木曽川と濃尾平野形成について 
 水との闘い〜利水〜水に感謝
濃尾平野について
往古から濃尾平野は、大部分が海であったと伝えられる。下の左図は、猿投神社に伝わる尾張古図とされる。真贋に
ついて議論があるが、濃尾平野の元の地形が分かり易い

右のイラストは、古図を簡略化しており地名も現代表記で更に分かりやすいので掲載します
猿投神社に伝わる養老元年(717)の尾張古図
(下の二枚の写真はmusublgさんの御協力を得ています)
   1998年2月4日岐阜新聞、「ぎふ海紀行」より
     
古代から中世の尾張平野について
木曽川は犬山市周辺から放射状に流れ、濃尾平野の形成はゆっくりしたスピードであった。初期の段階では、あち
  こちにできた寄洲が互いに結び付いて川中島を形成し、やがて草木が自生して不動の地盤となった。当時は川の
  流路 は一定せず、あたかも網の目かクモの巣のように乱流蛇行していた。住民は、自然にできた堤防洲・小高い
  丘に水を避けて住みつき、肥沃な帯のような狭いところを求めて耕田とし、稲作を始めたと思われる。(川島町史)

8世紀頃から古代国家が成立し、中央が求める貢納物の生産のために尾張東部から東濃にかけて陶磁器生産の
  ため膨大な薪材の消費によって山林が荒廃し、洪水氾濫に伴い下流部の尾張平野における自然堤防(濃尾平野)
  の形成を活発化する一因になった。自然堤防上は、絹の生産のための桑畑や集落として利用された

  
そして生活圏を移動する道から地方を連絡する街道が成立した。東海地方の中世鎌倉街道も自然堤防を
  利用した形態が多い。

堤防洲・小高い丘が安定し、犬山から網状に流れていた木曽川が、七〜八本の支流になった
 
木曽川八流は、洪水の度に変化していた。木曽川の本流(広野川)は、西進し美濃と尾張の国境として境川と呼ばれ
 た。現在の揖斐川合流後の川は、墨俣川とか尾張川と呼ばれた

流域の環境悪化による洪水が全国的に多発するようになり、延暦3年(784)12月、初めて桓武天皇によって「森林
  保護に関する詔」(続日本記・巻38)が発せられた。

神護景雲元年(767)、貞観7年(865)、洪水により木曾川(広野川)の河道が埋まり、尾張側に全ての水が流れるように
  なり大雨による被害が発生し、朝廷の命により河口の開削が行われた。(広野川の紛争)(新編稲沢市史 本文編上
)
 
 中世(平安・鎌倉時代)、奈良から鈴鹿越えの海道が、上の図のように墨俣・黒田経由に変わった。墨俣には官営の
  渡し船が設置されたが、境川等木曽川関係には記録がなく、(分流のため)浅瀬を徒歩で渡ったと思われる
 
○天正14年(1586)6月、未曾有の大洪水により、本流が草井付近より直進する現在の流路(青色の線)となり、豊臣秀吉
  は、この新河道を濃尾の国境と定め、尾張国葉栗、中島、海西3郡の一部が美濃国に編入した。
  また、秀吉は文禄3年(1595)洪水に荒れた尾張を再生し、木曽材の流通路を安定すべく新しくできた木曽川の堤防を
  (農民に飯米一日一人5合支給し動員)修復した。なお「
木曽川という名称が、この頃から使われるようになり、この川
  の成立の意味を暗示している。(尾西市史通史編)
○慶長13年(1608)、徳川家康は尾張を洪水から守るとともに西国の防衛線となる木曽川左岸の犬山から弥富に至る
  48キロの「御囲堤」と称される大堤防を築いた。また、木曽材の筏を流すため、一の枝から三の枝を締め切った。こ
  の ため尾張部の稲作の水不足となり、代替え施設として宮田用水などが整備された。(木曽川町史)
○木曽川の流れがまとめられて、美濃方面に流れることにより、木曽川、長良川、揖斐川が合流し、更に各河川の川
  床がそれぞれ8尺(約2.4m)西に低くなっていることから美濃に洪水が多く発生した。(羽島市HP)
○濃尾平野は東部が隆起し、西部は養老山地手前で沈下していく:濃尾傾動運動)ことから、三川河口が集まり、美濃
 は洪水が多発した。(中世の東海道をゆく榎原雅治著)
 
