中世紀行文(十六夜日記・東関紀行・海道記)に書かれた |
鎌 倉 古 道 |
はじめに ここでは、京と鎌倉を結んでいた鎌倉街道を中心に各地区の歴史や文化を紹介しています。街道探索の教科書 は「平安・鎌倉古道」<尾藤卓男著>の冊子です。 私が、街道探索を始めた契機は、平成12年秋、知人から教えられたのが、私の鎌倉街道探索の始まりでした。私 の自宅の近くに下津=折戸宿(稲沢市下津町)跡があり、このことを説明した石碑を発見しました。石碑の周囲は、 どこにでもあるような農地家屋が混在する風景です。しかし、石碑には、千年前に鎌倉街道が通っており、宿場が あったと書いてありました。静かな風景の中に、千年前の宿場、町があったのです。 これを契機に、街道探索が東西と続き、各地で市(町村)誌等で事実を調べました。平安時代、鎌倉時代は、政治や 文化に大きな功績を残している事実、人の往来が活発化し、逸話も残されていることを知りました。 しかし、現実には、街道の遺構はあまり発見することができませんでした。 平安・鎌倉時代は土木技術が未発達で あり、街道は自然に発生した河川堤防や微高地を利用したとされ、次の災害後には新しい河川提が利用されるなど 固定した遺構はなく、その遺構を探索することは困難でした。当時の姿・形が見えない、分からないことから幻の街道 と言われます。 しかし、鎌倉時代は政治の中心が関東に移動したことにより、東西の交流が活発化し、阿仏尼の十六夜日記や歌人 の詩がのこされており、当時の様子を想像することができます。 近世・江戸時代には、東海道や中山道が整備され、旧道となった鎌倉街道は表舞台から消え去り、人々から忘れら れ、幻となりました。 このホームページでは、岐阜県から愛知県の鎌倉街道の遺構や目印となった神社・寺院及び風景をビジュアル画像 で紹介するとともに、市町村誌、郷土史による説明とともに鎌倉街道の紀行文(旅行記)である十六夜日記、東関紀行 及び海道記そして歌人の歌を並列し、八百年前の姿を思い浮かべていただけるように企画しました。 また、各地区の街道の歴史を調べていく中で、河川の流路変更に伴い街道の遺構が移動している事例が多いことを 確認しました。このため遺構が固定した意味の街道というよりは、古の人々が踏み固めた道という意味の古道を原則 として使用していくこととしました。 |
「十六夜日記」 藤原為家の側室・阿仏尼が相続(後継者)問題を鎌倉幕府に訴えるため、弘安二年(1279)都から鎌倉までの 旅で見聞した事柄を簡潔な文書で残した紀行文日記で、当時の状況を思い浮かべることができる貴重な作品 である。成立当初、阿仏尼はこの日記に名前をつけておらず、単に「阿仏日記」などど呼ばれていたが、日記が 10月16日に始まっていることを由来として、後世に「十六夜日記」と称された。 「東関紀行」 仁冶三年(1242)成立と考えられる紀行文。作者は不詳。京都東山から鎌倉までの道中の体験や感想で構成 されている。和漢混淆文(わかんこうこうぶん)で、風景描写等が優れた紀行文といわれる。特に萱津の東宿の 賑わいをリアルに書きとめている。 「海道記」 貞応二年(1223)成立と考えられる紀行文。貞応二年4月4日、白河の侘士なる者が京から鈴鹿越えの東海道で 鎌倉に下り、17日に鎌倉に着き、さらに帰京するまでを描いている。 |
縄文時代中期以前は、生活の基調は、狩猟・漁労・採取など自然物の採取であり、行動範囲はあまり広く 生活圏内で移動するため固定した道(*注1)もなく、自然の地理的条件に応じて水上・水辺・山麓・ |
岐阜県及び愛知県西部の鎌倉古道(街道)について |
