名古屋市中川区及び中村区の鎌倉街道   12345
 
紀行文の萱津東宿・熱田の宮
萱津宿から庄内川を渡った鎌倉街道は、現在の名古屋市中村区宿跡町、東宿町とほぼ直線で東進し、東宿の明神社から南下後、直ぐに
東進し、中村日赤前から東南に向きを変え中川区愛知町、露橋町と続き、中川運河の小栗橋から東に向きを変え、古渡町に到る。  中村
公園東の日比津町から中川区高畑町まで旧庄内側の堤防であった微高地があり、これを利用したことが分かった。  しかし現在は、都市化
が進展し、街道の遺構を探すことは不可能となっている。 街道は、古代東海道の駅家<新溝=にいみぞ>があったと推定される古渡町から
東進と南進したとされる。
○古渡を東に進み東別院近くの葉場公園付近から年魚地潟を舟で昭和区村雲町や瑞穂区船原町に渡り、大喜から東進し中根周辺で  向きを
  変え  南区大堀町<夜寒の里>から野並に向かった。 
<上の道>古代は中根の東の島田まで大回りしたようだ。
○古渡を南に進み熱田神宮第一神門を通り抜けた、夜寒の里付近から船で松巨(まつこ)島の白毫(びゃうごう)寺の下に渡った。
<中の道>
  干潮時は徒歩で渡ることもできた。 なお、上の道からも大喜、井戸田と進み、舟で松巨島に渡った旅人もあるようだ。
○中世後半頃には、白毫(びゃうごう)寺から松巨(まつこ)島の中腹を南進、笠覆寺(りゅうふくじ)=笠寺観音の南で東進、狐坂、旧一里塚に出
  たのち年魚地潟対岸の三王山に渡り伝治山(嫁ケ茶屋)で合流した。 
<下の道> 江戸時代東海道の道筋に近づいている。
  熱田神宮は大社であり、
(しかも鎌倉街道が一の鳥居近くにあることから必然的に)三大紀行文の作者全てが訪れて、恭しく参拝・祈願して
  いることが記録されている。
十六夜日記の阿仏尼は、熱田社に和歌五首を奉じて、勝訴を祈願している
東関紀行は、熱田宮をねぐらにする多くの鷺が梢に収まる様子を雪が積もるようであり、やがて暗くなるにつれ鳴き声は小さくなるが、静寂な
境内に声なき声が聞こえるようであると描写している。 そして神社のご神体は大和武尊所有の草薙の剣であると熱田社の由緒を披露している。
海道記は熱田社の前にて、ひざまずいて来世成仏を祈願している。
     
女郎塚 <中村区宿跡町>
鎌倉古道は、あま市甚目寺町下萱津の三ノ宮神社付近から庄内
川を渡り、名古屋市中村ポンプ場<宿跡町>付近に到る。
ポンプ場北側に道があり、この道沿いに墓地があり、中央に女郎
塚と呼ばれる墓石がある。 宿場の飯盛女が葬られたという。 撮影
したのが早朝のため朝日で石仏が金色に見える。
この場所へは、豊公橋の東にある本陣六交差点を南下し、二番目
の信号「東宿北」交差点を西に進むと直ぐである









 
  (みょう)神社 <中村区東宿町>
先の交差点「東宿北」交差点を東に進んだ場所にある。 中村公園
の木々が直ぐ近くに見える。 境内にある神社由緒によると、創建は
鎌倉時代の建歴・貞応年間(約780年前)に熱田神宮摂社大和武尊
を鎮守産土神として勧請したもので、当時鎌倉街道(小栗街道)が通じ、
京鎌倉間の宿駅として栄えた頃の社である。 仁冶三年(1242)秋、
源親行京都より鎌倉に下る。
紀行文に
東関紀行」という名著がある。書中の一節に
「萱津の東宿社の前を過ぐれば、そこらの人あつまりて、里もひびく
ばかりにののしりあへり。 今日は市の日になむぞといふなり。」
「往還のたぐい手毎に空しからぬ家土産もかの「見てのみや人にかた
らん」と詠める花の形見には様かはりて覚ゆ。 花ならぬ色香も知らぬ
市人のいたづらならでかえる家づと
 <花の色香も解さない無風流な市人が、空手でなく実質的な土産
  物を携えて家路へ帰るよ>
  古渡を過ぎ、熱田の宮に参詣でぬ ・・・境内の由緒より引用
 
