中世紀行文(十六夜日記・東関紀行・海道記)の舞台を楽しむ 
 鎌 倉 街 道 京から柏原まで<暫定版>
 街道の歴史と鎌倉街道<中世東山道>
(1)最初の道
縄文時代中期以前は、生活の基調は、狩猟・漁労・採取など自然物の採取であり、行動範囲は
あまり広くなく、したがって生活圏内の移動にすぎず、交通というほどのことではなかったと
される。生活圏内で移動するため固定した道(*注1)もなく、自然の地理的条件に応じて水
上・水辺・山麓・山頂を利用した。水上は海上及び河川であるが舟の停泊に便利な風波の静か
なところが選ばれ、水辺では丘陵を避け、徒歩の容易な渡河地点が選ばれた。山地では、狩猟
などの際に通る山麓、分水嶺となっている山頂が自然の通路を提供した。山麓では渓谷に沿っ
て谷間を通り、低い峠を越すようにし、山頂は鞍部の峠で連接し易いところが選ばれた。
我が国は山地が多く、ことに丘陵が海岸まで迫っているため、陸上よりも沿岸交通のほうが便
利であったと考えられる。街道が「海道」とも別称される理由である。縄文時代後期以後、原
始的農業が営まれるようになったが、生活圏域は、未だ限定された範囲であった。

・・・<豊橋市史及び刈谷市史から引用>

(2)最初の街道
大化の改新により律令制に基づく中央集権国家が成立すると、中央と地方との緊密な連絡が必要となり、大化二年
(646)の大化の改新の詔勅が出され<詳細は下欄参
照>官制の交通路の設置を指令したものであるが、記録がな
く詳細は不明である。街道の拠点となる駅(馬の乗継所)名等詳細は927年(延長5年)の延喜式に記録されてい
るが、地図がなく駅位置及び想定ルートが不明であったが、「古代日本の交通路T〜W」<藤岡謙二郎編1978・
1979>で地図が提示され、活用されている。しかし、駅跡及び想定ルートの発掘調査が一部しか実施されてなく、
現段階では推定の範囲で説明されている。官道であった古代東山道は、研究者は国府等をほぼ直線で連絡し、そして
条里制の影響を受けていると指摘している。


(3)中世鎌倉時代の東山道(鎌倉街道
古代東山道は、都を中心にした統治の手段であったが、中世に入り
鎌倉幕府の成立により
それまでの奈良・京都を
中心とする一元的な政権所在地へ至る一交通路としての役割から二大政権所在地を結ぶ主要交通路としての重要な役割
が加わり、政治・軍事だけでなく経済・文化面においても最も重要な幹線となり、鎌倉幕府は街道の整備を進め、京・
鎌倉間の日程が急便の場合、四日に短縮された。一般の日程は「海道記」(1223)は鈴鹿越えで14日間、「東関紀行」
(1242)及び十六夜日記(1277又は12791)は、杭瀬川(大垣市)経由で十日間余とされている。当時、この道は正式には
「京・鎌倉往還」と称された。「京・鎌倉往還」は後世になって、近世の東海道と区別するために、鎌倉への道という
意味で「鎌倉街道」と呼称されている。
この街道遺構は、ほぼ近世の中山道に重なるとされる。

 
注1「道」の語源について
    み」は美称として、「ち」は「地」であって「あっち」「こっち」と同じく、あちらからこちらに移るために
   人間が踏み固めたところが道である。その原形とも言うべきものが「けもの道」である。
                                 出典:瑞穂区制20周年記念誌P48
 注2「大宝令」では、高麗尺が採用されており、三十里は約16Km弱とされる。


(4)このホームページで紹介する鎌倉街道
古代東山道の遺構が確認されてなく、中世時代の東山道(鎌倉街道)遺構も同様に明確にされたものはない。また各地
の図書館で参考にした滋賀県下の中世東山道(鎌倉街道)の資料が探したが見つけることができなかった。
したがって、東山道の街道筋を辿っているといわれる近世中山道をベースとし、町史等に記載されている
箕作みつくり
山を迂回した小脇おわき宿<東近江市小脇町>、戦国時代の有力大名・佐々木氏の観音寺城下を経由した石寺<近江八幡
市安土町石寺>経由清水鼻への道、、同様に清滝の京極氏の拠点(米原市柏原町清滝)を経由した迂回道
を説明している。
また米原市番場という地域限定であるが郷土史家の北川麓三さんが史実や旧地籍図を根拠に水害を避けた微高地の街道を
(中世)東山道と説明されている。岐阜県西濃地区(垂井町、大垣市青墓町)でも同様の経路がみられ、今回、ご協力をいただき
ましたので、引用させていただいきます。

