大垣市青墓地区の鎌倉街道推定図  
 
紀行文の杭瀬宿
大垣市青墓地区は中央の青野原の水田地帯と北部に丘陵地、東部に杭瀬川を控えた限られた地域である。しかし青野町
には美濃国分寺が建てられたり、青墓町には規模の大きな古墳が多数みられる等、豊かな地域であった。不破の関から
垂井、青野、そして濃尾平野や東山道を経由した東国との街道の結節点でもあり、源氏との深い関係がある地区である
中世時代の杭瀬川は、現在の揖斐川本流であり大河川であったので、杭瀬宿があり、紀行文や歌の作品が多々ある
東関紀行
では、杭瀬宿に泊まり、夜中の川面に映る中秋の名月に感動し和歌一首を作っている。十六夜日記での記録は
ない。
     
照手姫水汲み井戸<青墓町1>
平尾神社前の赤坂垂井線を東進し、中山道との分岐点
近くに中世の仏教説話である「小栗判官・照手姫」にまつ
わる「照手姫水汲み井戸」がある。
小栗判官とはぐれた照手姫は鎌倉街道の青墓宿で水汲
み女として働いていたが、閻魔大王の裁きにより、餓鬼阿
弥の姿で土車に乗せられ熊野本宮湯の峰温泉に向けて
村から村へと曳かれて行く途中、青墓宿で小栗判官と再
会したと伝えられている。照手は、五日の暇をもらい、餓
鬼阿弥姿の小栗を乗せた土車を引っ張り、柏原・野瀬で
笠掛地蔵に願をかけた後、瀬田の唐橋を「えいさらえい」
と渡り、大津関寺玉屋に行き着いてという
  をぐりサミット開催記念樹<青墓町1>
「小栗判官物語」に魅せられた同好者・共感者がこの物
語を探求し、
後の世にしっかりと伝え残そうという思いで
平成3年「をぐり(連合)フォーラム」
 代表 堤正樹氏が結成された。

毎年、物語の「ゆかりの地」で地元の方々のご協力をえ
て仲間が集い、情報交換・芸術鑑賞・伝承地巡りなど活
発な活動継続。関係者は、この集いのことを「小栗サミッ
ト」と名づけている。記念樹の「なぎ」は和歌山県本宮町
の木である。小栗判官が本宮町にある「湯の峰温泉」で
蘇生したとの伝承に因む関係である
 

     
スーパー歌舞伎 「オグリ」
梅原 猛作・ 三代目市川猿之助(現・猿翁)出演

小栗判官物語は江戸時代から浄瑠璃や歌舞伎で人気を
博していた。このスーパー歌舞伎「オグリ」は平成3年(19
91)初演され、大人気となった。
(平成10年6月中日劇場観劇会パンフレット)
 


  小篠竹の塚と照手姫の墓<青墓町2>
照手姫水汲み井戸から少し中山道を進んだ先に「小篠
竹の塚」の説明版があるが、文面は後に見えるお墓が浄
瑠璃等で知られる「小栗判官と照手姫」物語の照手姫の
墓としているが詳(つまびらやか)ならず としている。
小篠竹の説明がないが、墓の横に見える竹がそうだと思
われる。
 
   
美濃国分寺跡<青野町>
天平13年(741)、聖武天皇は全国に国分寺をつくらせた
。美濃では、国分寺を大垣市青墓町に、国分尼寺は平尾
に建てたと推定される。寺域二町四方の七堂伽藍を備え
た祭政一致の寺であった。
北側に大垣市歴史民俗資料館があり、発掘物が展示・見
学することができる。

 
  元円願寺跡と篠竹(よしたけ)の逸話<青墓町4>
風越峠の山中が通行止めとなっているので、円興寺前を
流れる大谷川沿い(東海自然歩道)を進む、岩崎神社を
南に通り過ぎた田の中に、円興寺末寺であった「元円願
寺跡」がある。
源義経が奥州に落ち延びる途中、立ち寄り、一首の和歌
と共に芦の杖を挿していった跡という。

    
挿しおくも 形見となれや 後の世に
    源氏栄えば 芦竹(よしたけ)となれ
 
     
天台宗円興寺<青墓町5>
延暦9年(790)、伝教大師最燈が創建。最燈が自ら造
像した御本尊の木造聖観音立像は国指定重要文化財で
ある。
創建当時は、東の丘陵地にあったが、天正二年(1574)
織田信長の焼き打ちにあい焼失する。万冶元年(1658)
に現在地に再興された。
元円興寺跡に源朝長の墓、源義朝の供養塔がある















  梁塵秘抄(りょうじんひしょう)の碑<青墓町5>
碑文<要旨>
梁塵秘抄とは、後白河法皇(1192年没)が当時庶民の間
で流行していた民衆歌(今様・いまよう)を後世に伝える
ため、編集した歌集である。口伝集を含め全20巻に及
び566首の歌が現存している。