 




紀行文の黒田宿<木曽川町>
愛知県の西部に位置し、西に木曽川があるが中世時代は、木曽川の本流が墨俣に流れ、しかも木曾八流といわれるように
中小河川が乱流していた地域である。当地は湿地帯の中に村があり、稲作と自然堤防を利用した桑(絹糸)畑が主な産業で
あった。この絹糸作りが、江戸時代の綿織物、明治から昭和にかけて毛織物の一大生産地となった原点である

この地区の十六夜日記及び東関紀行の記録はないが、「なぐさめ草」(正徹法師)に黒田庄滞在の記録がある
一宮市木曽川町内の鎌倉古道(街道)
 
     
木曽川緑地公園<一宮市木曽川町玉ノ井>
愛知県における鎌倉街道の最西端である。先の茂み
の先が岐阜県で左が羽島市、右が笠松町である。撮
影場所は近世に建設された新堤防の上です。
千年前の旅人が難儀して歩いた中小河川の川原も今
では家族が楽しむ憩いの場に利用されている。
(07.03撮影)
  木曽川新堤から賀茂神社<一宮市木曽川町玉ノ井>
新堤防から下の民有地の中の道路を約300m進むと
御囲提に出る。賀茂神社は中央の緑のその先にある。




     
御囲提近くの民家<一宮市木曽川町玉ノ井>
御囲提近くの民家です。川に近い場所のため水難に
対する備えが石垣に伺われる。石垣の上部高さが
囲提の高さに近い。


  賀茂神社<一宮市木曽川町玉ノ井>
社伝によると欽明天皇の時代(540)、玉ノ井霊泉の
傍に葉栗郡穴太部神社を祀るとされる。堀川天皇寛治四年(1090)京都賀茂御厨の一つが置かれ、賀茂別雷
宮を合祀し、賀茂神社と改称する。
     
賀茂神社内にある「玉ノ井霊泉」
「霊泉玉井由緒記」「神社紀要」によると、天平3年
(731)聖武天皇は光明皇后の眼病治療のため、行基
に平癒祈願を命じられた。行基は17日間の祈願によ
り、尾張の国に名泉ありとのお告げを受けて、この玉ノ
井の清水を汲み都に帰った。これによって皇后はたち
まち平癒せられたとある。享保二年(1717)境内を発掘
したところ天平三年3月5日と墨で書かれた古井桁が
発見され、霊泉跡を立証し、地名となった。
  地蔵<一宮市木曽川町玉ノ井>
賀茂神社の境内を通っていた街道は、東に進んでいる
が、住宅が立ち並んでいるため、一旦神社の正面に戻
り奥村用水に蓋がしてある道に進み、数軒北に街道の
入口となる地蔵がみえる。墓碑もあり宝暦時代の年号
記載の古いものであった



     
念敬寺(真宗大谷派)<一宮市木曽川町玉ノ井>
お地蔵の前を進むと念敬寺の裏手、そして社宮司前に
至る。
念敬寺は、延徳3年(1491)玉井村の郷士玉井右京光
倫の建立に始まるという。外観は瓦積みの塀で囲まれ
ており、道沿いの奥に墨宇吉翁の像が見える
 