     
中村公園・豊国神社 <中村区中村町>
中村公園の中心は豊臣秀吉を祀った豊国神社である。明治18年
の創建で、出世、開運、茶道、建築などに御利益があるといわれて
いる。 旧正月の御誕祭、5月18日の例祭(太閤祭)の日曜日に
出世稚児行列が盛大に行われる。

本殿東側に豊臣秀吉生誕地の石碑が建立されているが、中村中
町<下中八幡宮>出生説も根強い。 なお中村公園東隣りに加藤
清正生誕の地碑がある妙行寺(みょうぎょうじ)がある。
  油江(あぶらえ)天神社 <中村区中村町2>
中村日赤に近い西側に位置する。境内の案内によると、御祭神は
少彦名命(すくなひこなのみこと)で、神話では大国主命と協力して
国土開発にあたったとされ、一般には「医薬の神様」として親しまれて
きた。 かっては多くの人々が菜種油を奉納し、油を塗って痛みの去
るのを願った。 神社創建年次は不明であるが、貞治三年(1364)奥
書の「尾張国神名牒」には従一位上油江天神と記載されている古い
神社である。
     
小さな小栗橋 <中村区中村町>
油江天神前の二本南で中井筋緑道(旧惣兵衛川)の場所にかって
小栗橋があった。 ここでの古道は東西に向かっていた。西は明神
社を南に下った草薙町、東は中村日赤から中村保健所に曲がり
ながら南下していった。 中井筋緑道は中村日赤傍の散策道。
小栗橋の銘版は、柵の下部にあったが、再確認した結果、現在は
腐食落下し無くなっていた。
平成25年7月確認 
  元一里塚跡・中村保健所 <中村区名楽町4>
古道は小栗橋から中村日赤・その南にある中村保健所西と進んだ。
北向きに撮影した画像で、前方白いビルが日赤である。 参考資料
には、一里塚跡とあるが、中村区史、中村区の歴史にも記述がなく
詳細は不明である。
 





 
     
中村天神社 <中村区中村町3>
古道は中村保健所から太閤通六丁目交差点に向かうが民家が
立て込んでおり、現状は探索不可能である。 ここは主要道路で
ある太閤通の一本北・ガスト裏になるが、幸い、駐車場となって
おり道から稲荷社の赤い鳥居が見え目印となっている。
境内の案内によると、当初は名古屋城清水御門の杜にあったが、
明治43年10月25日、当時の愛知郡中村郷日比津字野合の守
護神として遷座される。 以来、勉学の先達として地元住民の尊崇
の中心となってきた


  金山神社 <中村区長戸井町1>
古道は中村天神社東から太閤通6交差点を南進、中村郵便局そ
して黄金中学(熊野町)西・カーマホームセンター名古屋黄金店東を
南下する。 ここから東進し深川町3(黄金陸橋北口登坂路東)から
南進して長戸井町3から関西本線及び近鉄名古屋本線を渡るが、
橋や線路の構築物と狭い道路事情で探索は不可能であった。
金山神社の祭神は南宮大社から分霊勧請された金山毘古神で寛文
年間(1661〜1672)の寺社志に尾張国則武庄米野村に金山祠有と
記載されている。 昭和2年名古屋駅拡張・鉄道用地(向野橋南坂
付近)となったため現在地に移転した

     
向野橋(こうやばし)と名古屋駅の遠景<中村区長戸井町1>
中村区長戸井町と中川区愛知町を連絡する向野橋から撮影した
名古屋駅方面の遠景。 中村区魅力マップによるとこの橋は、トラ
ス式でかって京都の保津川に架かっていた鉄道橋を移築したもので
ある。 自動車も通行可能な橋であるが、老朽化により歩行者と二
輪車専用となっている。 なおトラス式とは、細長い三角形に繋いだ
部材で橋桁が構成された橋である。
  安井山善行寺 <中川区愛知町>
向野橋東側は運河通に挟まれた区域で狭い路地ばかりであるが、
運河通と中川運河の間も同様に狭い路地で簡単に道の説明を行う
ことは困難である。 豊成団地の南、平和堂の南西運河通一本奥に
善行寺がある。
寺の詳細は不明であるが、この北側に神明社・熊野社合殿があり、
古道はこの間を通っていた
 