   
遊びをせんとや生まれけむ
   戯れせんとや生まれけむ
   遊ぶ子供の声聞けば
   わが身さえこそ動(ゆる)がるれ

   仏は常に居ませども
   現(うつつ)ならぬぞあわれなる
   人の声せね暁に
   ほのかに夢に見え給う
後白河法皇に招かれ、今様歌を伝授した乙前、及び延
寿を始めとする遊女(あそび)は青墓出身である。中世以
前は、この円興寺を中心とした青墓は盛況であった。往
時を偲びながら、梁塵秘抄の故郷・青墓を次代に語り伝
えたい。
              揮毫 桃山晴衣(音楽家)
 
     
遊塚(あそびつか)古墳<青墓町3>
5世紀初築造の墳長80mの前方後円墳。昭和30年代
の東海道新幹線建設工事のため古墳の土砂が搬出され
跡地は住宅地に変貌している。

近くに青墓宿の遊女屋があったことに因む名称という。

  
  織田信長の一里塚<青墓町3>
天正の初め、織田信長は、清須城を元標にして勢力範
囲に一里塚を築かせた。この信長の一里塚はあまり残っ
ていないが円興寺道と新田部落との分岐点(前方に見え
る市上水道加圧ポンプ場の右側旧街道沿い)に、残って
いたが現在は民家が建っている。
 
     
お化椿→→→白玉椿<青墓町>
粉糠山古墳を北進し東海道本線のガードを抜けた線路際
に、お化椿の跡がある。これは、昔、多くの村人が病気に
罹った時に、青墓の古墳を掘り起こ、病気が蔓延したの
は「古墳のたたり」であるので、霊を慰めるため、当地に
縁の深い源氏の白旗に習い、白椿を植えて供養したとい
う。この椿は、どんどん成長し幹回り、1.3m、高さ15m
と格段に大きくなったことから「化椿」と呼ばれた。
<写真は赤い椿であり伝承と異なっている>
これを受けて、白玉椿への名称変更が提唱されている。
平安時代初期から「青墓の長者」と呼ばれる豪族大炊氏
が栄えており、お化椿周辺が長者屋敷跡の一つとと推定
されている。(他に粉糠山古墳西もあり)

大炊長者と源氏との深い関係
平安後期、青墓の長者「大炊行遠」の娘は源為義(頼朝、
義経の祖父)の側室となり、乙若他3人を生んでいる。保
元の乱の3年後、平治の乱(1159)に敗れた源義朝(頼朝
、義経の父
)主従八騎は青墓の大炊長者兼遠の屋敷に
逃れた。義朝には大炊長者の娘延寿(えんじゅ:今様の
名手)との間に娘(夜叉御前)があり関係が深かった。
しかし義朝追討令は厳しく、更に東国に落ち延びる決意を
した。重傷の朝長(16才)
は逃れられないと悟り、父の介錯
で自害した。(朝長の墓が元円興寺にある)義朝は杭瀬川
を下り、野間内海の長田忠致を頼ったが、恩賞目当ての
長田忠致に風呂場で斬殺された。一人娘の夜叉御前は、
悲嘆慟哭し、在世の苦悶を捨てようと杭瀬川に入水し、母
娘相伝の「今様」の一つが終焉となった。
 
  粉糠山(こぬかやま)古墳<青墓町>
昼飯大塚古墳近くの鎌倉街道は、中山道沿いに西に進
み、東海道本線(下り)過ぎて北に折れると粉糠山古墳に
到る。現地の説明版によると墳長百mの大きな前方後方
墳で、4世紀末から5世紀頃の当地の有力豪族の墓とあ
る。
また地元に伝わる伝説として、青墓の宿が盛んな頃、遊
女たちが化粧に使用した粉糠を捨てて積もり重なって小
山となって粉糠山と呼ばれようになったという。
これに対
し、「をぐり(連合)フォーラム」代表の堤 正樹さん(青墓
町在住)は、美濃諸旧記・巻乃十「東山道路駅古跡并古
墳墓の事」のなかの「或人の曰く、摂州(大阪府豊中)の
待兼山と、その形能く似たりとぞいう。故に待兼山と粉糠
山を女夫山(めおとやま)といふいえりとなん」という記述
を発見し、学識経験者のアドバイスを発展させて古今和
歌六帖の

津の国(摂津)の待兼山の呼子鳥鳴けど今来(いまく)
といふ人もなし

<山の名に「待ち兼ね」を掛け、恋人を待ち侘びている自
分を「待兼山の呼子鳥」になぞらえて、(来ぬか・来ぬかと
)いくら鳴いても相手が来てくれないと嘆いた歌>
このことから「来ぬか、来ぬかと待ち兼ねる」一途な慕情
を秘めていると文学的解釈を提唱されている
 