  墨宇吉翁像
安政2年(1855)墨金七の三男として木曽川で生まれ、
念敬寺の寺子屋で学ぶ。家業(艶岸)の艶出しに精励
し、長兄善右衛門亡き後、その子岸太郎を擁立して後
見人となり、34歳で分家独立(艶屋)するまで家業発
展のため粉骨砕身の努力をした。この年、豊田佐吉は
得意先の玉ノ井の有力機屋にきて研究に取り組んだと
いう。有力機屋は艶岸の得意先であったので、豊田佐
吉は時々やってきて艶屋の機械を分解したりて研究に
没頭したという。
中島郡起村に開業(艶金)した墨宇吉は幾多の辛酸を
なめながら織物の改良に努力し、大正年代に染色・整
理両工程の結合を達成しつつ、経営的にも近代工業
化を達成した。このことによって織布業者、整理業者
が互いに分業し、補完して尾西地方の毛織物業が飛
躍的な発展を遂げた。・・・木曽川町史P679
     
玉ノ井の町並<一宮市木曽川町玉ノ井>
明治時代初期、愛知県尾張部は縞木綿の産地として
発展していたが、木曽川の水運及び笠松・起の木綿商
人の関係から工場が木曽川沿岸に多く集まっていた。
今でも玉ノ井地区には、町が豊かであった雰囲気を見
ることができる。
明治22年7月、東海道本線が全線開通(木曽川鉄橋
完成)した頃、毛織物が中核製品となり、一宮市内に
生産拠点が移っていった

  ノコギリ屋根の工場<一宮市木曽川町玉ノ井>
屋根の北面にガラスを採用し、太陽光線の影響を受け
ない工夫がなされている。繊維工場に多い







     
社宮司社(しゃぐうじしゃ)<一宮市木曽川町外割田>
念敬寺北側を東に進むと、直ぐ左手に社宮司社の杜
がみえる。通称「オシャゴジ」と呼ばれ、太閤検地に用
いた水縄を埋めた地に祀られている

  日本画家川合玉堂生誕地<一宮市木曽川町外割田>
川合玉堂は明治6年(1873)、外割田に生まれ、明治
から昭和にかけて活躍した日本画家。生家跡に生誕
の碑と玉堂記念図書館が建っている
   
八剣神社<一宮市木曽川町外割田>
延暦3年(7848月創建と言い伝えがあるが詳しくは
不詳である。外割田地区の総氏神様として町民に親し
まれ、崇敬を集めてきた。
拝殿の扁額は、当地出身の川合玉堂直筆のものである







   大徳山剣光寺(臨済宗妙心寺派)と地蔵尊
<一宮市木曽川町黒田>

寺に伝わる文書や口伝によると建久元年(1190)に
源頼朝が京からの帰途、寺前で乗っていた馬が動か
なくなり、この寺の地蔵が、かって願をかけていた地蔵
尊であることを知って、感涙し田畑と宝剣を奉納した。
この宝剣は、正冶元年(1199)正月、頼朝が死んだ
夜、霊光を放ち天を衝いて輝いた。村人たちは、これ
以来この寺を剣光寺と呼ぶようになった。
この寺に伝わる地蔵菩薩は、昔、黒田地蔵とよばれ、
尾張の六地蔵の第一番に挙げられ、道中安全を願う
旅人の守護地蔵としてあがめられた
     
剣光寺北の推定鎌倉街道跡<一宮市木曽川町黒田>
源頼朝が京鎌倉を往還した古道。現在の剣光寺は、
南に移動しており、当時は約百m北にあったという。野
府川に架かる橋は頼朝橋である。この町名は「黒田字
北宿」であり、中世時代の黒田宿(里)があった場所と
思われる。









  
  黒田の里(宿)<一宮市木曽川町黒田>
「正徹法師黒田里に託居の図」<尾張名所図会>
歌僧正徹(しょうてつ)は、十六夜日記の作者である阿
仏尼の子・為相(ためすけ)の孫・冷泉為尹(れいぜい
ためまさ)に和歌を学んだ。応永25年(1418)3月、
正徹初めての旅で尾張黒田の土豪の家に身を寄せ、
「源氏物語」の講義をし、帰洛するに際して「なぐさめ草
一遍を残して去ったという。
<なぐさめ草の関係部分>
都よりあずまへ行かふ旅人の、過る堤の道もただ此か
きほの外なれば、むらがりとほる駒の足おとも、ものさ
わがしき所も有るべし、わき田におりたつたごの、こえ
ごえにうたひ、夜は蛙の耳かしましきなど、めずらしき
心地ぞせし、庭の木下に卯花のほのかに咲たるを
  夜もすがら光は見せよむばたまの
         くろだの里にさける卯の花