参考資料
  ・
東山道の実証的研究 平成4年黒坂周平著
  ・
古代の道 平成16年武部健一著
  ・
平安鎌倉古道 平成9年尾藤卓男著
  ・
条理と地理 2011年山川恵弘著

  ・番場の推定東山道 平成8年北川麓三著


 参考1:古代東山道の歴史について
645年
   大化の改新<全国に国府を設置>
646年
  改新の詔勅・・・官制の交通路の設置を指令

   初めて京師(みさと)を修め、畿内国司(うちつくにのみこともち)・郡司(こおりのみやつこ)・関塞
    (せきそこ)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はゆま)・伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契
    (すずしるし)を造り、山河を定めよ。

  *付則

   駅馬・伝符を賜うは、皆鈴・伝符の剋(きざみ)の数によれ。諸国及び関には、鈴・契を給う。
                    ・・・南宮大社に鈴契
(1017年製)が保管・・・

  ・・・養老令で駅及び駅馬並びに、七道(地方)の名と関連地名が示されているが、詳細は不明とされる。
    備 考
     駅馬・・・駅家(うまや)に常備され、駅鈴を支給された「急速の大事」に関する地方から中央への通信者である飛駅使
          (ひやくし)を第一とし、急速の大事でない諸種の公文書をリレーする通常の駅使(えきし)の他、駅馬には
          乗るが、駅使の名にふさわしくない公務出張者がある。 <平成4年五箇荘町史>
     伝馬・・・各衙に置かれた馬で、伝符とう乗用許可証を与えられた官人が用いた。この伝馬は、各国内で、国衙と各郡
         を結んで往来する国司や新任の国司が任国に赴く際などに利用された。<平成7年蒲生町史第一巻>

835年
  太政官符を下し、浮橋、渡船を増設させる。(美濃の墨俣、尾張の萱津)
 
927年(延長5年)
  律令法の施行規則の「諸国駅伝馬」に各国別の名称、駅名、配置駅馬数及び配置伝馬数が 記載される。
              ・・・<延喜式(えんぎしき)五畿七道(ごきしちどう)>と称される。・・

1185年
  源頼朝、「駅路之法」を制定し、伊豆・駿河以西から近江まで伝馬を整備



     

参考2:<延喜式>五畿七道(ごきしちどう)  大きな画像 gokisitidou.pdf へのリンク
  
 参考3:東山道駅路及び経路の推定ヒント・・・「完全走破 古代の道」武部健一著から引用
@駅家(うまや)の間隔は、およそ三十里(約16キロ)とされる。
A駅家の位置は、駅路の屈曲点、他の道との交点、渡河点など交通上の接点である場合が多い。
B駅路の経路は基本的に直線である。平野部では、条理に沿った場合が少なくなく、その場合も駅路を基本に条理が 形成される
 場合が多くみられる。
C市町村などの行政境界が直線になっている部分は、駅路であった可能性が高い。それは駅路を基準に境界が定められたことを
 意味する。
D駅路設定の基準として独立峰あるいは山脈・台地の突端など遠距離に望見される地形的特長を目標とする場合がある。
E渓谷などの曲折した水路、あるいは屈曲の多い海岸線に沿って駅路が通ることは、ほとんどない。むしろ尾根沿いに 山を越えて
 直達する場合が多い。自然災害に対する安定性と軍事上の安全性の両面からの意味を持つ。
参考4.京都市及び滋賀県内の東山道経路及び駅位置<京から瀬田駅までは古東海道扱い> 
 

 

参考5.中世時代の鎌倉街道
京から杭瀬宿(大垣市赤坂町)まで東山道筋、杭瀬宿から熱田の宮までは江戸時代の美濃路の東、熱田の宮から藤沢は古代東海
道、藤沢から鎌倉までは上の道の経路が紀行文に書かれている。中世東山道の記録が少ないが、八日市の歴史(昭和59年8月八
日市(現・東近江市)市史編纂委員会)に鎌倉時代の小脇宿の存在、山東町史(平成3年2月、現・米原市)
では、「中世には京極氏の
柏原館(清滝付近)が宿駅の中心であったろう」と説明している。