     
史跡・昼飯大塚古墳<昼飯(ひるい)町>
この古墳は、平成21年度〜24年度に調査・保存整備さ
れた。4世紀頃に築かれ、墳丘の長さが150m、構造が三
段築成の東海地方最大の前方後円墳である。

畿内の大王墓に準ずる傑出した内容を持ち,東海地方
の古墳時代の政治・社会を考える上で欠くことのできない
きわめて重要な古墳である。
<上記は国指定文化財等データベース・文化庁から引用>

景行天皇の皇子(大碓皇子・大和武尊の兄)の塚と考証
する説もあるが確証はない。しかし青墓町周辺には粉糠
古墳、遊塚古墳などが集まり当地区にかなりの有力者が
いたことは確実である。
堤さんから墳丘の3段目・2段目の葺石に鉄分を含んで
いること、及び赤坂は火打石産地であり青墓地区は美濃
の刀鍛冶の元祖であることを教えていただいた。
<参考 南宮大社HP「刀剣について」のページ
青墓は古墳が多い地区であるが、刀鍛冶の存在したこと
と関係があると思われる。
  昼飯町から赤坂町へ<赤坂町・昼飯町>
鎌倉街道を昼飯大塚古墳からお勝山まで進むには、古
道の雰囲気が残る狭い道を通ることになる。途中、分断
されているので、古墳から、一旦中山道に戻り、高橋板
金から右に南進む、上の写真の道から進む。
この道は、直ぐに畑の中の狭い道となるが、50m程で
T字型の行き止まりとなるので、左折すると、一本松の横に到る。

***
お役立ち情報
○右手に自転車が置いてあるが、大垣市では市内拠点
 に貸し自転車の窓口があり便利である。赤坂地区では
、大垣市歴史民俗資料館で借りることができる。
     電話 0584-91-5447
○中山道赤坂宿のガイド(無料)
  赤坂ボランティアガイドセンター
  電話 0584-71-2832
 
     
一本松<赤坂町>
先のT字方の小さな交差点から約30m位先左(東)に藪
があり、その中に大きな松の切株がある。樹齢7百年説
もあり、旅に病んだ人が祈りをこめたと伝えられている。
この先は、お勝山の南回りと北回り説があるが、市営斎
場の西北に西回り道がある。
 
  紫雲山安楽寺<赤坂町>
安楽寺は、岡山(海抜53m)の麓にある。本尊は阿弥陀如来,推古天皇の元年,聖徳太子の創建と伝えられ、
岡山の頂上に壬申の乱(弘文天皇壬申難古の碑)、関
ケ原合戦岡山本陣跡(関ヶ原合戦本陣の碑)がある
。なお岡山は、関ヶ原合戦東軍勝利後、家康は「勝山」と
名を改めたと伝えられる
  
     
杭瀬川白山橋から赤坂方面の風景
<赤坂新田・赤坂>
「平安鎌倉古道」や大垣市の資料では笠縫提から杭瀬川
を渡り、赤坂に上陸する場所として白山社(杭瀬川の左前
方)の東側、この付近と説明している。しかし、白山社境
内の由緒案内によると大洪水(1530年)から百年以上経た
後の開拓地であることから以前は河川敷きであったと推
測できる。したがって、杭瀬宿は勝山裾野の赤坂大門付
近とし渡川場所と推定したい


赤染衛門歌集(平安時代女流歌人)
「くいせ川といふ所にとまりて、よる鵜つかふを見て」
夕やみのう船にともすかがり火を  水なる月の影か
とぞ見る









  金生山(きんしょうざん)から見たお勝山・杭瀬川
<赤坂>

遠方正面の緑の部分が笠縫堤付近である。お勝山と笠
縫堤(推定旧杭瀬川堤防)の間を大洪水以前の杭瀬川
(河川敷きを含む)が流れていた。お勝山から渡るのが、
合理的と思われる

<東関紀行>
 
 杭瀬川という所に泊まりて 夜更る程に川ばたに
立出(たちいで)てみれば、秋の最中(もなか)の晴の
空、清き川瀬にうつろひて 照月なみも数見ゆ計(ば
かり) すみわたり 二千里(じせんり)の外の古人の
心思ひやられて、旅の思ひいとゞをさえがたくおぼゆ
れば、月のかげに筆を 染めつゝ「華洛を出て三日 
株川(株瀬川)に宿して一宵しば?幽吟を中秋三十五
の夜にいたましめ かつ?遠情を前途一千里の雲に
をくる」など、ある家の障子に書きつくる次而(ついで)
に知らざりき秋の半ばの今宵しもかゝる 旅寝(たび
ね)の月を見(み)むとは 
 