<解説>・・・木曽川町史P298
京から鎌倉へ行き来する旅人の通る堤の道(鎌倉街
道)も、この垣根のすぐ外なので、群がって通る駒の足
音で騒がしい時もある。まわりの早稲田で田植えでも
するのであろうか、農民が口々に歌う歌があちこちか
ら聞こえ、夜は蛙の声がうるさいほどである。庭に卯の
花がほのかに咲いている
   
     
法蓮寺<一宮市木曽川町黒田>
鎌倉街道は頼朝橋を通って剣光寺の裏あたりからJR
木曽川駅構内プラットホーム南端を経て法蓮寺の裏
あたりにでる。
明応元年、身延山第十一世日朝上人の弟子、日妙師
が諸国巡礼のおり、地元信徒の願いを受け、翌二年、
本山から山号、寺号を受け、直末寺として創立。
法蓮寺の山門を入ると右側に妙見堂が建っている。
通称「黒田妙見」と言われ、大阪の能勢(のせ)妙見、愛知
の内津(うつつ)妙見とともに日本三大妙見に数えられ、毎
年正月15日は初妙見、旧6月14,15日が妙見祭で、こ
とに14日の宵祭は、初夏の名物になっている
  山内盛豊・十郎父子の墓<一宮市木曽川町黒田>
法蓮寺本堂裏の墓地に山内一豊初代土佐藩主の父・
盛豊、兄・十郎父子の墓がある










     
 籠守勝手(こもりかって)神社
            <一宮市木曽川町黒田>
法蓮寺裏あたりから曲がりくねった道を東に進むと籠
守勝手神社の前にでる。創建年次は不詳であるが、延
喜式内社の黒田神社と比定され、地元では「おこもりさ
ん」の通称で親しまれており、神社にまつわる伝説が
残されている
  










  「お駕籠まつり」<一宮市木曽川町黒田>
伝説によると父を殺害された二皇子(億計おけおう王
=24代仁賢天皇)と(弘計をけおう王=23代顕宗天
皇)は難をのがれるため、真清田神社に向かう途中、
黒田大明神の杜森に駕籠を留め、籠の中で一夜を過
ごした。その夜はちょうど葉月15日の望月の夜とあっ
て、村人は里芋の御馳走を添え、親切にもてなした。
二皇子はたいそう喜び、里人の饗宴に対する礼にと、
芋の葉にうるわしい夜露を集め、黒田明神に奉献した
。しかし、しのび旅のため夜明けを待たず出発して行っ
てしまった。これ以後、黒田明神を駕籠守勝手神社と
尊称するようになったと言い伝えられている。
毎年、十五夜の夜、二皇子がお宮で一夜を過ごした様
子が再現され、神事が行われる。お供えの中心は月
見団子で、右端にあサトイモが供えれている。
二皇子の到着は午後7時、出発は午前零時とされ、神
事が行われる
     
白山神社<一宮市木曽川町黒田>
社歴は古く、鎌倉時代乾元年
(1302)勧請、勅使によ
って祭祀が行われ、崇敬を集めていた。永禄三年
(15
60)
清州織田信長と嫡流岩倉織田家が戦った浮野合
戦により焼失し、その後、秀吉、家康に仕えた一柳監
物直盛が黒田城主になって再建した。


  馬取り池<一宮市木曽川町玉ノ井>
白山神社西北に碑がある。古来、神社の西北に古墳
と大きな池があったが、文化末年(1800頃)、古墳を
取り崩し池が埋められ水田にした。昔、ある人が鎌倉
街道を馬を引いて帰る途中、この池の近くで休み、ふ
と気がつくと馬がいない。それは池の主である大蛇が
馬を引きこんでしまったのだという。それ以後、「馬取り
池」と呼ぶようになったという
 
