大学を見て欲しいと思う。
お問合せ先:愛知大学校友課 TEL0532−47−4143
東亜同文書院の正門
1901年(明治34年)、中国・上海に日本人の手によって設立。
1939年(昭和14年)、東亜同文書院大学
に昇格。
1945年、第二次世界大戦の終結により閉校。
東亜同文書院大学からの引揚者を中心に、1946年、旧大学令
により愛知大学が設立される。 
校名は、「知を愛する」大学を目
指して命名された。 今日までに14万人を越える卒業生が日本や
世界で活躍されている。
  ・・・創立70周年記念誌から引用(写真を借用)
      
愛知大学探検マップ <豊橋校舎>
正門の受付で見学をお願いしたら、いただいた「案内マップ」。
A3サイズの二つ折りで字も大きく見やすい。
右下のマップの文字の下に漫画研究同好会原画作成とあり、
学生のアイディアが活用されている。 裏面は、設立趣意書
(現代語訳)と昭和21年11月15日付け内閣総理大臣吉田茂
の認可書(写し)等が掲載されている。
  自由受難の鐘 <豊橋校舎内>
自由と知を愛する象徴として豊橋校舎の中心部になる図書館前に
設置。 現在も写真のように見ることができる。



  
     
岩西跨線橋 <豊橋市西幸町>
古代東海道の遺構に近いと推定される県道平井・牟呂・大岩
線が火打坂方面に進んでいた箇所。 新幹線布設時、ここから
火打坂までの大部分が敷地となり、代わりの施設として跨線橋
が建設された。
 このため当時の姿がまったく想像できないもの
となっている。

  高足道(たかしみち) <豊橋市大岩町高足道>
<三河路に消えた「いざ鎌倉」の古道>で、著者の浅野さんは、
二川駅に近い新幹線の橋脚に「高足道」の表示があることを紹介
し、古代東海道の一部分のように説明されている。 在来線の
線路脇には、伊良湖街道踏切名で事故報告の案内がある。 
さらに、この道の前方は東三河環状線となり梅田川に並行し、市
史等での経路と離れている。 大岩町内の大字であり、古代東海
道との関係を示すものではないと思う。