解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)

 
折も折、8月15日夜にこのような所に旅寝して中秋の
名月を見ようとは思いもよらなかったよ
 



大垣市内の鎌倉街道推定図 
 
紀行文の笠縫宿
西は杭瀬川・笠縫宿から始まり現在の大垣駅一帯は古くからの町であり、古道は入り組んだ市街地をくねっている。街道探索は
容易でないが、今回、知人やご縁で知り合いとなった方のアドバイスがなければ、走破は不可能と思う。東は現在の揖斐川であ
るが、中世時代は小河川が乱流する湿地で板を並べた長橋の記録がある。
十六夜日記は十九日、笠縫の宿を出ていくが、夜中も降る雨の中、道がひどく悪く、歩く人も無い中、田の水面を覗くように長橋
を渡り歩いている。この地区の東関紀行の記録はない
     
笠縫堤から岡山を望む<河間(がま)町>
下の写真の水防倉庫から少し先の堤防下に大きな耕
文小学校の石碑がある付近から赤坂方面を一望に望
むことができる。
古来、旧揖斐川は、この付近を流れていたが、亨禄三
年(1530)大洪水により大垣市の東を流れる現在の形に
なったという。その後は杭瀬川として残り、前方の高圧
線付近を流れている。
私見であるが、杭瀬川から笠縫堤まで旧揖斐川の河
川(敷)と推定したい。また笠縫堤から勝山付近に川を
渡ったと推定したい
 
  権現のぞきの地碑<河間(がま)町>
関ヶ原合戦の前哨戦段階で、大垣城の石田三成西軍
が岡山(勝山)の徳川軍を望む望楼を建てて十四日の
杭瀬川の戦いにも使われたという
  








     
笠縫堤(輪中堤防<河間(がま)町>
市のホームページでは、市街地に残る古大垣輪中の
一部と紹介されている。地元の人の話では杭瀬川(旧
揖斐川)の堤防であったという。中央の建物は水防倉
庫、少し進むと左手に、赤坂の町並と勝山が望める
  笠縫堤(輪中堤防)
<笠縫町・笠木町・河間(がま)町>
岐大バイパスの真横に笠縫堤から下りる階段が設置
されている。階段の左手に鎌倉街道の石碑がある

  
     
笠縫堤から河間への鎌倉街道<笠縫町・河間町>
降りた階段の先に近鉄養老線下を潜る地下道があり、
それを上がった右手にある岐大バイパスの下を通り抜
ける道を進むと写真の小さな橋があり、その左前方に
子守神社の杜が見える
。  
  子守神社<笠縫町>
由緒等は不明であが、鳥居奥に阿仏尼の歌碑がある
。「笠縫の里碑」の説明版にある歌(上記)を石に刻んだものである。
受円寺へは、鳥居から南の境内入口に戻り、小さな用
水沿いに東に進むと直ぐである
 
     
受円寺<笠縫町> 
弘仁6年(815)伝教太子最澄の創建と伝えれる。
織田信長の焼き打ちにあっているが、右手に創建当時
の表門のみが残っている。
写真は南側通用口に設置された鎌倉街道の石碑が見
える。笠縫の里へは、受円寺角を東進すると自然に交
差点に到る












 
  笠縫の里碑<宿地町>
県道大垣揖斐川線の笠縫交差点東北角に設置されて
いる。岐大バイパス河間(がま)交差点から南進、最初
の交差点です。以前は歩道橋があった記憶があるが、
道路が拡張され歩道橋もなく、目印のない交差点であ
る。

<十六夜日記>
 
関よりかきくらしつる雨、時雨に過ぎて降りくらせ
ば、道もいと悪しくて、心より外に笠縫の駅(うまや)
という所にとどまる。

   
旅人は蓑(みの)うちはらう夕暮れの
     
雨に宿かるかさぬひの里
                     
阿仏尼
 

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 私旅人は蓑に溜まる雨滴を払い落す程強い夕暮れ
の雨のために、(予定外に)笠縫の里に宿をとることだ
 
     
宿地稲荷神社<宿地町>
由緒不詳
  八島(やじま)八幡神社<八島町>
源頼朝の家人・八島冠者時清が住んでいたことで地名
になった
  
     
八島から宿地の街道遺構 
荻神社西の水門川に沿って北上し水郷街道林町8交
差点から西に細い市道を進む。北小学校から細い路
地を水門川近くに進むと鳥居が見える。
八島から笠縫まで、車がすれ違いできない市道あるが
、路地は更に狭く、車では探索は不可能である





  (おぎ)神社 <林町8丁目>
岐阜県神社庁のHPでは、往古境内に大木の柳があり
名木明神と旧社名の説明あり。荻についての説明はな
く不明である。西行法師は、この柳の下から岐阜山を
見て岐阜富士の歌を詠んだことに因んで「富士の宮」
の別名がある。