     
伊冨利部(いぶりべ)神社<一宮市木曽川町門間>
白山神社の東裏から東南に進み、東海北陸自動車道一
宮木曽川インターチェンジ外側を回って南下すると伊冨利
部神社門前にでる。
神社の創建は延暦年間(782〜806)と考えられ、現在地
より北西の方向にあったが、康生元年(1455)社殿が焼失
し、現在地より西に移された。すると鎌倉街道は神社裏を
通っていたことになる。
上、下門間
(かどまのしょう)の総鎮守の神として崇められた。
鎌倉時代、頼朝は一国に三か所のお札所を定めているが
、尾張国では真清田(一宮)、国分寺(稲沢)、と門間の八
幡宮が定められ、八幡
(やわた)の八幡(はちまん)の名前で
知られていた。

徳川義直(尾張藩初代藩祖)寄進の釣灯篭がある
  八幡稲荷社<一宮市木曽川町門間>
伊冨利部神社境内奥の稲荷社の鳥居群













     
鎌倉街道の遺構<一宮市木曽川町門間>
伊冨利部神社第二鳥居前から南に到る鎌倉街道の遺構


 
  木曽川町から一宮市内への古道
       <一宮市今伊勢町馬寄子守・江川>
古道は伊冨利部神社前から、農地の中をほぼ南進する。昭和年代に農地整備を行っており地形が変わっており、
街道の遺構は見られない




 
一宮市内の鎌倉古道(街道) 
 
紀行文の一宮
鎌倉古道(街道)は木曽川町の伊冨利部神社前からコナミ(元ソニー一宮工場)西の水田の中を南に進み、日光川にと
至る。小栗橋があったと思われる橋を渡ると小栗町となり、日光川の河川提に沿う形で宮西通りの東を九品寺公園に突
きあたるまで進む。公園内を東南に斜めに横断し、真清田神社を迂回する形で浜神明社まで進み、大江川に沿う形で、
常念寺、福寿院、即得寺と進み、裁判所東の真清公園、照手姫袖掛松がある牛野神明社、そして西に進むと大和町妙
興寺の各社と南下し名神高速道路を潜ると稲沢市の境界となる大江川(宮田用水)に架かる子生和橋となる。
今回、地図を再作成した結果、大江川、宮田用水沿いに古道が近いことが分かる。往古の堤防地を利用した結果と思
われる。
十六夜日記の阿仏尼は、訴えのための東下りであるので、一之宮(真清田神社)の名にかけ、「法華経に説く、仏と
 なる道はただ一つ一乗であり、二乗、三乗にはない」と、訴えが認められる願望を強調している。
 この地区の東関紀行の記録はない
     
中世の野井戸跡<一宮市今伊勢町江川>
どこにでもあるような平凡な農村の風景であるが、区
画整理工事により、昭和30年、前面の田の中に中世
時代の井戸跡が発見されている。井戸跡は埋め戻さ
れ、案内や目印もないが通りがかりの80歳のお年寄
りに教えていただきました。(06.5撮影)
元ソニー工場、現在のコナミの南方です。
(平成19年3月再撮影)
 
日光川を渡る古道<一宮市小栗町>
主要道路を横断すると、前方に日光川を渡る橋がある。
その先は小栗町であり、次の目標の神明社に続く。参
考資料では、小栗橋となっているが権現橋であった。
小栗橋を探したが、周辺では見つけることができなかっ


