第3章 近江八幡市・東近江市・愛荘町・豊郷町・彦根市内の街道 
 



近江八幡市     
     
武佐駅<滋賀県近江八幡市長光寺町>
近江鉄道八日市線武佐駅が宿場の入り口にあたる
<東関紀行>
 行暮
(ゆきくれ)ぬれば、武佐寺といふ山寺のあたり
に泊まりぬ。まばらなる床のあたり、秋風夜更
(ふく)
るまゝ身にしみて、都をいつしか引かへたる心地す。
枕に近き鐘の声、暁の空にをとづれて、彼
(かの)遺愛
寺の辺の草の庵の寝覚も、かくや有けむと哀
(あはれ)
なるうちにも、行末遠き旅の空思ひつゞけられて、い
といたう物がなし。
 都出て幾日もあらぬ今宵だに片舗
(かたしき)わびぬ
床の秋かぜ
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
都を出てまだ幾日もたっていない今宵ですら、鳥籠の
山の秋風が身にしみて、旅寝の床で袖を片敷きかねた
よ。

注 1.武佐寺は長光寺か?
  2.「床」は近江国の歌枕。鳥山(トコ)の山を響かせる。
  武佐宿本陣跡<滋賀県近江八幡市長光寺町>
武佐駅近くに本陣跡があるが、案内板がないと気づか
ない静かな町である
 















     
長光寺<滋賀県近江八幡市長光寺町>
弘法大師空海を宗祖とする高野山真言宗の寺院。
長光寺の由来は、聖徳太子が老蘇の杜で参籠のおり、
高階の妃が難産に苦しんでいるのに遭遇し、妃に仏法
の加護を祈り諸仏の慈悲を願いなさいと勧めた。妃は
仏の加護を祈ったところ、「観世音が救い給う」とお告げ
があり、御安産された。太子が行方を尋ねると、当地に
八尺の香木と五色に輝く霊石があり、光明の中より千手
観音の尊像が現れ、感激した太子は霊石の上に本堂を
作られたのが始まりとされ、安産の仏様として崇敬を集
めている。

・・・境内説明版から引用












  老蘇(おいそ)の森<滋賀県近江八幡市安土町>
万葉の昔から多くの歌人や旅人によって歌に詠まれ
「歌枕」としても名高い森である。
今から約2200年前、孝霊天皇の時代に石辺大連が神
の助けを得て松、杉、檜などの苗木を植え祈願したところ
、たちまち生い茂り大森林になったと伝わる。
後にこの石辺大連は100数十歳まで生きながらえたの
で人呼んで「老蘇」(老が蘇る)といい、この森を「老蘇の
森」と呼ぶようになった。
この森は平安時代には広く知られており、歌所として和
歌や紀行文あるいは謡曲にも詠まれ、多くの旅人が足を
止めた。
・・・HP安土の観光から引用
<東関紀行>
 この宿
(すく)を出て、笠原の野原打通る程に、老蘇
(おいそ)の森といふ杉村あり。下草深き朝露の、霜に
かはらむ行末も、はかなくうつる月日なれば、とをか
らずおぼゆ。
  かはらじな我
(わが)もとゆひにおく霜も名にし
 老蘇の杜の下草
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
都季節はどんどん移るから、森の下草に深く置く朝露
が霜に変わるにも遠くはないと思われる。
 私の元結に霜が置く(白髪になる)のも、老蘇の杜の
下草がその名にふさわしくやがて露霜に色変わってゆく
のに変わらないだろうよ。
     
奥石(おいそ)神社<滋賀県近江八幡市安土町>
繖山(観音寺山)をご神体とした安産延寿、狩猟、農耕の
神様である
 

  老蘇の森から石寺に向かう中山道<滋賀県近江八
幡市東老蘇>

中山道は老蘇の森を西進し石寺から右折清水鼻に向か
ってるが、戦国時代佐々木氏の城下町を経由した事情
がある。
     
観音寺城址<滋賀県近江八幡市安土町>
繖山(きぬがさやま)の頂上にある観音寺城址。近江佐々木
一族の拠点で一族の六角承禎が守っていた。若き城主
のため、重臣の離反を招き、永禄11年(1568)信長の攻
撃を受け、戦わず城を放棄し、観音寺城の歴史に幕が
下ろされた。この上に天守閣跡があるが、城の概要等の
説明もなく少し寂しい状況である。
  清水鼻に向かう中山道<滋賀県東近江市五個荘
清水鼻町>
 




 
 