   
神ほのぼのと目路もかすみて青柳の
     枝にかかれるふしの白雪
                    西行法師
 
            
  
     
日吉神社<林町3>
境内に沿革が表示されており、寛政時代に当地開拓者
林 景顕の子孫が阿弥陀寺(現顕性寺)の鎮守として
勧請する
  顕性寺から見た鎌倉街道<林町3>
鎌倉街道は日吉神社から東進(右)する。そして、水郷
街道東の小寺理容南から三塚町に向かう
 
     
大禰宜塚<三塚町>
林町1と2の間にある高架下の交差点から東に二本進
んだ南の路地にある。 参考書にある位置ではなく、
mameya東の路地奥にあった。
由来によると某氏の従者蝟原綱木の墓とある。参考書
の平安鎌倉古道によると、地元の人は「みちづか」と呼
称していると解説されており、実際、探した時に、「みち
づか」と聞いて教えていただいた
  今宿(宝光寺北)から見た鎌倉街道の筋道
三塚町から東海道本線(前方)下の道を使い、この交
差点近くにでる。ここから揖斐川までは鎌倉街道と美濃
路は、ほぼ同じ遺構と考えられている。美濃路は右折
(南)鎌倉街道は東進し、長橋、揖斐川と進む



   
     
寶光寺<三塚町>
白い建物の高橋接骨院前の三差路の一角に位置
する。日蓮宗の寺院。
当院の東側から今宿町である








  
  犬坊丸塚<三塚町・宝光寺本堂の真裏>
頼朝富士の裾野の巻狩りのさい、頼朝寵臣工藤祐経
(すけつね)が曽我兄弟に仇討された。更に曽我兄弟
は頼朝の館に押し入るが兄は討ち取られ、弟は取り押
さえられた。翌日、頼朝の面前で取り調べが行われ、
仇討までの心境が述べられ、頼朝は助命を考えたが、
討たれた工藤祐経の嫡子犬坊丸が突如として斬りか
かり仇討本懐を遂げた。この塚は、犬坊丸の墓という。

曽我物語
鎌倉時代初期におきた曽我兄弟の仇討事件。赤穂
浪士の討ち入り、鍵屋の辻の決闘の三大仇討の一
つ。
 
     
小野(この)の長橋<小野3・4丁目>
揖斐川の西方約1kmの位置にあたる。揖斐川は亨禄
3年(1530)の大洪水により現在の杭瀬川流域筋から今
の位置に移動したという。
当時は、呂久川(古い揖斐川の分流)が流れており、氾
濫で湿地帯をなしており、沢を渡った地であるとされる
。長橋の長さは4,5百mであったと伝えられる。

<十六夜日記>
 十九日
 又こゝを出(い)でて行く。夜もすがら降りつる雨に
、平野とかやいふ程、道いとゞわろくて、人通ふべく
もあらねば、水田の面(おも)をぞさながら渡り行く。
明くるまに、雨は降らずなりぬ。

注 「こゝを出(い)でて」は笠縫の宿を指す。
 参考とした中世日記紀行文(新日本古典文学
  大系51)では、平野=安八郡神戸町にあったと
  いう平野庄としているが、笠縫宿の北部に位置
  し、街道筋としては極めて異形である。私見では
  、平らな野つまり当小野と推定したい。
  佐渡(さわたり・さど)常夜灯<東町>
説明版によると嘉永七年(1854)に揖斐川渡川の航
路標識、航行安全、伊勢両宮献灯のために設置され
た。鎌倉街道とは無縁であるが、当時の道筋という。揖
斐川対岸は、結神社(安八町西結)である
 



富士紀行
 
 「なか橋と申す所を通侍るに、
      あたりの田のもも遠く見わたされて」
 










 



 大垣市墨俣町、安八町・羽島市笠松町内の鎌倉街道推定図
 
紀行文の笠縫宿
大垣市東町で揖斐川亨禄三年(1530)大洪水により誕生。以前は中小河川を渡った鎌倉古道は、旧地の結神社付近か
ら犀川の河川提を東進し、東結の一里塚から美濃路と別れ、安八町と墨俣の境界線に沿った形で南進、大垣桜高校西、
不破神社から犀川、長良川を渡る。不破神社の地名は「上宿」であり、近世美濃路の墨俣宿は、上流約750mにある
阿仏尼が東下りした時に見た結神社は、現在の揖斐川河川敷(覚成寺西付近)にあったが、明治36年(1903)4月、揖斐川
改修工事のため現在地に移転されている。犀川、長良川の西岸は墨俣宿があり、長良川と木曽川の元本流である境川が
合流しており、鎌倉古道(街道)の最大の難所であったと思われ、長良川・境川を渡った後は、境川河川提(足近輪中提)を東進し、西方寺前に堤防を降り、ほぼ直線で木曽川まで進むことになる。当時の木曽川は、黒田川とか及川と呼ばれ、中規模
な川だったと推定され、ここでの記録は少ない
十六夜日記で阿仏尼は、結神社に訴訟の勝利を祈願し、墨俣で舟橋(正木葛で安定させた舟を連結した橋)を渡りながら、
浮舟と現世を仮の世の行き来と比喩し、はかなさを表している。
この地区の東関紀行の記録はない
     