     
神明社・熊野社合殿 <中川区愛知町>
当社は、一見すると普通の神社であるが、鳥居横に神社銘が彫ら
れた石柱が二本あり、右に「熊野社」、左に「神明社」となっている。
県内の熊野神社を現地調査したことがあり、平成18年6月当地
にて地元の方から聞いた話では、本来は熊野社であったが、江戸
時代に神明社(お伊勢さん信仰)が盛んになり、合祀されたらしい
との説明であった。
  小栗橋 <中川区月島町・広川町2>
古道は善行寺と神明社の間を東に進み、中川運河に架かる小栗橋
に出る。 この画像は小栗橋から西方を撮影したものであるが、前方
の大きな建物が豊成団地である。 善行寺は左先となる。 橋の名前
の小栗は歌舞伎や狂言の小栗判官を指す。 鎌倉街道と縁があり、通
称「小栗街道」とも言われる由縁である。 橋の先の地域も、かっては
小栗町であったらしいが、現在は月島町と変更されている
 
     
鈴木バイオリン <中川区広川町>
小栗橋東に明治21年(1887)日本人で最初にバイオリンを制作
した鈴木政吉さんが創業した鈴木バイオリン製造鰍ェあります。
創業者の何ともいえない魅力のお顔です

  <H31,4現地に行きましたら、工場等が撤去され更地になって
   いた。 ネットで調べると本社を千種区に移転情報がありました
   ので、画像等を整理しました。
  小栗橋から露橋に向かう古道 <中川区露橋町>
小栗橋から更地になった鈴木バイオリン前を露橋・古渡に向かう
古道。 蔦が茂る工場は無いが、この先で左折するのが街道遺構
である。 


     
古道の横道 <中川区露橋町>
鈴木バイオリンを直進した道。街道ではないが雰囲気が良いので
撮影しました 
  露橋神明社 <中川区山王3>
露橋の住宅街を抜けた古道は、名鉄名古屋本線高架に突きあたり、
左に移動し山王駅(旧名古屋球場前駅)横の道から山王通、古渡交
差点に向かう。 古道は山王通の一本南となる。露橋町に神明社が
ある
     
(くらがり)之森八幡社 <中区正木2>
祭神は応神天皇、仁徳天皇、神功皇后である。 江戸時代の書
「尾張志」では創建を源為朝としており、本殿の西に為朝愛用の
武具を埋めたといわれる鎧塚が残っている。
  山王稲荷社 <中区正木1>
国道19号(伏見通)と山王通が交わる古渡交差点西南に稲荷神社が
ある。 境内の由緒書によると、元は江南市にあったが江戸時代に移
転されたとある。
 
     
山王稲荷社・犬見堂 <中川区広川町>
稲荷社の山王通に面した北入口である。 名古屋市教育委員会
の説明版が設置されており、「尾張徇行記」によると、鎌倉街道の
道筋は、萱津宿から庄内川を渡り、東宿から、上中、米野、露橋、
古渡地内に出て、稲荷祠と犬見堂の間を経て、その先、大喜、高
田(又は昭和区村雲町)へは舟で渡り、井戸田、古鳴海に抜けると
説明されている。
稲荷社と山王通敷地にあった犬見堂の間を東西に走り、この稲荷
社の西側を南に折れ、直ぐに西進したという。 なお、ここでは触れ
ていないが、中世紀行文の十六夜日記、海道記、東関紀行の行程
は、熱田の宮から年魚市場(あゆちがた)経由野並、古鳴海への行
程である
 
