6.織機の機械化と豊田佐吉の当地滞在
 上記のように発展してきた尾張の綿織物であるが、明治時代になり安いインド綿の輸入により織元は1880年代後半から手の込んだ
縞木綿の伝統技術を生かした国内向け絹綿交織物(結城縞)へと転換し、明治17年(1884)の生産量は大阪に次いで全国第二位の規模と
なった。
 明治24年(1891)10月28日、岐阜県を震源地とする濃尾大地震に見舞われ、一宮も多くの工場が倒壊する被害を受けた。 その復旧工事
のため岡崎方面から多数の職人が来ており、その時の大工により尾州で初めて従来の高機に比べ約2倍の生産能力を有する、フライシャ
トル装置*(バッタン装置)高機が作られたことにより、本格的な導入を促し、絹綿交織物の飛躍的な発展をもたらした。
 このフライシャトル装置は、明治5年、フランスのリヨン経由で移入された。 従来の高機に装着することにより片手で杼を操作でき、
1.5〜 2倍の能率を上げることができたにも関わらず、尾張部や西濃では他産地(和泉南部や紀州)に17、18年も遅れた濃尾大地震後の
復旧期が契機となった。 下の写真のように簡単で、そんなに高価とも思えない装置が導入されないことを、当時の賃金がいかに安く、
資本の蓄積が遅れていたと理解されている。
 このような繊維産業の脆弱さは、明治23年に豊田佐吉が発明した「豊田式木製人力織機」が従来の手織機と比較し、製品のムラが
なく、しかも4〜5割増産できる優れものであったが、業界の資本蓄積が遅れていたことにより、問屋など流通業界の評判が良いにも関
わらず、ほとんど売れなかったという話にも繋がる。

注 フライシャトル装置(バッタン装置
  ・・・1733年、イギリスのジョン・ケイが発明した。紐を引いて、杼箱から杼(ひ)を飛ばす装置。
    これによって、投げ杼の片手が開放され、生産性が二倍程度に向上した。
      なお産業技術記念館でお聞きした話ですが、杼とはドングリを意味し、右の写真の両先端を
      ご参照ください



バッタン装置
機能からフライシャトル装置とも呼称される。(一宮市博物館
バッタン装置の使用例。紐を引っ張ると杼箱から杼が飛び出す。
(産業技術記念館)
繊維関係の資料を収集している中で、豊田佐吉が当地に滞在していた話を知ったのでご紹介します。
 ご存知のように、豊田佐吉はトヨタ自動車株グループの始祖であり、最初に手がけた事業が先の織機の開発です。 伝記などを読むと、最終目的
は織機の機械化・自動化であったが、基礎知識がないことと、繊維産業の資金が小さいことから、既存織機の改良から始めることとし、それに先立ち、
職布業界に関する研究を3年程行ったことが豊田自動織機鰍S0年史に記載されている。
 そして木曽川町史(昭和56年11月発行)及び尾州艶屋物語(墨金次郎著、昭和49年発行)によると、当時の繊維産業の中心地であった木曽川町
玉ノ井で明治22年の1年間を艶嘉と田上
(たがみ)の有力機屋に寄寓し研究したことが記載されている。
 また「稲沢の街道T 鎌倉街道と岐阜街道」(稲沢市史編纂委員会)に、明治20年代半ばに、人力織機発明後の若き日の豊田佐吉が一宮方面
の機屋勤め(機械の修理をしながらイギリス製織機の研究)を辞めて徒歩で名古屋に帰宅途中、下津村で疲れて休んでいるところを役場勤めの山中
又七に声を掛けられたのが縁で、近在で木綿を織っていた野村工場(経営者は、役場勤めの野村鉄次郎で、後に村長になった人物)を紹介された。
鉄次郎の好意で数ヶ月滞在し、工場の片隅で研究・試作を行ったようである。 佐吉の滞在は、小さな工場では自動織機の改良にも不向きなため、
数ヶ月程度であったらしいが、試作機の骨組みが野村本家に残されていたのを昭和23,24年にトヨタの本社に引き取られたと地元で言い伝えら
れている。  先の社史などには、その間の詳しい記載はありませんでした。 その後の業績が多いから省略されているのか、普通の人間に理解し
がたい天才発明家の無名時代ゆえ、良き思い出がないのか、今では確認不可能です。
しかし足跡を辿ることは可能です。 今から、100年以上前の話で、その事実を確認することは、かなり困難ですが、できうる限り確認してみたいと
思います。 私にとって興味深い話です。

     
 豊田式木製人力織機
   人力織機の駆動装置
(左の写真の上部鳥居状の部分)