下の略地図は岐阜県及び愛知県西部の鎌倉街道推定線を示したものである。江戸時代に整備された中山道や 美濃路と比較すると蛇行したり上(山側)に寄っている特徴がわかる。現地を歩いても、走行不便な山裾であり、 水害等を避けた結果としか言いようがなかった。他人にうまく説明できない、もどかしさを感じていた。 今回、鎌倉街道を全面的に見直すことにし、手持ちの資料を精読したところ、次の記述が最適と思われるの でご紹介します。 西濃歴史街道地図(2001.4大垣市発行)に「東山道と等高線」といタイトルで次の内容が記述されている。 西濃地区は大小河川が流れており、古代、整備できない時代には比較的水量の少ない北寄りの地帯を選ぶ 必要があった。これを等高線と比較してみると、湧水地帯の多い海抜10m付近を中山道、海抜15m付近を 東山道(大垣以西は鎌倉街道)が整備されたと思われる。雨の多い時、ここより標高の低い地域は水が吸収 されずに泥地や水流に変化し、東山道はその道筋を避けたと思われる。 この推察は、丘陵地帯を通る愛知県内三河地区の鎌倉街道においても当てはまると思われる。 |
岐阜県関ケ原町の鎌倉古道(街道)推定図 |
紀行文の関ヶ原町 岐阜県の西端に位置する関ヶ原町は、中世鎌倉時代の書かれた紀行文の十六夜日記では、都から徒歩で2日 の場所にある。町区域は、西に伊吹山を控えた丘陵地で、中央の狭い平野が都と東国を結ぶ交通要路となって いる。 東関紀行では、音をたてて流れる藤古川と松が時雨の降るような音を出す中、日差しが見えないような森の中の 道を心細く歩いている心情が書き留められている。 十六夜日記は不破関から時雨以上に降る雨の中、道がぬかるみ歩行に苦労した様子が書かれている。 |
十六夜日記の記述 十八日 美濃の国、関の藤川渡るほどに、まず思い続けける 我ことも 君につかえんためならで 渡らましやは関の藤川 不破の関やの板寂しさは、今もかはらざりけり ひまおほき 不破の関屋は この程の 時雨も月もいかにもる覧 |
照手姫笠掛地蔵と蘇生寺<滋賀県米原市柏原> お堂の右側に地元柏原一丁目町内会が設置した案内 版があり、これによると右側の小さい石地蔵が「照手姫 笠掛地蔵」という。元は、旧東山道沿いにあった蘇生寺 の御本尊であり、「蘇生寺笠掛地蔵」ともいう。 中世の仏教説話である「小栗判官・照手姫」にまつわる 地蔵という。毒を盛られ地獄に落ちた小栗は閻魔大王 の裁きを受けることになった。小栗想いの家来達に免じ て、もう一度娑婆へ戻すことにした。餓鬼阿弥の姿で墓 から這い出た小栗は藤沢の遊行上人の計らいで土車 に乗せられ熊野本宮湯の峰温泉に向けて村から村へ と曳かれていった。 青墓宿の水汲み女として売られていた照手は、五日の 暇をもらい、餓鬼阿弥姿の小栗を乗せた土車を引っ張り、 当地野瀬に来て、野ざらしの石地蔵を見つけ、笠を掛け て熱心に祈りを捧げたところ、地蔵は <立ちかえり 見てだにゆかば 法(のり)の舟に のせ 野が原の 契り朽(く)ちせじ > と告げたという。 湯の峰温泉壺湯の薬効よく小栗判官は49日で全快し、 再び当地を訪れたお礼にお寺を建て、地蔵を御本尊に したという。このお寺を「蘇生寺」という。 その後、蘇生寺は戦火で焼け、安置場所が定まらなか ったがったが、昭和の初めに現在地に落ち着いた。 左の大きな地蔵は、その時に地元の一古老から奉納 された「安産地蔵」という。 |
白清水(しらしょうず)<滋賀県米原市(旧山東町)> 平成8年3月 山東町教育委員会設置の案内版によると 小さな泉で古くから白清水又は玉の井と呼ばれている。 「古事記」に倭建命(やまとたけるのみこと)が伊吹山の 神に悩まされ、この泉で正気づいたとあり、また中世仏 教説話「小栗判官照手姫」に姫の白粉で清水が白く濁 ったことから白清水というようになった。 滋賀県内の国道21号線今須交差点と柏原東交差点 区間の中山道及び東山道(鎌倉街道)は東海道本線の 北側をほぼ重複している。関ヶ原から進んだ場合、JR 東海道本線と並行する街道は、柏原東交差点北の踏切 を左折横断するのが中山道、西に直進するのが東山道 (鎌倉街道)である。 |