     
神明社<一宮市北神明町>
往昔は坂手皇太神宮と称されていたことから倭姫命
を奉じていたと考えられている。倭姫は伝説の域であ
るが、伊勢神宮への逢拝所であったことから、古道も
神社前を通さなかったとも考えられる。したがって、古
道は日光川を渡ると神社前の河岸段丘に相当する道
を南下することになる。
<参考:倭姫伝説>
大和朝廷は倭姫(やまとひめ)命(垂仁天皇皇女)に
命じて、大和朝廷の祖神天照大神のご神体を奉じ尾
張国中島宮に逗留された伝
  九品地(くほんじ)公園<一宮市文京1> 
真清田神社の本地阿弥陀如来を本尊とした真清田神
社守護寺の九品寺と墓地跡であった。九品寺は室町
時代には、廃寺になり、元禄時代に再興されたが明和
年間に無住になった。
なお私自身が知らなかったが、名称の「九品」の意味
は物質や人の性質を3×3で分類したもの。三三品(さ
んさんぼん)。上品、下品の語源とされる。
九品(くほん)は中国で、人物を鑑定したり、官吏登用
の分類に採用された。そして仏教で経典を翻訳した時
に中国の分類を用いた。例えば、極楽往生に9パター
ンがあるとした「九品往生」である。
     
無量寿寺<一宮市松降2> 
天保十一年(1840)開山の浄土宗西山光明寺末寺
尼寺である



  無量寿寺北側の古道遺構<一宮市松降り2> 
参考資料に一宮市史下巻226ページの写真と紹介され
ている同じ場所の写真である。
一宮商業高校から九品地公園を南下し、無量寿寺北
側の小路に入り、東に進んでいる。

     
松降通から見た鎌倉街道<一宮市桜>
無量寿寺裏から松降通に出た古道は、約百m南下し
、郵便局付近の一方通行の道(写真)を東南方向に
進むと浜神明社に至る。
華蔵院は、右側の車庫の奥にある。松降通から二つ
目の建物であ
る。
  華蔵院<一宮市桜>
正面に華蔵院の標札がある。右側の壁は車庫である




     
浜神明社(一宮市桜3丁)<一宮市桜>
由来は古く、垂仁天皇の時代、倭姫命が神鏡を奉じ
美濃の国伊久良川の宮より尾張の国中島宮に遷幸
の時、ここに滞在したことから神明津の地名をなした
と伝えている
  浜神明社境内にある腰掛け石
往昔は潮が差し込み、姫の御船を繋いだとする松、腰
掛け石の伝説がある。


     
真清田神社<一宮市真清田>
清田神社は平安時代の「延喜式」神名帳に記載さ
れている歴史の古い神社です。祭神は、尾張氏の祖
神天火明命(あめほのあかりのみこと)である













  阿仏尼の歌碑<一宮市真清田>
鳥居の内側、神橋の両側に、神社に因んだ歌碑がある。
西側に阿仏尼が真清田神社を詠んだ歌碑がある。

<十六夜日記>
 又、一宮といふ社を過ぐとて、
 
一の宮名さえなつかし二つなく三つなき法(のり)を
 守るべし

                     
阿仏尼
 
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  一の宮とは名まで心が引かれるよ、この上ない仏法を   守ってくださるというのであろう。
参考
 「二つなき・・・」とは法華経・方便品の「無二亦無三」の
訳で、同経の功徳のこと。

 
     
西山浄土宗柳星山常念寺(浄土宗)<一宮市大江1>
明徳元年(1390)空?召運上人により小島の地に開山、
旧九品寺(くほんじ)の阿弥陀仏が御本尊である

運上人は足利尊氏の甥とされており、僅か25歳で
常念寺を建立している。天正時代、兵火に焼失したが
、ときの一宮城主関長重が城の鬼門鎮護として現在
地に移し堂宇を建立し、菩提寺とし
た。
  一宮城主関氏三代の墓
常念寺本堂前に一宮城主関氏三代の墓がある。






     
福寿院と馬頭観音堂<一宮市大江2>
神亀年間(724〜29)行基の草創とされ、弘仁年間
(810〜24)弘法大師が真清田神社に参籠のとき、塔堂を
再興したと伝えられている。
かって盛大な本殿も第二次世界大戦の空襲で焼失し、今
ではモダンなコンクリート製となっている。