7.毛織物の生産開始<大正時代に発展、昭和初期に王国完成>
 毛織物は、江戸末期から輸入されたが、明治政府の軍需用物品や官吏などの制服に使用されたことにより、明治12年(1880)、千住製絨所
にて初めて生産が開始された。 その後、ゆるやかに増加した生産は、第一次世界大戦で、新興大資本の紡績会社の圧迫や遠州地方との競合
で転換の道を模索していた尾張の織物たちに新たな商品となった。
当地の毛織物工業のパイオニアは、津島の片岡春吉(片岡毛織創業者)が1899年(明治32年)に毛織物を生産したことに始まるとされる。 第一
次世界大戦(1914.7〜18.11)の勃発により、毛織物の輸入が途絶えただけでなく、軍需特需もあり、毛織物の生産が大幅に増加し、5年間で20倍
に激増し、着尺セルでは全国生産の70%を占める産地となった。 この段階で在来の地元絹綿交織織織場は、毛織物業へと転化し、将来の毛
織物王国の地位に繋がった。 昭和3年(1928)頃には、尾西地方で全国生産額の1/4を上回る生産、昭和10年(1935)には、全国の半分以上を
生産した。

出典:
一宮市博物館資料
8.太平洋戦争後の好景気と集団就職時代・・・(昭和20年代から昭和40年代は若者の町)
 第二次世界大戦時の織機の供出、本土空襲により、毛織物織機の約70%が失われる壊滅的な被害を受けた毛織物は、戦後の物不足から
昭和24年(1949)ころには、原糸を確保すれば織布の利益は大きく、着実に復旧していたが、昭和25年(1950の羊毛の輸入増加と統制解除により
生産が急速に回復・発展の道をたどり始めた。 更に昭和26年(1951)の朝鮮戦争は、特需景気を呼び、ガチャンと織れば、一万円が儲かるといわ
れた「ガチャ万」時代を向かえた。 (売り上げの7割が利益といわれた) 昭和28年(1953)には、戦前の生産額を上回り、翌年(1954)インフレ是正の
ためのデフレ生産調整が実施されたが、旺盛な国内消費に支えられ、日本経済の成長とともに発展してきた。 
9.高度経済成長と集団就職
 その後の昭和30年代は、日本経済の高度成長時代であったが、その範囲は未だ大都市中心であった。 一方、地方農林漁村においては毎年
大量の中学卒業者があるが、親の現金収入の手段が少ない、通学できる範囲の高校整備の遅れ、若者の働く場がないことから、都市部に就職
する形態が続いた。 いわゆる集団就職である。  出典<集団就職の時代:加瀬和俊著(青木書店)>
 この本では、全国的な概要、東北から東京地区の商店を中心に若者の移動があったことが研究成果として、まとめられているが、残念ながら愛
知、特に尾張部の工場については、あまり記述がない。 (必然的に、東京地区の商店経営者に東北出身者が多いことになる)
 私が、昨年調べ、思い出の街角のページに記載した内容では、昭和40年の求人倍率は「2.9倍」、その後、小さな変動はあるが、昭和45年は「5.7倍」
となり「金の卵」と称された時代であった。 毎年、九州中心に約3万人の若者が愛知県内に就職している。 昭和40年前後には出身県では長崎県
のほぼ半分、鹿児島、熊本、宮崎、大分では毎年1/3前後の若い人が愛知県に就職している。 尾張部には繊維工場に就職する女性が多く、休祭
日の町は若い女性があふれ活気に満ちていた時代である。
 就職した若者で勉学の意欲が高い人に対し、昭和35年県立起工業高校に夜間定時制(工業科)が新設された。 さらに繊維工場の勤務体制に
合わせた昼間定時制高校(普通科)が同校に昭和39年新設(昭和47年県立起高校として分離独立)、翌昭和40年に県立一宮西高校に定時制(昼間
二交代制)家政科、昭和49年定時制普通科が設置された。 企業でも林紡績(現サンファイン梶jが企業内高校(誠和学園)を設立・運営するなど、
労働環境が整備されたが、就職者が高卒にシフトするとともに、繊維産業の衰退により、誠和学園の閉鎖、昭和57年県立一宮西高校の定時制家庭
科、昭和59年同校定時制普通科の募集停止、昭和61年県立起高校の廃止、平成11年3月、県立起工業高校の夜間部が廃止された。
 注:平成11年、起工業高校に新たな昼間定時制高校、通称「翼キャンバス」が新設されているが、勤労青少年は少ないと聞く。

起街道(旧尾西市と一宮市境)のネオンアーチ
期間は、昭和38年から平成6年と左下に表示がある。
尾西歴史民族資料館平成17年春に開催された「ウールの
尾西」特別展資料表紙から引用

県立起工業高校夜間定時制終了記念誌
  
(平成10年3月発行)


 中学卒業者の進路状況<全国男女計>     ・・・出典:学校基本調査報告書、他府県数字は上記集団就職の時代
  年 次  
 卒業者数
 (人)
 進学率
    
(%)
 就職率
   
(%)

県外就職率

(%)

愛知県分
(人)
求人倍率
(倍)
 初任給(円) 他府県進学率    (S40年)
昭和35年
(1960)
1,770,483 54.9 38.6  記載無  記載無 記載無  5,870 東京都女子
   