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近江・美濃国境寝物語<滋賀県・岐阜県> 中央の小さな溝が国境である。 この地に伝わる寝物語の由来は美濃と近江の国境を 挟んで建つ旅籠屋があり、壁越しに「寝ながら他国の 人と話し合えた」ので寝物語の話が生まれたという。 道の反対側にある石碑の由来書によると、平治の乱 (1159)に敗れ追走の義朝を追ってきた常盤御前が 夜ふけに 隣の宿の話声から家来の江田行義と気づ き寄寓を喜んだ所とか、義経が兄頼朝と不和になり、 奥州藤原秀衡を頼って東に下るが、追ってきた静御 前が義経の家来源蔵と巡り合った所とも伝わるとして いる。 |
車返しの坂<関ヶ原町山中> 南北朝のころ、不破の関屋が荒れ果てて板庇から漏れ る月の光が面白いと聞き、公家の九条良基央がわざわ ざ都からやってきた。ところが、この坂道まで来たところ、 関屋守の者どもは屋根が荒れ果てた様をお見せするの はお恐れ多いと葺き替えた由を聞き、破屋からみるのも 一興なのに葺き替えてしまっては興無しと、歌を詠み京 に引き返したことから地名になったと伝えている。 ふきかえて月こそもらぬ板ひさし とくすみあらせ不破の関守 <美濃国雑事記・木曾路名所図会> |
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常盤御前の墓<関ヶ原町山中> 墓前に設置の案内版によると 都一の美女と言われ、16歳で義朝の愛妾となり、今 若丸、乙若丸、牛若丸の三兄弟を母となる。義朝が 平治の乱で敗れ、知多野間で憤死すると三児を救う ため、清盛の愛妾となるも捨てられる。東国に下った 牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追ってきた常盤 は、山中で盗賊に襲われ、ここで生涯を終えた。哀れに 思った山中の里人が、ここに塚を作り葬ったと伝える。 常盤の墓は左奥という。 |
鶯の滝<関ヶ原町山中> 中世鎌倉室町時代の山中村は旅人も泊まる宿駅であ った。(近世江戸時代は中山道の関ヶ原宿と今須宿の 間の村として人足が駕籠や馬を停めて休憩した立場や 酒屋・古着屋が軒を連ねて栄えていた) この滝は、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれ る格好の場所であった。 滝の高さは約5m、水量豊かで冷気立ちこめ年中鶯の 鳴く平坦地の滝として街道の名所になっていた。 |
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自害峯の三本杉<関ヶ原町松尾> 壬申の乱で大海人皇子に追い詰められた大友皇子は、 大津で自害しました。大友皇子の御首は、首実検の後 に地元の人々が貰い受け、この丘に葬られた。 その場所の目印として、この地に三本杉を植え、「自害 峯」と称した。 |
黒血川<関ヶ原町松尾> この川を挟んで、川の東側に大海人軍、西側に大友 軍が陣取り、激戦を繰り広げ、大海人皇子軍が勝利 した。川幅は中小河川の規模であるが、約10mの深 い渓流で要の地である。特に濃尾平野及び東国を連 絡する道の関ヶ原(不破)が重要拠点であった。 元の名前は、山中川と呼ばれていたが、壬申の乱で 両軍の兵士の流血川底を黒く染めたので、「黒血川」 の名がついた。 |
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箭先地蔵堂及び矢尻の池(井)<関ヶ原町松尾> 壬申の乱のおり、大友皇子の兵士が水を求めて矢尻 で掘ったと伝えられる窪みがある。 隣の地蔵堂にはこの地で出土した地蔵と自害峯の地 蔵が合祀されている。 東山道及び中山道が右手山中から直進し、この地蔵 堂を右の曲がり、名所関の藤川、不破の関跡に向かう。 |
