第2章 草津市・栗東市・守山市・野洲市・竜王町内の街道
 



草津市内の街道   
    <十六夜日記>
 野路といふ所は、来(き)し方行先(ゆくさき)人も
見えず。日は暮れかゝりて、いと物悲しと思ふに、時雨
さへうちそゝく。
 打ちしぐれ故里(ふるさと)思ふ袖濡れて行先遠き
野路の篠原
                        阿仏尼
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)

 
さっと時雨が降ってきて、故郷(都)を思って涙する私の
袖は一層濡れ、行先はいよいよ遠く思われる野路の篠原

 
(注)
 「うちちしぐれ」は動詞「・・・しぐる」の連用形。「篠原」は
旅程で少し先の野洲市篠原にその地名があり、併せて
「野路の篠原」と称されることも多かった。
 
野路の玉川跡<滋賀県草津市野路>
玉のような清水が湧き出たという故事来歴を有する名所。
東海道(中山道)沿いにあるが、古代東山道の結節点と
も推察されている。




  <東関紀行>
 このほどをも行すぎて、野路といふ所にいたりぬ。草
の原露しげくて、旅衣いつしか袖のしづくと心ぼそし。
 東路
(あずまじ)の野路の朝露けふやさはもとにかゝる
はじめ成らむ。
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 東海道の野路の朝露が袂にかかったが、では今日が
旅愁の涙に袂を濡らす最初なのだろうか。
     
立木神社<滋賀県草津市草津4>
東海道に面して鎮座し、古くから厄除けの神社として
崇敬を集めている。
 
   草津宿本陣跡<滋賀県草津市草津1>国指定史跡
東海道と中山道の合流点である草津宿の中核であった
本陣跡。当時の姿が見学可能。(有料)

     
追分道標<滋賀県草津市草津1>
「右東海道いせみち、左中仙道美の道」と刻まれた道標。
右(街道の正面)は天井川の古草津川
 
追分の先(右)は、中山道となるが直ぐにトンネルとなる
川底が民家の屋根より高い天井川の旧草津川の下部
である
右上の本陣跡写真の右上の緑の部分旧草津川は西に
付け替えされ、ここは公園として利用されている
  堯孝法師歌碑<滋賀県草津市草津1>
道標の反対側に室町時代に活躍した尭孝法師の歌碑が
ある。

  
近江路や秋の草つはなのみして
   花咲くのべぞ 何處
(いずこ)
ともなき  覧冨士記
 
将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草
津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた
美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするも
のだよ。・・・左の案内板から引用



    

 栗東市内の街道
     
大宝(だいほう)神社<栗東市綣7>
社伝によれば大宝元年(701)以前より地主の神として鎮
座。伊吹山に座す多々美彦命が祭神。古来は、意布伎
(伊不伎)神社と記され、風の神、雨乞いにより雨を降らせ
た水の神でもある。
大宝元年、疫病流行のおり、小平井村信濃堂に降臨の素
戔嗚尊(スサノヲノミコト)と稲田姫(イナダヒメ)命が当社に
ご遷座、疫病が鎮まったとう。室町幕府第6代将軍足利義
教、9代足利義尚から厚い帰依を受けた。
大宝神社HPhttp://www.daihoujinja.jp/syoukai/daihou_s.htm
  大宝神社四脚門
享保元年(1716)宝鏡寺宮の親王の病気平癒祈願の依
頼され、ご祈祷により全快したことにより寄進された四脚門
である。
本殿内にある狛犬と境内社追来神社本殿は、いづれも重
要文化財である。宮司さんのお話では、重要文化財の木製狛犬は、平成28年3月末まで京都国立博物館で展示中と
のこと。(HPで東大寺と大宝神社の狛犬が紹介中)

     
大宝神社例大祭・・・神社HPより引用
大宝元年(701年) 綣を中心とした広い地域に疫病が流
行した。人々はなんとか神様に疫病を鎮めていただける
ように願ったところ、この願いが通じて人々は健康を取り
戻した。
  翌、大宝2年から毎年疫病が流行する初夏までに祭礼
日を設定し、この日は神様に社より外に出てもらい疫病が
広がっていかないように、みんなが健康で夏を乗り切れる
ように力を授けていただこうとした。そのことが当神社の
祭礼の由来です。
  5月3日の夜、神様の分御霊をひもろぎに遷します。ど
のように遷っていただくか、当神社はひもろぎを振りかざ
すことにより御霊に活気づいていただき、願い事を聞いて
もらい乗り遷っていただくものです。
  5月4日は、ひもろぎを取り付けた神輿の差し上げの儀(威勢良く宙に放り上げる)をしますが、神様の力を強める
という意味と神様に対する最高のおもてなしをするという
意味があります。(平成28年5月4日撮影)
  大宝神社例大祭
最後に女性陣が担ぐ「さつきみこし」が三基繰り出します。
 