  
 このような中世時代の鎌倉街道と紀行文を紹介し、当時の風景を想像したい。
 
 「海道記」
貞応二年(1223)成立と考えられる紀行文。貞応二年4月4日、白河の侘士なる者が京から鈴鹿越えの東海道で
鎌倉に下り、17日に鎌倉に着き、さらに帰京するまでを描いている。

「東関紀行」
仁冶三年(1242)成立と考えられる紀行文。作者は不詳。京都東山から鎌倉までの道中の体験や感想で構成
されている。和漢混淆文(わかんこうこうぶん)で、風景描写等が優れた紀行文といわれる。特に萱津の東宿の
賑わいをリアルに書きとめている。

「十六夜日記」
藤原為家の側室・阿仏尼が相続(後継者)問題を鎌倉幕府に訴えるため、弘安二年(1279)都から鎌倉までの
旅で見聞した事柄を簡潔な文書で残した紀行文日記で、当時の状況を思い浮かべることができる貴重な文学
作品である。成立当初、阿仏尼はこの日記に名前をつけておらず、単に「阿仏日記」などど呼ばれていたが、日
記が10月16日に始まっていることを由来として、後世に「十六夜日記」と称された。



 第1章 平安の都・京から近江の鎌倉街道 
 


    

起点の京   
     
羅城門(らじょうもん)遺跡<京都市南区唐橋高田町>
平安初期、京の正門として外国使節は全て、この門から
出入りしたという。しかし中世以降は七口と称される各方
面に直通する門を使用したという。
 


  三条大橋<京都市中京区・東山区>
江戸時代の東海道の終点であるが、古代・中世時代
の古代東海道(兼東山道)の出発点でもある。街道経
路は、ほぼ三条通である。橋の歴史は不明であるが、
高欄につけられた擬宝珠に豊臣秀吉の命で天正18
年(1590)正月に日本で初めて石柱製として架けられ
てとある。
     
蹴上(けあげ)から粟田口方面の風景<京都市東山区>
三条通が旧市街を抜ける地下鉄東西線蹴上駅の風景
三条通は左にカーブしているが、この付近までが粟田口
という古くからの都の出入り口である
京都市街地の一
部が下に見える。(平成27年1月3日撮影)
  日向(ひむかい)大神宮<京都市山科区>
蹴上の東に写真の一の鳥居がある。ここから社殿まで
約5百メートルあるがほとんどが石段である。内宮・外
宮があり「京の伊勢」と親しまれる古社。厄をくぐり抜け
る「ぬけ詣り」が有名で、旅人も旅立ちの安全を祈願し
たという

     
旧東海道の西入口<京都市山科区>
三条通の「九条山」バス停から少し進んだ位置にある。
目印は、左の「京都東山老年サナトリウム」前で大きく
カーブした右側である。
 江戸時代東海道の遺構が残さ
れている。中央黄色の案内がある。
  旧東海道の道標<京都市山科区>
左の進入口からほど近い場所となる。下の道が三条
大橋から続く三条通である
 




京都市内の阿仏尼のゆかり地 
     
阿仏尼肖像画
  <冊子冷泉家P21ページ>から引用
  
藤原為家は歌人藤原定家の子で、為家も宮廷歌壇
随一の歌人で、廷臣としては大納言にいたった人物
である。為家の晩年の妻・安嘉門院四条(阿仏尼)は
為相
(ためすけ)、為守らをなしたが、為家亡き後、先妻
の子・為氏との間に細川荘(や歌道の宗家)相続争い
となり、地頭職を獲得するために幕府に訴訟するため
鎌倉に下向した。
弘安二年(1279)10月16日都を立ち、慣れぬ旅路
に苦労しながらも珍しい風景に目を凝らし、道々に歌
を詠み、諸社に勝訴を祈願して旅を続け、29日に鎌
倉に着き、
14日間の旅を終えた。
 出典:十六夜日記(田淵句美子著)巻頭文要約
  冷泉(れいぜい)<京都市上京区>
藤原俊成、定家以来の貴重な典籍は、阿仏尼の子
・為相に伝えられ、冷泉家は7世紀以上の長きにわ
たり、守り保存してきた。
江戸時代初期に建設された屋敷は天明8年の大火
で焼失したが、貴重な典籍、古文書類を収めた土蔵
は災害を免れた。寛政2年(1790)再建され、現在
に至っている。重要文化財指定建築物である。通常
は非公開であるが、秋に一般公開された