関の藤川(藤古川)<関ヶ原町松尾> 不破の関跡の段丘西側に流れる藤古川。ここでも壬申の 乱の戦が展開された。春は桜、夏は川辺を飛び交う蛍の名所である。 <十六夜日記> 十八日 美濃の国、関の藤川渡るほどに、まず思い 続けける わが子ども君に仕(つか)えんためならで 渡らましやは 関の藤川 阿仏尼 <解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 私の子供達が(歌道をもって)帝に仕えるためでなかった ら、こうして関の藤川を渡って東国に向かうことがあろう か。 (注) 阿仏尼の子・藤原為相(ためすけ)は和歌の家・御子左 (みこひだり)家・冷泉家の創設者となる。 |
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元関の藤川名所か?<関ヶ原町松尾> 新幹線と名神高速道路の間の藤古川下流である。手前に 橋があり、蛍自生地の案内版がある。 前方の山は伊吹山である。 この地域は昭和57年に土地改良事業が行われており、河 川護岸もコンクリート作りであるが、左の道は阿仏尼等中 世の旅人が歩いた鎌倉街道と推定しており、本来の藤川 名所は、ここと思う。(平成26年1月15日撮影) ***関ヶ原史跡ガイド お問合わせ先 0584-43-2665 備考 案内は有料<(千円(交通費)+ガイドの食事(一日 の)場合>です。事前に申し込みが必要です。 |
不破関跡<関ヶ原町松尾> 不破の道を塞ぎ、壬申の乱に勝利した天武天皇は不破 道の重要性から、この地に関所を設けた。不破関は、鈴 鹿関(伊勢国)愛発(あらち・越前国)関と並んで古代三 関(さんげん・さんかん)の一つであった。 規模は、北限土塁が460m、東限土塁が432m、南限土 塁が112mの中に東山道が通り、築地塀で囲まれた約1 町(108m)の内郭があった。 関には、美濃国府(垂井町府中)の役人が分番守護し、 多くの兵士が配置されて国家の非常事態の備え、また 一般の通行を取り締まった。 延暦8年(789)7月14日、三関は突如として停廃された。 しかし平安時代になっても天皇の崩御や重大事件の際に は固検使(こけんし)が発遣され、やがて儀式化しながら 固検の儀が江戸時代末まで執行された。 ・・・出典:関ヶ原町立不破関資料館パンフ <十六夜日記> 不破の関屋の板庇は、今も変らざりけり ひま多き不破の関屋はこの程の時雨も月も いかにもるらん <解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 鎌倉初期にすでに「人住まね・・・荒れにして後は ただ 秋の風」(新古今・雑中・藤原良経)と詠まれていた。 |
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兜掛石と沓脱石<関ヶ原町松尾> 壬申の乱のおり大海人皇子が兜を脱いで掛けたとい われる「兜掛石」、その左手には、沓を脱いだ時に足を 掛けられたと伝えられる「沓脱石」が今も残る。 場所は、関跡に設置された町立不破関資料館から東へ 徒歩数分の民家と畑が混在する中にある。分かりにくい が、小さな案内版があるので注意深く探すとよい。 |
十九女(つづら)池<関ヶ原町関ヶ原十九女池> 鎌倉古道は自害峯から黒血川に沿って関ヶ原インター 付近に東南に進み、インターから東北に転進、十九女 池南及び桃配山に到る行程を推定している。池周辺が 公園として整備されており、案内版には昔宿東町地内 を夜になると笛を吹いて歩く美女が、お椀を借りに民家 を訪ねてきた。返しにきた椀は必ず魚の匂いがしたので 「あの女は十九女池の大蛇だ」との噂に古老が椀の底に 糸をつけた針を刺し、その後をつけさせると池の畔で見 失い、以後再び椀を借りに来なくなり、池から立ち去った という。 |