芭蕉句碑<栗東市綣7>
大宝神社鳥居脇に松尾芭蕉が詠んだ
へそむらの 麦まだ青し 春の暮」の句碑がある。
  大宝山仏眼寺<栗東市綣7>
時宗、もとは天台宗で神宮寺と称した。大宝神社の神宮寺
であったが仲運が応永19年(1412)仏眼寺と改め時宗に転
宗した。本尊は阿弥陀如来で、伝承によればこの仏様の眼
光は寺中を照らしたため、村人は恐れをなし、金勝寺の僧
に加持祈祷をしてもらったところ、治まったことで仏眼寺の
名が付いたという。 
 旧和中散本舗 (大角家住宅)と「街道をいかしたまちづく
りの会」を掲載予定でしたが、東海道沿線のため割愛しま
した。
   



守山市内の街道   
     <十六夜日記>
 今宵は鏡といふ所に着くべしと定めつれど、暮れ果
てて行きつかず。守山といふ所にとどまりぬ。ここにも
時雨猶
(なお)慕ひ来(き)にけり。
   いとヾ猶袖濡らせとや宿りけん間もなく時雨の
   守山にしも            
  今日(けふ)は十六日の夜なりけり。いと苦しくて
  うち臥しぬ。
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
いよいよ更に袖を濡らせということで泊まることにしたの
だろうか。絶え間なく時雨が漏るこの守山に.

・・・十六夜日記(田淵句美子著・山川出版社)
阿仏尼一行は、予定していた鏡の宿まで行き着くことができ
ずに守山に泊まった。16日の夜であった。ぐったり疲れて
直ぐに横になった。
阿仏尼がここで旅の初日の疲れを率直に述べているのは、
この時代の日記文学としては、大変珍しく、旅の実感のこも
った描写である。
 
十王寺前の中山道<滋賀県守山市閻魔堂町>     
     
十王寺<滋賀県守山市閻魔堂町>
十王とは、人間の死後の世界で生前の行いを裁く王の
ことで閻魔大王等を指す。本堂には閻魔像が祀られて
いる。
・・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用
右端の石柱に「閻魔法王小野篁御作」とある。小野篁
(たかむら)(802~852)は文武両道に名高く、歌人、漢学
者である。娘の杜若姫が在原業平を追って三河八橋に
来たり、入水した伝説が伝わる。

  住連坊母公の墓<滋賀県守山市閻魔堂町>
法然上人の弟子住連は「建永の法難」時、近江の馬淵で
処刑された。住連の母公は、我が子に会おうと守山まで
来た時、処刑されたことを知り、近くの閻魔堂の池に身を
投げた。
・・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用
     
一里塚<滋賀県守山市今宿2>
今宿一里塚は江戸から約128里にあり、滋賀県下に
残る唯一の一里塚である。椱は江戸時代後期のもの
である。
 ・・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用

  樹下(じゅげ)神社<滋賀県守山市今宿1>
創建年次は不詳である。祭神は八岐大蛇の神話で有名な
稲田姫命を奉祀する。昔は十禅師宮と称され、疫病消除
、往来安泰等の氏神として里人との縁が絶えることがなか
った。明治初期、法令によって現在の樹下神社と公称され
る。
  ・・・境内由緒記引用
     
安産石<樹下神社境内>
菅原道真公御息女ゆかりの安産石が残されている。延
喜元年(902)秋、中山道守山宿の通称どばし川の草叢
の平石に伏して苦しむ一女あり。里人懇ろに介抱すると
、女は菅原道真の娘で流罪の地に赴く途中であるが、に
わかに産氣を催し歩行自由ならづ、身二つは覚束なしと
尋常ならざる様子。村人の看護に効なく、女苦渋に耐え
つつ、村人の親切に報いるすべがないないのが悲しい。
せめて、この身に換えて当地のお産婆からしめれと祈祷
されつつ入滅する。村人、丁重に葬り、祠を建てて女天
神塚と公称した。平石がご神体となり、産婦の信仰厚く、
平石にふれれば、安産とされる。
 ・・・境内由緒記引用
  東門院<滋賀県守山市守山2>
正式名称は比叡山東門院守山寺。江戸時代、朝鮮通信
使の宿にも利用された。護摩堂には重要文化財の不動
明王坐像が安置されている

・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用






   
守山宿本陣跡と中山道<滋賀県守山市守山1>
中山道守山宿本陣跡と「中山道街道文化交流館」。
交流館は情報発信の場、観光客の交流の場として活用
されている。
 
・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用
  勝部(かつべ)神社<滋賀県守山市勝部1>
土御門天皇の病気平癒を祈念して創始されたと伝わる。
祭神は、物部布津神(もののべふつのかみ)、宇麻志摩遅
命(うましまぢのみこと)が祀られている
 