     
清凉寺(嵯峨釈迦堂)<京都市右京区>
五台山と称する浄土宗の古刹で「嵯峨釈迦堂」の名
で知られる。この地には、一説では「源氏物語」の主
人公の光源氏のモデルであったといわれる源融(とお
る)の山荘「棲霞観(せいかかん)」があり、融の死後
、棲霞寺としたのが始まりという。
・・・門前の市案内板より引用
  落柿舎付近から見た嵯峨の風景
<京都市右京区>
正面の落柿舎は、元禄の俳人向井去来の遺跡で師匠
の松尾芭蕉も三回来庵したという。
正面右奥に二尊院、左に常寂光寺がある
 

 
     
常寂光寺<京都市右京区>
文禄4年(1595)、究意(くきょう)院日槙(にっしん)
上人開山の日蓮宗寺院。
歌人としても著名なりし上人に歌枕の名勝小倉山を
隠居処として提供せし人は角倉栄可(了以の従兄に
して舅)と了以なり。
・・・常寂光寺チラシ抜粋



  二尊院(小倉山二尊教院華台寺)
<京都市右京区>
「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に
釈迦如来と阿弥陀仏の二尊を祀るため二尊院と呼ばれる天台宗寺院。
応仁の乱により諸堂が。焼失したが、本堂、写真の唐
門(勅使門)は、約30年後に再建された。唐門「小倉山
」は、は後柏原天皇の勅額である。
 ・・・二尊院チラシ抜粋
     
時雨亭跡<京都市右京区>
常寂光寺境内の時雨亭跡碑。嵯峨に時雨亭跡が三ケ
所あり、常寂光寺堂、二尊院、厭離庵の説がある。昭
和10年代に国文学者の考証が出そろい常寂光寺と二尊院に挟まれた場所で厭離庵は定家の子為家の住
んだ中院山荘跡とする意見が大勢を占めるという

・・・常寂光寺チラシ抜粋
  時雨亭跡<京都市右京区>
二尊院境内の奥に、藤原定家が百人一首を選定した
「時雨亭」遺跡がある。庵の礎石らしき石組のみがある
が、左の説明板が手がかりである
 


     
厭離庵(えんりあん)<京都市右京区>
藤原定家が住んだ山荘の旧跡で小倉百人一首を編
纂した処である。その後、久しく荒廃せしを冷泉家が
修復し、霊元法皇より「厭離庵」の寺号を賜り、安永
(1772)より臨済宗天竜寺派となる。開山は白隠禅師
の高弟霊源禅師なり。
明治維新後、再び荒廃したが、山岡鉄心の娘素心尼
が住職に就き、尼寺となるが、平成18年9月から男
僧が就任
  ・・・厭離庵チラシ抜粋


  阿仏尼の墓がある大通寺(編照(へんじょう)心院)
<京都市南区>
清和天皇の孫満仲が父の墓所に一字を建立したのが
始まりとされる。貞応元年(1222)、源実朝の妻・本覚
尼が菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて梵刹
を興し、萬祥山偏照院大通寺と名付け「尼寺」と称して
親しまれてきた。後に阿仏尼も入寺し、亡夫藤原為家
を供養したと伝わる。阿仏尼真蹟、阿仏尼塚がある

場所は京都駅南の東寺近くにある

・・・門前の市案内板より引用

なお、訴訟のため東下りした鎌倉市内・英勝寺近くにも
阿仏尼の墓とされる墓石がある
     
阿仏尼の墓<鎌倉市・英勝寺際の石窟>
阿仏尼の墓といわれる一つ。
石塔の左に「阿仏尼を偲ぶ会」と書いた札があるが案
内板もなく、埃を被っている。
(平成25年11月撮影)

  阿仏尼の墓(大通寺)<京都市南区>
阿仏尼の墓といわれる他の一つ。大通寺の門前に京
都市の案内があり、阿仏尼の墓があると説明されてい
る。訪問時、参拝をお願いしたら、この墓を教えていた
だいた。左の木札にかすかに阿仏尼墓と書かれて文
字が見える。(平成27年1月3日撮影)