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桃配山<関ヶ原町野上> 関ヶ原の町中から国道21号線を東に約1キロ進んだ ドライブインやガソリンスタンドが集まる一角にある。 小山には、関ヶ原合戦の徳川家康最初陣地として葵 紋の幟が並んでいる。小山の登坂口案内版に壬申の 乱の時、大海人皇子が献上の山桃を縁起が良いと喜 び、兵士に命を守る魔よけの桃として配り、連戦連勝、 ついに大勝を果たした。徳川家康も、この快勝の話に あやかって、桃配山に陣をしき、一日で天下をとったと いう。 |
桃配山山頂からの展望<関ヶ原町野上> 左に関ヶ原の町、足元に鎌倉街道、右手に垂井・大垣 まで見渡せる軍事上の利点に優れている。天下を手に 入れるパワーを感じる人がいるかもしれない・パワー スポットであると言えるかもしれない。 |
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鶏籠山(けいろうざん)真念寺と野上長者屋敷跡 <関ヶ原町野上> 国道21号線野上交差点の南側に位置する室町時代 寛正年間(1460~1446)開山の浄土真宗の寺院。参 道正面に斑女の観音堂が見える。 国道の反対側、中山道との間に、野上長者屋敷跡が ある。 |
斑女(はんじょ)の観音堂<関ヶ原町野上> 野上の宿の女花子が、旅の途中で立ち寄った吉田 少将と契るが少将の去った後、忘れられず、形見に 取り交わした扇をもって尋ね歩いた末、その扇が縁で 再会するという話を主題にしたのが、謡曲「斑女(はん じょ)」である。 曲名の斑女は、漢の武帝の寵姫だったが、その愛を 失ったのを“秋の扇"にたとえたことに由来する。 花子は病死した我が子梅若丸の供養のため野上の 観音山に観音像を祀ったといわれ、その像は鶏籠山 真念寺に安置されている。 |
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野上行宮(あんぐう)跡<関ヶ原町野上> 真念寺北野上交差点の直ぐ東の舗装道路を南進すると 新幹線高架下、その先に墓地があり、その奥に野上行宮 跡の案内版がある。 壬申の乱において、大海人皇子は野上の長者屋敷の小 高い小平地に行宮を興して本宮とした。高燥にて眺望が 良い場所が理由という。 |
若宮八幡神社<関ヶ原町野上> 真念寺東近くの国道21号線沿いに社標及び一の鳥 居があり、新幹線高架先から境内に上がる階段があ る。境内の由緒案内によると「古来からの神社である が記録としては、寛永十三年(1636)再建」の神社で ある。 参考資料の「平安鎌倉街道」では、一の鳥居から真念 寺裏まで古道の遺構があると書かれているが、現状は 農地ばかりで、畦道らしき道もなく探索は不可能であっ た。 |
岐阜県垂井町の鎌倉古道(街道)推定図 |
垂井(たるい)町は、関ヶ原町の東隣にあるが、相川が流れ、大垣市の西北部となる青野が原と続く人が住みやすい 環境の土地である。このことから東山道(鎌倉街道)で不破を通り垂井に入ると、美濃国府跡、美濃国分尼寺跡、美濃 国分寺跡(大垣市青野町)が立地しており、西濃地区の歴史的役割が高かったことになる。 垂井町の南に金山彦命(かなやまひこみこと)を祀る南宮大社が、日本で唯一の鉱山、金属業の神様として深い崇敬を 集めている。そして、伊吹山(息吹山)、日守(火守)の地名からも、西濃地区の製鉄の歴史を伺うことができる 。先の国府等国規模の建造物の集中、隣の大垣市青墓町を中心とした大型古墳の存在、壬申の乱の美濃勢を味方に した大海人皇子の勝利等興味をそそる地区である。 十六夜日記及び東関紀行とも垂井町における記述は特にない。 |