  熱田神宮第一神門跡 <熱田区新尾頭2>
国道19号(伏見通)と八熊通が交差する新尾頭交差点南西近くに
ある碑。 文字面は車道側のみである。






     
高座結御子(たかくらむすびみこ)神社 <熱田区高蔵町>
俗に高蔵の森、高座さまと呼ばれ、子育ての神として信仰を集めて
いる。 祭神は高倉下命を祀る熱田神宮の摂社で延喜式内社で
ある。  ・・・市設置案内板より
  夜寒(よさむの)里跡 <熱田区夜寒町>
熱田神宮の北から高座結御子神社の南部に至る一面に広がった
年魚地潟を見渡せる高台で、かっては眺望の良い別荘地であった。
 (熱田ぐるりんマップ) 渡船場利用の史実は確認できないが、熱田
志に「高蔵宮の辺より」大喜村に向かうとあり、熱田の拠点の一つと
推定したい。 
中央に名古屋市教育委員会が設置した説明版がある。
   
源頼朝生誕地(誓願寺) <熱田区神宮西>
この場所は平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったとこ
ろである。 藤原季範の娘由良御前は源為朝の正室となり久安三
年(1147)身ごもって熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだ
と伝わる。   ・・・案内板より






  熱田神宮 <熱田区神宮1>
第12代景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の帰路に尾張に
滞在した際に、尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の娘・宮簀媛命
と結婚、その後、伊吹山の神を素手で討ち取ろうと草薙剣を紀の手
元に置き出立つする。 白い大猪(古事記)とか大蛇(日本書記)に
化身した伊吹山の神を無視し、大氷雨を降らされ病となり下山するが、
煩野(亀山市〉で亡くなる。 紀の簀媛命は熱田に社地を定め、剣を
奉斎鎮守したのが始まりといわれる。
景行天皇43年創建と伝えられており、平成25年5月8日に「創祀
千九百年大祭」が行われた。 祭神は天照大神、素盞嗚尊、日本
武尊、宮簀媛命、建稲種命と草薙剣に縁のある神が祀られている
信長塀
織田信長が桶狭間合戦での勝利を祈念し、寄進した塀である。 
土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねている。 三十三間堂
の太閤塀、西宮神社の大練塀と並ぶ日本三大塀といわれている
 
   平成31年4月28日午前11時頃の境内の様子。
<十六夜日記>
 廿日 尾張国下戸といふ駅(うまや)を行く。避きぬ道なれば、
熱田の宮へ参りて、硯取り出でて書き つけて奉る歌五(いつつ)
                          阿仏尼

<二首をご紹介します>
  ○祈るぞよわが思ふこと鳴海潟かた引く潮も神のままに
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)

 
お祈りすることです。私の願いが成ることを、鳴海潟に引く
潮も神の思し召しという御霊験ですから。
「かた引く」は味方する、また潮が引いて干潟になることとも言う。

 ○雨風も神の心にまかすらんわが行先の障(さはり) あらすな
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)

 
お雨風も神の御心のままなのでしょう、(ですから)私の前途に
障害ないようにお願いします。
 


   <海道記>
八日、
萱津ヲ立(たち)て鳴海浦に来(きたり)ヌ。熱田宮ノ御前ヲ過
(すぐ)レバ示現利生(じげんりしやう)ノ垂跡(すいしゃく)ニ跪
(ひざまづい)テ、一心再拝ノ謹啓ニ頭ヲ傾(かたぶ)ク。

<解説>
・・・ホームページ
朧月庵「中世の東海道」
           から引用させていただきました。
 萱津を出発して鳴海の浦にやってきた。熱田の宮の御前を通った
ので、この神宮の前にひざまずいて来世成仏の良縁を祈る。


<東関紀行>
尾張国熱田の宮に到りぬ。
有(ある)人のいはく、此(この)宮は素戔嗚尊(すさのをのみ
こと)也。 はじめ出雲国に宮作り有り。 「八雲立(やぐもたつ)」
といへる大和言の葉も、是よりはじまれる。 其後、景行天皇の
御代に、この砌(みぎり)に跡をたれ給へりといへり。
又いはく、この宮の本体は、草薙と号し奉る宝剣也。景行の御子、
大和武尊と申(もうす)、戎をたいらげて帰り給ふ時、尊は白鳥と
成(なり)て去給(さりたま)ふ。剣は熱田にとまり給ふといへり。