(むすぶ)大明神<安八町西結>
照手姫が小栗判官との再会を祈念し、悲願成就となった
ときに姫の護持仏である黄金の十一面観音を奉納したと
伝承される。そのお堂である。
町屋観音は結神社の境内あったがに河川改修のため現
在の場所に移設されたという。また、この神社には織田信
長が願掛したとも伝えられている


<十六夜日記>
(十九日)
昼つ方、過行(すぎゆく)道に目に立つ社あり。人に問
へば、結(むす)ぶの神とぞ聞ゆると言えば、まぼれた
?契結(ちぎりむす)ぶの神ならば、解けぬ恨みにわれ
迷はさで

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)

 契り(やくそく)を結んで下さるという神様ならば、解決
しない悩みに私を迷わさず、どうか守ってください。
  まちあい公園安八町西結
照手姫が小栗判官との再会を結神社に祈願し、守本尊の
黄金仏を「結神社」に納めよとお告げがあり、姫は従い小栗
判官との再会が叶う。
姫が寄進した一寸八分の黄金仏祀る町屋観音を中心に公
園整備されている。


 





     
金剛山覚成寺<安八町西結>
結神社の南約5百mにあり、西岸の大垣市東町が対岸
にある。この寺の西の河川敷に元結神社地があったと
思われる
 



  東結の1里塚<安八町東結>
犀川の堤防を東進し、木に隠れていた川が視野に入る堤
防下に1里塚の碑と道路地蔵が安置されている。
鎌倉街道はここから堤防を降り、安八町と墨俣町の境界を
東南に進む。
元の1里塚は、現状では見当たらないので、ご注意

     
犀川堤防下からの道<安八町東結>
1里塚碑前に出て、写真のT字路を右折し、3百m程進む
と、左手に津島神社の鳥居が見える
 




  津島神社<安八町東結>
平安時代、源頼光が美濃国司として赴任した牛頭天王を祀
ったにが始まり。建久元年(1190)源頼朝が京都に向かう際
、この神社の前で馬が進まなくなったので「駒止の社」という。
家臣に訳を調べさせたところ、ご先祖ゆかりのお社である
ことがわかり、丁重に参拝し、社殿を寄進したという。
     
浄土宗正明寺(しょうめょうじ)<安八町東結>
慶長16年、岡田伊勢守善同が安土から当地に移したと
いう

  八幡神社<大垣市墨俣町二ッ木>
正明寺を出て、直ぐに右に折れ、三差路を左折すると約
4百m先に八幡社の赤い鳥居を見え、目印に進むことが
容易である
     
七墓の道標<大垣市墨俣二ッ木>
八幡神社から東南に進み、約2百mで5差路にでる。この
交差点手前に、七墓(ななはか)信仰の人たちが建てた背
の高い道標と右側に自然石の道標がある。
七墓信仰とは羽島市竹鼻周辺で流行した和賛や念仏を
唱えて、朝に七宮、夕方に七墓を巡る民俗宗教。廻って得
た収入は道標の建立や道路の改修等に費やされたという
。・・・探訪・鎌倉街道より
 
  墨俣町上宿の鎌倉街道<大垣市墨俣町上宿>
七墓の道標を南下し、旧国道21号から大垣桜高校、そして
長良川の渡川場所であり宿のあった現在の上宿に向かう
が、宅地化等により遺構を進むことは不可能であるので、
桜高校南にあるコンビニから東に入り、道なりに東南に進
むと上宿地区に到り、現代の道案内に出会う。


     
水屋<大垣市墨俣町上宿>
鎌倉街道沿いにある水屋。大垣市景観資産の指定を受
けている奥田家水屋。大正10年頃建築された建物で、墨
俣地区に残る唯一の水屋という。地元の方の話では、石
垣の積み方が反り返り、昔の砦の機能が推測できるとい
う。
また、西濃地区では洪水の備えとして、河川洪水の程度
を三段階に分け、予想浸水量に応じた避難行動ができる
という。その最終段階が水屋に供えられた避難用舟の活
用という