・・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用
     
勝部の火祭り<勝部神社1月第二土曜日>
勝部神社例祭の火祭りは土御門天皇の病気の原因と
占われた数千年を経た大蛇を退治し焼きはらったとこ
ろ平癒されたので、これを起源に大蛇に見立てた大松
明を焼いて無病息災、病気平癒、五穀豊穣を祈願する
約800年続く祭りである。この大蛇退治の功績で天皇
から勝部(勝ところ)の名を与えられたとも伝わる。

・・・境内案内板引用(写真は守山散策マップから引用)
平成28年1月9日の火祭りの画像である。本殿に向かっ
て12本の大松明が半円に置かれ本殿前で裸男が乱舞し
ているのが煙の中から少し見える。


  浮気(ふけ)の火祭り<住吉神社1月第二土曜日>
守山駅東北の住吉神社(浮気町)においても、土御門天皇
に因む火祭りが行われる。住吉神社では大ムカデの頭部
が飛んできたという。
<住吉神社火祭り保存会設置の説明版:守山駅東口前で
撮影>
当日午後3時頃、住吉神社を参拝し、説明資料をいただき
、火祭りの準備の様子を撮影したが、ピンボケのため残
念ながら掲載できない。代表の方に教えていただいた、
HPを掲載しますのご参照ください。
なお町名の意味は、往古この地は琵琶湖の一部の大淵で
あって、水気が常に上昇し、紫気天に浮かびて動かず、という意味があるそうだ。
http://fuke-himatsuri.com/
     
住吉神社<守山市浮気町>
浮気町自治会のHPによれば、住吉神社は祭神「櫛玉鏡
速日命」(くしたまにぎはやひのみこと)であり、物部氏の
遠祖という。物部神社は南方百メートルに通称「サンヤ
レ山」が旧跡であった。(大正十二年耕地整理のため、
その形を失う)
天平十一年(739)栗田県主の物部玉岡宿祢道足(浮気
道足)は住吉三社を勧請し物部神社の祭神と合祀した
のが始まりである。承久二年(1220)、浮気定勝が再建、
また寛永十六年、再度再建されたという。
火祭りの起源となる土御門天皇(在位:1198~1210)は、
鎌倉時代であり、800年前からの歴史があることになる。
鳥居の奥で大松明造りが行われている。
一説によると、古代街道は東海道本線(湖北線)と東海
道新幹線の中間を通っていたとされる。位置的には、こ
の住吉神社付近となるが、地元の方にお聞きしても、不
明とのことであった。
  馬路石邊(うまじいそべ)神社<滋賀県守山市吉見4
式内社・馬路石邊神社に比定されており、馬路郷田中荘
の総鎮守として田中大明神と崇敬された神社。
現在の祭神は、素戔嗚尊と大巳貴命だが、社号「馬路石
邊神社」から古代の氏族・石邊公の祖神を祀ると考えら
れている。また「馬路」は、古代、馬
(うまや)が置かれてい
た土地であり古代東山道に面していたと推定される。










    <十六夜日記>
 いまだ月の光かすかに残りたる明
(あけ)ぼのに、
守山を出
(い)でて行く。野洲川渡る程、先立ちで行く
旅人の駒の足音ばかりさやかにて 霧いと深し。

   旅人も皆もろととに先立ちて駒うち渡す
  野洲の川霧             阿仏尼
<解説>
・・・十六夜日記(田淵句美子著・山川出版社)
野洲川を渡るとき、先に立っていく旅人の姿は見えず、乗
っている馬の足音だけがはっきりと聞こえて、霧が大変深
い。旅人の道連れになり、先に立って旅人の馬を渡して
くれるような野洲川の霧であることよ
近江富士(三上山)<滋賀県守山市立入町>
野洲市の近江富士を対岸の守山市側から望む。撮影地
は、中山道の野洲川橋と新幹線の中間地で東山道経路
と推定される場所とした
 



   野洲市内の街道
   
背競(せくらべ)地蔵<滋賀県野洲市行畑1>
この二体のお地蔵さんは、鎌倉時代のもので、中山
道を行き交う旅人道中護ったといわれています。
また、当時は乳児がよく死んだので子を持つ親たちが
、「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育
つ」と背比べさせるようになり、いつしか「背くらべ地蔵」と
言われるようになった。

・・・野洲市HPより引用













  古代東山道と中山道<滋賀県野洲市大篠原>
守山市街を抜けた中山道は小篠原から向きを変え、北上
して直ぐに西池(写真右側)のある大篠原に至る。ここは
西池で古代の灌漑池であり、古代東山道は堤防を街道と
して利用したとみられている。約500m先の民家がみえる
場所が駅家があった大篠原とされる。なお中山道は、堤
防下の国道8号線とされる