72.6%
昭和40年
(1965)
2,359,558 67.4 26.5 33.3 36,977 2.9 13,320 青森県女子       38.7%
昭和45年
(1970)
1,667,064 78.7 16.3 33.6 16,901 5.7 23,500

 愛知県への出身県別就職者         ・・・・・出典:職業安定業務月報・特集号<新規学卒者の職業紹介状況等>各年次
年 次 愛知県へ
の就職者

(人)
うち東海
出身者

(人)
東海以外の
他県計
(人)
 第1位
(県名、
人数、
割合)
第2位 第3位 第4位   第五位      
昭和38年
(1963)
59,860
27,892 31,975
長崎県
4,992
(50.1%)
鹿児島県
4,898
(33.2%)
熊本県
3,078
(30.1%)
宮崎県
2,555
(25.0%)
大分県
1,940
(39.6%)
昭和41年
(1966)
38,340
17,243 21,097
長崎県
3,443
(42.7%)
鹿児島県
3,224
(28.7%)
熊本県
1,898
(23.4%)
宮崎県
1,689
(23.6%)
大分県
1,056
(28.6%)
昭和45年
(1970)
23,013
8,808
14,205
鹿児島県
2,390
(29.2%)
長崎県
2,281
(34.0%)
北海道
1,464
(10.1%)
熊本県
1,147(17.0%)
宮崎県
1,080
(18.0%)
10.最後に
 昭和50年代頃から、東南アジア諸国との競争激化、工場の海外進出により、ここ数年、一宮市始め周辺の工場が廃止され、繁華街で若者を
見る機会がめっきり減少したことは寂しい限りです。 また、平成17年11月の新聞には、当地の毛織物産業のパイオニアである津島の片岡
毛織が、繊維産業から撤退することが報道され、地域関係者に与えた影響を懸念しています。
 関係方面で様々な取り組みがなされていると思いますが、繊維産業の活性化を切望します。
私見ですが、8年ほど前に一宮の活性化を考える機会があり、瀕死の危機から復興したイタリアの繊維業界に関心を持った経験があります。
イタリアは、日本同様に繊維産業が盛んでしたが、海外市場で日本製品の攻勢にあい壊滅的な打撃を受けたそうです。 必死な取り組みの
結果、個々の企業が独自の商品、そしてブランドを構築し、差別化することにより復興しました。
ブランドの構築には、商品は当然ですが企業の建物から文房具の小物まで徹底したコンセプトを追及し、企業及び商品のイメージを高めたよう
です。 安易かもしれないが、イタリアの都市との姉妹提携、交流も有効かもしれません。 イタリアに関係の深い人(イタリア人の義理の姉)と
話していた時に、色彩感覚の鋭さ、センスの良さは天性かもしれないねと結論を出しました。 即効性ある方策はないと思います。 しかし業界の
廃業が続けば、多くの関連分野から構成される繊維の産業集積(物を作り上げる総合力・・・私見)が薄くなり、滅失の危機も想定されます。
将来が展望できる明るいニュースが必要と思います。
 江戸時代から先人が苦労し、働く人が泣き笑い、人々に温かさ、自己主張する手段を与えてくれた繊維産業の活性化を祈念しています。


見学等でお世話になった施設
<ホームページのURLはリンクされていません>

○一宮市博物館 http://www.icm-jp.com/index.shtml
○一宮市尾西歴史民族資料館 http://www.city.ichinomiya.aichi.jp/division/rekimin/index.html
○産業技術記念館 http://www.tcmit.org/
○愛知県産業技術研究所尾張繊維技術センター http://www.owaritex.jp/
○財団法人一宮ファッションデザインセンター  http://www.fdc.or.jp/summary/bishu-histroy.html

参考資料

○新編一宮市誌
○木曽川町史(昭和56年)
○一宮の歴史(平成6年10月発行、一宮の歴史研究グループ)
○毛織のメッカ尾州(平成4年、尾西毛織工業協同組合)
○尾州艶屋物語(昭和49年7月発行)
○訪ねてみませんか一宮の史跡(田中豊著、平成13年4月発行)
○西尾城下町ガイドブック(平成14年西尾市資料館)
○宥座の器(グンゼ創業者波多野鶴吉の生涯)(97,12あやべ市民新聞社発行)
○諸工事情bP(明治36年3月生活社版、土屋喬雄校閲)
○女工哀史(細井和喜蔵著、岩波文庫)
○集団就職の時代(加瀬和俊著95.5発行青木書店)
○愛知県立起工業高等学校夜間定時制終了記念誌(平成10年3月発行)
○生きる豊田佐吉(昭和46年12月毎日新聞社発行)
○豊田自動織機「40年史」(昭和42年11月発行)
○稲沢の街道T 鎌倉街道と岐阜街道(稲沢市史編纂委員会)

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