  不破神社<大垣市墨俣町上宿>
創建年紀不詳。元隼人神社と称せしが、後不破神社と改称
す。
宇治拾遺物語に、「壬申の乱のおり大海人皇子が墨俣の
渡しで難を逃れたもう」と記載されているという。
壬申の乱(672)の前、大海人皇子は吉野を出て洲股で川を
渡ろうとしても舟はなく、追っての大友皇子の軍に見つかる
恐れもあり困っておられた時、川で洗濯をしていた女の機
転で、大きな「たらい」に身を隠し、危うく難を逃れたばかり
か、兵を集めることができ、不破道より近江に入り、大友皇
子を討ち亡ぼし、飛鳥浄御原宮で天武天皇に即位した。
地元では、不破大明神はこの女を祀ったものとされる
     
真宗大谷派西来寺(さいらいじ)<墨俣町上宿
元は天台宗であったが、中興の了念が教如に帰依し、
真宗寺院となった。














  源平墨俣川古戦場跡と義円公園
          <大垣市墨俣町上宿>

墨俣町上宿は長良川西岸にあり墨俣宿であった。養和元
(1181)2月、平清盛病死により東国源氏は勢いを得て
京に攻め上る。これを迎え討つため平氏は平重衡を総大
将に7千騎が墨俣川右岸(西側)に陣取る。一方、源氏の
将行家は千余騎を率いて左岸の羽島側(小熊)に着陣する
頼朝は応援のため弟義円をつけ、西上させたが合流せ
ず二町隔てて軍を整えた。義円は行家に先陣されては兄頼
朝に合わす顔がないと考え、無謀にも小勢で夜陰にまぎれ
て墨俣川を渡ったが、平盛綱に討ち取られた。
二十五歳であったという。
これに遅れまいと行家も手勢を率いて川を渡り平家軍に攻
め入ったが、たちまち大軍に包囲され大敗し、更に下津、熱
田、矢作へと敗退した。墨俣川の合戦で源氏軍は、討死、
水死する者690余人という
     
義円の墓<大垣市墨俣町上宿>
義円の墓が義円公園の北西の畑の中にある。
古道の長良川渡河に近く、討ち死にした場所付近と思わ
れる
















  墨俣宿近くの犀川(及び長良川)
   <大垣市墨俣町上宿>
不破神社前からの街道は、そのまま揖斐川(犀川)に出る。
中世、この付近は木曽川と長良川が合流しており、大きな
河川であった


<十六夜日記>
洲俣とかや言ふ川には、船を並べて、まさきの綱にや
あらん、かけとゞめたる浮橋あり。いと危うけれど渡る。
堤の方はいと深くて片方は浅ければ片淵の深き心はあ
りながら人目づつみにさぞせかるらん。
  仮の世の行き来と見るもはかなしや身の浮舟を浮橋
 にしてとぞ思ひ続けける

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)

この川は片側は淵で深いが、堤でせき止められて流れずに
いるのだろう。仮の世の往き来と見えて、はかないなあ。浮
舟を浮橋にしてあるのを渡るにつけても。
     
小熊山一乗寺<羽島市西小熊>
弘仁(こうにん)十年(819)空海の開基で真言宗の寺院と
して境内18町余歩の広い境内に七堂伽藍を建設し、大
師自ら橋杭で延命地蔵を彫られ
七間四方の堂に安置し
朽ち残る真砂の下の橋はしら又道変えて人渡すなり」と
歌を歌われた。
当時は寺中に十二坊があり、尊信の中心になっていた

源頼朝は、この菩薩を厚く信仰し、文治3年(1187)武運の
祈願をしたところ勝利したため本堂を再建したが、後に兵
火にあい、焼失した。このことを霊夢で知った頼朝は再び
伽藍を建築し、後の世の手当てとして千両目の団金に「朝
日さす夕日かがやく木の元に黄金千両後の世のたから」
と一首の和歌を添えて付与したという

また、
養和元年(1181)3月、源平が戦った墨俣川の
戦では、墨俣から小熊(一乗時付近)
が主戦場となり多く
討死、水死者がでた
この戦死者を供養するため誓浄
寺と本養寺の二つの寺が建立され多くの五輪墓石が造ら
れたが天正14年(1586)の大洪水でこの二つの寺が流さ
れ、五輪墓石も散逸してしまった。
境川河川改修工事の際に川底から多くの五輪墓石が出
土したため、その一部が一乗時に無縁墓石として安置供
養されている。
  一乗寺の地蔵谷<羽島市西小熊>
一乗寺の南西に広がる竹林は養和元年の源平合戦があっ
たところで夜中夜中に人の泣き叫ぶ声や太刀の音などが
聞こえたと伝える。しかし地蔵尊を崇め、地蔵堂を建立し供
養したら、その後は止んだという。
地蔵谷は、一乗寺西側の新境川に東岸になるが、先の戦
の悲惨さから地元では「地獄谷」と称しているが、住職の話
しでは「地蔵谷」が正しいという。
また、参考資料等では一乗寺付近に「御殿場跡」の地名?
が記載されているが、説明がないため図書館等で調査した
結果、「羽島市の伝説と史談」(昭和52年1月発行、並河晴
夫編著者)に健久元年(1190)源頼朝上洛の途中、28日小
熊宿で泊まったという。小熊宿の地は、正しくは不明である
が、一乗寺北一帯に渡し場があった伝承があり、御殿場跡
及び宿があったと想定できる。