第2章 大津市内の鎌倉街道(中世東山道)   
    <十六夜日記>
  粟田口といふ所より車は返しつ。程なく逢坂の
 関越ゆる程も、
   定めなき命は知らぬ旅なれど又逢坂と頼みて
  ぞ行く
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
無常のこの命はどうなるか分からぬ旅だが、ここ「逢坂
」の地名のように、また逢うことと期待させて行くことだ。
・・・十六夜日記(田淵句美子著・山川出版社)
当時の都人にとって、逢坂の関を越えることは、都の
外の異国、異界へ踏み出すことであった。阿仏尼のよ
うな初老(生年月日不詳。約50歳頃と推定)の女性に
とっては、並々ならぬ決心がいることだったろう。先の
歌を詠んで、都に心を残しつつ旅への決意を新たにし
ている。
(定めない人の命ゆえ、生きて再び都に戻れるかどう
かわからない旅であるが、逢坂という名を頼みにして、
きっとまた都の人びとに逢えるに違いないと思って長い
旅に向かうことだ。)
逢坂山関跡<滋賀県大津市大谷町>
三条通に沿った街道は、山科で国道一号線に合流し滋
賀県大津市となる。京阪電車大谷駅から徒歩10分で
左山麓に関跡の碑に至る。
古代東海道(兼東山道)時代の関の位置について、「古
代の道」著者の武部健一氏は逢坂峠峠の山科盆地東
部であったらしとしているが、確認されていない推論の
範囲である。














  <東関紀行>
 
東山のほとりになる栖(すみか)を出で、相坂の関
うち過
(すぐ)るほどに、駒ひきわたす望月(もちづき)
の比(ころ)も漸(ようやく)近き空なれば、秋霧立渡りて
、ふかき夜の月影ほのかなり。夕つけ鳥
(どり)(か
すか)
にをとづれて、遊子猶(なお)残月に行きけん函
谷の有様思合
(おもひあは)せらる。むかし蝉丸とい
ひける世捨人、此関のほとりに藁屋
(わらや)の床を
むすびて、つねは琵琶を引
(ひき)て心をすまし、和
歌を詠じて思を述
(のべ)けれ。嵐の風はげしきをし
ひつゝぞすぐしける。有
(ある)人のいわく、蝉丸は延
(えんぎ)第四の宮にておはますけるゆゑに、この
関のあたりを四の宮河原
(みやがはら)と名付たりと
いへり。
  いにしへのわらやの床のあたりまで心をとむる
  逢坂の関
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)

 世の中はとてもかくも同じこと宮も藁屋もはてしなけ
れば。「延喜」は醍醐天皇のこと。
昔蝉丸が住んでうたという藁屋の跡の付近まで心がと
められる逢坂の関よ。
     
蝉丸神社上社<滋賀県大津市上片原町>
逢坂の関跡から約1キロ進むと、一号線の上を立体
横断している名神高速道路の高架橋があり、その直
前の西側山麓に蝉丸神社上社がある。写真のとおり
勾配のきつい石段の先に社殿がある。
境内の由緒略記によると弘仁13年(822)の鎮座と
され、祭神は猿田彦命、相殿は蝉丸霊である。
天禄2年(971)9月、綸旨を賜り音曲芸道祖神とされ
、明治維新まで芸道専心の希望者に免状を下付した
  蝉丸神社下社<滋賀県大津市清水町>
逢坂山を越えた街道は、やがて大津市街地に入り、
1号線が大きく右折する時点で直進する道に進む

東海道線近くに左(西側)に蝉丸神社下社の鳥居が
京阪電気鉄道京津線の奥にみえる

境内に謡曲「蝉丸」が当蝉丸神社を舞台にした今昔
物語を出典とした名曲と解説した「謡曲史跡保存会」の説明版がある
 

     
義仲寺(ぎちゅうじ)<滋賀県大津市馬場>国指定史跡
京阪電気鉄道石山坂本線京阪膳所
(ぜせ)駅から東海
道を西500メートル戻る位置にある。
寺名は木曽義仲の墓があることに因む。俳聖松尾芭
蕉は大阪で逝去したが遺言により当寺に墓を建てて
いる
今は市街地の中にあるが江戸時代は琵琶湖が
望めた名勝地であった。
・・・義仲寺チラシ抜粋
  木曽義仲の墓<義仲寺境内>
芭蕉翁は、木曽塚ととなえた。




 
     
巴塚<義仲寺境内>
木曽義仲の側室巴御前の塚。
右側の説明版には、当地粟津野での最後の戦いに敵
将恩田八郎を打ち取り、義仲の願いにより落ち延びた
が鎌倉幕府に捕まり、和田義盛の妻となる。義盛戦死
の後は、尼僧となり各地を廻り、当地にしばらく留まっ
て義仲の菩提を弔ったという。それより後は信州木曽
で90歳の生涯を閉じたという。