<東関紀行>
 篠原という所を見れば、東
(ひんがし)へはるかに長き
堤あり。北には里人栖
(すみか)し、南には池のおもて遠
く見えわたる。・・・都を立旅人、此の宿にこそ泊りける
が、今は打過
(うちすぐ)るたぐひおほくて、家居もまばら
n成行
(なりゆく)など聞くこそ、かはりゆく世の習、飛鳥
の川の淵瀬にはかぎらざりけめとおぼゆ。
  ゆく人のとまらぬ里と成しよりあれのみまさる野路
の篠原
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)

 東旅行く人が泊まらない里となってしまってから、野路の
篠原はただ荒廃の一途を辿るよ。
     
大笹原(おおささはら)神社<滋賀県野洲市大篠原>
・・・国宝
社伝によると寛和2年(986)に社殿が造営されたが、
現在の建物は室町時代の建築物である。昔の街道か
ら数百m離れていることから戦火を免れたようだ。
古来、天王(牛頭天王社)さんと呼ばれ「除疫神」として
祀られていたが、明治の神仏判然令より、境内社に
「篠原社」があるためシノ竹をササ竹にして大笹原神社
と名付けられた。
境内社の笹原神社の祭神は餅の神様である。当地は
良質のモチ米の産地であり、篠原モチは平安時代東山
道・中山道篠原宿の名物として旅人に食された

・・大笹原神社由緒略記より引用
  平家終焉の地<滋賀県野洲市大篠原>
中山道(東山道)が鏡宿(竜王町)に入る直前の南山麓
に平家の最後の将・平宗盛父子が斬られた場所がある。
父清盛全盛の時代、この地のために掘った祇王井川が
今も広い耕地を潤し続け感謝する人々の中で眠ることは、
父子にとって日本のどこよりもやすらぐ安住の地であろう。
当時、この塚の前に父子の首を洗った広い池があり、「首
洗い池」又は、あまりにも哀れなことから蛙が泣かなくなっ
たことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。

 ・・・敷地内説明版より引用



 竜王町内の街道   
     
旧東山道(平安、鎌倉)・中山道<滋賀県竜王町鏡>
国道8号線が「道の駅・竜王かがみの里」に近づくと、
街道の遺構が東に残っており、多くの義経古跡も整備
されている。当地は、古代から中世にかけて東山道、
中山道<鏡の宿>として栄え、義経伝説も残されたと
思われる。
なお下記ガイドブックの裏面マップにコラム見出しの表
示を見つけ、嬉しい気持ちが高まった。

・・・鏡の里いにしえガイドマップ(竜王町、竜王町観光協会)より引用
<東関紀行>
 鏡の宿に至りぬれば、昔七の翁の寄合つゝ老をい
とひて読ける歌の中に、「鏡山いざたちよりて見てゆ
かむ年へぬる身は老や死やしぬる」といへるは、此
事にやとおぼえて、宿もからまほしけれども,猶おくざ
まにとふべき所ありて、うちすぎぬ。
  たちよらでけふは過なん鏡山しらぬおきなの
かげは見ずとも

・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
ここは鏡山だが、古人のように立ち寄って見知らぬ翁
のように衰えた自分の姿を鏡の中に写して見ずに、今日
は過ぎよう。
  源義経元服の池<滋賀県竜王町鏡>
義経は、この池の水を元服の時に使用したとか、元服
の姿を映してみたともいわれる

・・鏡の里いにしえガイドマップ(竜王町、竜王町観光協会)より引用


















     
鏡神社<滋賀県竜王町鏡>
第十一代垂仁天皇の時代に帰化した新羅国の王子
天日槍の従人が当地に住んで陶芸、金工を業として
、祖神として王子を祀ったのが始まり、後に近江源氏
佐々木氏一族鏡氏が崇敬して護持したと伝わる
 
  烏帽子掛松<滋賀県竜王町鏡>
鏡神社参道入口に義経が参拝した時に松の枝に烏帽
子を掛けたとされる「烏帽子掛けの松」があった。
明治6年台風で倒れたため地上部を残し仮屋根をして
保存されている
     
義経宿泊の館(白木屋)跡<滋賀県竜王町鏡>
承安四年3月3日に京鞍馬寺より奥州下向の途中、鏡
宿に着いた牛若丸一行は、当時の宿駅の長であった澤
弥伝の「白木屋」に泊まった。追手の目を欺くため、急ぎ
髪を切りただ一人で元服することを決意した牛若丸は、
源氏の左折れ烏帽子を烏帽子屋五郎太夫に折ってもら
い、それを冠して元服し源九郎義経となる義経誕生の地
である
  中山道(東山道)鏡口<滋賀県竜王町鏡>
鏡宿を過ぎた最初の交差点である。中央の国道8号線
の右に中山道(東山道)の遺構があるが、普通の町並で
生活道路となっている