     
親鸞上人御旧跡碑<羽島市小熊町西小熊>
日置江50石交差点の連続する大江川橋及び境橋を通り
、左手の「仕出しよ志のや」を左(東)に折れると境川堤防
(足近輪中堤防)に出る。この道を東進し、境川に架かる
橋の道路を二本通過し、しばらくすると下に降りる道との
分岐点がある。道の間に碑があり、その下にお地蔵様が
二体ある。春は桜と菜の花が咲き誇る穴場である。
<03年撮影>
  阿遅加(あじか)神社<羽島市足近町>
親鸞上人御旧跡碑から直ぐに西方寺の屋根が見える堤防
道路の下に神社がある。
「延喜式神名帳」記載の従三位足近天神とある。旧号を
八剣宮と称し、足近郷の総社であった。



     
真宗大谷派西方寺(さいほうじ)<羽島市足近町>
推古天皇十年(602)4月、供奉された善光寺如来が始ま
り。同二十年(612)、聖徳太子が紀山背大兄王(やましろ
のおおえのおう)の安産を願って七堂伽藍を建立し、太子
自彫の阿弥陀如来を安置、三蔵院太子寺とした。
法相宗、天台宗を経て、嘉禎元年(1235)親鸞上人関東か
ら帰洛の途次、当寺に留錫、佑善(渋谷金王丸の三男)聞
法随喜のあまり浄土宗に改めた
  西方寺から白山社への道<羽島市足近町>
西方寺前の道を東進し、県道岐阜羽島線を横断した直後
の田の中の道である。前方の赤い電車は名鉄竹鼻線を走
る電車で右手に「南宿駅」がある。正面に踏切があり、踏切
を渡ると道がなくなり、少し左に移動すると民家前に先方の
白山社に向う古道がある。
正面の杜が白山社である。


     
白山神社<羽島市足近町北宿>
創建年紀不詳であるが、徳川中期の頃村内氏子の尊崇
により鎮守の社として鎮祭され
る。
  白山神社周囲の街道<羽島市足近町北宿>
県道岐阜羽島線から白山神社に到達した西側の小道が
鎌倉街道といわれている
     
大恵寺<羽島市足近町北宿>
臨済宗妙心寺派寺院で文永元年(1264)の開山。美濃城
主斉藤道三の手厚い庇護を受けた


  旧足近輪中提<羽島市足近町北宿>
大恵寺の右手(東)の道路は、昔の足近輪中提の跡という。
旧堤防跡の道路は、左に曲がっており、後方(南)では、小
さな曲線が連続している。

     
神明社<笠松町門間>
創始年月日は不詳なれども、徳川中期頃、天祖天照大神
の御神徳を崇敬して郷土鎮護の神として奉鎮せる。
鳥居右手の玉垣の内側にある石板に「かって鎌倉街道の
経路」であったことが説明されている


  児(ちご)神社<笠松町北及>
岐阜県神社庁のホームページでは、創祀、由縁不詳とある
。祭神は天岩戸別命(あめのいわとわけのみこと)で、参考
資料では水の神、堤防鎮護の神として祀られたであろうとし
ている
鳥居前に笠松町が設置した鎌倉街道の案内。簡単な説明
であるが、探す苦労をした分だけ見つけた喜びは大きい 
     
岐阜県東端の地<羽島市正木町南及>
児神社付近から鎌倉街道の東端とみられるアスファルトプ
ラントを望
む。現在地が笠松町北及で、右側が羽島市正
木町南及である。何故か古道は、行政境界、字界を伝う
が、当時の河川提や畔道が利用されたためと思う。前面
に堤防が見え、この付近から木曽川を渡河したと言われ
る。



  木曽川の風景<岐阜県・愛知県> 
羽島市と一宮市木曽川町を連絡する尾濃(びのう)大橋か
ら見た木曽川。正面が岐南町、岐阜市内で左が羽島市、右
が一宮市である。左の緑は、川の中間にある島(中州)であ
る。古来から木曽川は土砂を多く流しており、濃尾平野を形
成してきた。
中世、中小河川が分流し、中州を繋いで街道があったと思
われる。天正14年(1586)6月24日の未曾有の大洪水によ
り木曾八流の一つであった黒田川(及川)が本流と言われ
た境川の流れを合流し、現在の大河木曽川の規模になっ
たと言われる