  芭蕉の墓<義仲寺境内>
元禄七年(1694)10月12日、大阪で逝去。遺言に
従って義仲寺に葬るため川舟に乗せて淀川を上り伏
見に至り十三日午後寺に入る。十四日、葬儀後、深
夜ここに埋葬される

燧(ひうち) 山 (元禄二年)
義仲の寝覚の山か月悲し)   芭蕉


 
無名庵にての作(元禄四年)
木曽の情雪や生(はえ)ぬく春の草  芭蕉

                 
・・・以上、義仲寺チラシ抜粋
     
瀬田の唐橋<滋賀県大津市瀬田・鳥居川町>
都を出て初めての大河となる瀬田川に架かる橋。
地理的条件から都の重要な防衛拠点であり、壬申の
乱古戦場とも推定される。

<東関紀行>
 明ぼのの空になりて、瀬田の長橋内渡るほどに、
湖はるかにあらはれて、彼
(かの)満誓沙弥(まんぜい
しゃみ)
が比叡山にてこの海をのぞみつゝよめりけん
歌思ひ出られて、漕行
(こぎゆく)舟のあとの白波、ま
ことにはかんくて心ぼそし。
  世の中を漕行舟によそへつゝながめしあとを
 又ぞながむる。
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)

 
古の万葉歌人がこの無常な世の中を漕いで行く舟に
なぞらえてじっと眺めた旧跡に立って、私も又眺めるよ。
  瀬田川<滋賀県大津市瀬田・鳥居川町>
琵琶湖から流れ出る数少ない河川。下流は大阪湾に
流れる淀川と称される。江戸時代に上流(琵琶湖側)
に80m移動している。したがって、中世以前の街道は
下流となり、古代橋の橋脚が発掘されている
 











     
建部(たてべ)大社<滋賀県大津市神領>
社伝によると景行天皇46年(316)に御妃布多遅比
売命
(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部の郷に日本武尊
の心霊を祀られたのが始まりとされる。
その後、近江の中心・瀬田の地に遷し祀られた。古来
、唐橋(日本三大古橋の一つ)を制する者は天下を制
するといわれてきたように瀬田川を挟んでの戦も数多
く、当社も幾度の戦火に見舞われているが、その度に
再建され現在に至っている。

・・境内の案内板より引用

  堂の上遺跡<滋賀県大津市神領>
建部神社正面で県立瀬田工業高校テニスコートの横
に昭和40年代に発掘調査が行われ、奈良時代から
平安時代中頃までの建物遺構等が発見された。近江
国府跡が近くにあることから東山道の瀬田駅家(せた
たのうまや)ではないかと推定されている。
・・滋賀県教育委員会設置案内板より引用
<平成27年4月21日撮影>


     
近江国庁(府)跡<滋賀県大津市神領>
律令制に基づき全国68国に設置された国府のうち
発掘調査により概要が確認できた数少ない一つの
近江国府跡。
東西二町(約216m)、南北三町(約324m)の国庁
に外側に九町(約972m)四方の規格化された市街地
(国府)が広がっているという。奈良時代前半(1300年
前)から平安時代後半(約800年前)まで存続したと推
定されている。
・・滋賀県教育委員会設置案内板より引用
古代街道は、国府を連絡していたとされ、瀬田駅は南
東唐橋近くにある「堂の遺跡」の位置とする意見が強い。
・・・「古代の道」より引用
  近世東海道の右折ポイント<滋賀県大津市大江>
唐橋を斜め東北に進んだ街道は大江六丁目から北
進に向きを変え、約300m進んで当該場所(市立瀬
田小学校南)で東進する。直進300mが国府から出
た古道の道筋に近いと思われる










     
伝西行屋敷跡
<滋賀県大津市大江・瀬田小敷地内>
平安時代末期の歌人・西行法師が鎌倉時代に自徳庵
を造り悠遊自適の生活を営んだとされる。


  野神社旧跡(ちりんさん)<滋賀県大津市大江>
大江の開発者・大江千里は平安前期の歌人で三十
六歌仙の一人である。千里は「ちりんさん」と呼ばれ
村人から敬われた。没後、村人が住居跡に野神社
を建てて、遺徳をしのんだといわれる。瀬田小学校
から北進する市道から少し東に入った公園内にある。