  真宗大谷派即得寺<一宮市大江2>
寺に伝わる話によると、源義経に従って出羽国羽黒に
落ちた鈴木三郎繁家の祭司は地名を誤り尾張国葉栗
郡(丹羽郡)へ来た時、父繁家討死の報を聞き、無常
を嘆いて、この地に永住した。以後、繁家の菩提を弔
いつつあったが、明徳年間(1390〜93)にいたり、その
裔孫、観智の時に、応永年間(1394〜1428)一宮来たり
、九品寺東北に天台宗の一字を建立し阿弥陀如来を
本尊として、宮法山長福寺と称した。
応永十九年(1412)観智は真宗に改めて、寺号を即得
寺と改称した。慶長年中(1596〜1614)七世願誓の時
代に現在地に移った。

     
真清公園<一宮市柳戸2>
現在は、裁判所の東南にある平凡な公園となっているが
、地元の方の話では、明治42年起工、大正4年完成した
和風庭園であった。庭園は全て松尾流宗家、松尾宗見の
設計であり、樹石の配置は雅趣に富み、山水の風光明媚
、特に園内の盆地には大江川の水を引き入れて池水の
精鮮が図られていた。現在の裁判所を含む広大な敷地
は西側のお旅所と一体となり、更に様々な式典が開催で
きる市公会堂や広場があり、一宮市民の誇りであった。
この公園は、昭和30年代に旧国道22号線(現在の県道
名古屋一宮線)建設のため廃園された。更に敷地の一角
に善良な市民には縁遠い裁判所等が建設されたことも明
を暗にした強烈な印象を抱いた人も多かったという。
一宮市内に緑が少ない現状からも、惜しい公園を無くした
ことと残念に思う

参考資料:史録いちのみや<松本勝二著>
  富士塚<一宮市柳戸2>
参考資料では、地名は概して無縁仏を葬った地に多く
、旅人の行き倒れた者を埋葬した地であろうとしている。













     
照手姫袖掛松<一宮市牛野通2丁目>
真清公園を南下し、県道名古屋一宮線牛野交差点手
前マツダ販売店東の神明社境内に袖掛け松碑がある。
室町時代中頃、人形浄瑠璃や歌舞伎などで名高い照
手姫が常陸(茨城県)の城主、小栗判官助重と京へ
向かう鎌倉街道沿いの当地で、小袖を掛けて休息し
たと伝えられている.
また、牛野に宿があったが詳細は不明である
萩の名所 牛野の宿
 巳が毛のくろ田もちかくになりにけり
           わくる牛野につづくあし原
                    僥考法印
  この物語は、「当流小栗判官」「小栗判官車街道」など
異本が数多くあり中世の浄瑠璃の人気作が歌舞伎に
入り、明治時代まで上演されていましたが、その後、途
絶えていたのを昭和49年武智鉄二演出で復活しまし
た。さらに昭和58年7月、歌舞伎座で市川猿之助が
「当世流小栗判官」として上演し、猿之助十八番の一つ
になっている
 (平成10年6月中日劇場観劇会パンフレット) 




     
妙興報恩禅寺<一宮市大和町妙興寺> 
鎌倉時代の貞和4年(1348年)創建された、臨済宗
妙心寺派の古刹です。写真は、国指定重要文化財の
勅使門です
足利家の崇敬を集め、
6代将軍義教が永亨4年(1432)
富士遊覧の途中、妙興寺に立ち寄っている。
  東市場社<一宮市大和町妙興寺 
詳細は不明であるが、妙興報恩禅寺東に位置し、繁栄
の頃の門前市があったと思われる。
牛野神明社から当社まで、ほぼ直線が遺構と推定され

     
日吉社一宮市大和町妙興寺 
東市場社近くに南接するが、詳細は不明である



  三十八所社一宮市大和町妙興寺 
日吉神社のほぼ南に位置するが、詳細は不明である。
古道は、このまま南進し、共同墓地の中を通り、名神
高速道路沿いに東に方向を変え、子生和橋(稲沢市)
を渡り、油田遺跡(一宮市)、三本池(稲沢市)と市境界
を進んでいる。