     
老蘇の森からの東山道<滋賀県近江八幡市
安土町>
老蘇の森から少し離れた農地の中に五個荘町に向かう
直線の道を発見した。蒲生町史第1巻古代・中世P340
(平成7年12月蒲生町発行)
では、<鏡から老蘇の森へ
更に清水鼻へ直線で続いていたとみられる>と書いてい
る。東山道の遺構の可能性を感じる道である。

  安土城址<滋賀県近江八幡市安土町下豊浦>
織田信長は繖山の隣の安土山に安土城を築いたが、今
は石段しか残されていない
 




  
 


東近江市     
     
大郡(おおごおり)神社<滋賀県東近江市五個荘
北町屋町>

大郡神社は中山道に一の鳥居、国道八号線西に二の
鳥居、本殿を構える



  大郡郡衙(おおごおり ぐんか)遺跡<滋賀県東近江市
五箇荘北町屋>

昭和55年の発掘調査で、奈良・平安時代(1300〜
800年前)に神崎郡の役所・郡衙
(ぐんか)があったことが
確認された。)上の図は、旧五個荘町教育委員会作成の
説明図で400m四方の規模という
 
     
近江商人の町並<滋賀県東近江市五個荘金堂>
・・・重要伝統的建造物群保存地区
白壁と舟底板の土蔵が続く金堂地区。中山道からは
約1キロ離れているが、近江の歴史の一コマである










  中世東山道(鎌倉街道)沿線<滋賀県東近江市平坂>
古代東山道及び近世中山道は、おおむね現在の国道
8号線沿いを経路としている。例外として、鎌倉時代の
中世東山道の経路は箕作山
(みつくりやま)を大きく経由し
(武佐宿で合流)小脇の守護・佐々木氏館(小脇宿)に
泊した記録(吾妻鑑)で確認されている。
建久元年(1190、頼朝が上洛時の帰途に宿泊)、嘉禎
4年(1238)、将軍頼経上洛時、小脇を経由している。
この宿は蒲生野
(がもうの)宿とも書かれているという。
ただし、室町時代には、小脇の宿の記録がなく、鎌倉幕
府や小脇館の撤廃と運命を共にしたのであろう。
・・五個荘町史第一巻古代・中世(平成4年発行)P561引用 
     
瓦屋禅寺寺票<滋賀県東近江市建部瓦屋寺町>
大阪四天王寺建立時に山中の土を用いて瓦を10万8
千枚焼かせたのが、寺名の由来。秘仏千手観音菩薩は
国重文に指定され近江西国第18番札所となっている。
未確認であるが、この入口から本堂境内までは林道経
由で奥に位置してる。









  太郎坊と小脇宿<滋賀県東近江市小脇>
創始は、約1400年前と伝わる。祭神は勝運の神と崇
められ、商売繁盛、必勝祈願、合格祈願、病気平癒等
のご祈祷の申し込みが数多くある。太郎坊というのは、
神社を守護している天狗の名前である

本殿前の夫婦岩は神の神通力により開かれたと言い伝
えがあり、古来より悪しき心の持ち主や嘘をついたもの
が通れば挟まれると伝えられ、子供たちば足早に通り過
ぎる姿が今でも見受けられる。また、夫婦岩の名前のご
とく夫婦和合や縁結びのご利益もあるといわれる。
・・太郎坊宮HPから引用
写真の左に小脇町の表示があるが、ここの南東にあた
る脇地区が館跡と発掘調査の結果、判明している。
・・八日市市史第二巻 中世 昭和58年発行 P90


愛荘町・豊郷町・甲良町
     
豊会館(又十屋敷)<滋賀県犬神郡豊郷町下枝>
会館の建物は又十屋敷と呼ばれ、江戸時代後期、廻船
業を営んでいた藤野喜兵衛喜昌の旧宅である。その業績
は四代目辰四郎の創業による「あけぼの印の缶詰」で知
られている。現在は歴史資料館「豊会館」として有料で開
放されている。
・・豊郷町観光マップから引用
 
犬神神社<滋賀県犬神郡豊郷町八目
祭神は日本武尊の第一皇子稲依別王
(いなよりわけのみこと)
で、犬神君の始祖といわれている。皇子がこの地を治め
た頃、農業を勧めたので稲神と称し、犬上の地名は稲神
の転じたものとする説がある。皇子の子孫は代々犬上君
と称した。
 ・・豊郷町観光マップから引用
     
伊藤忠兵衛記念館<滋賀県犬神郡豊郷町八目>
大手商社の「丸紅」「伊藤忠商事」の創始者伊藤忠兵衛
は1842年、繊維品の小売業を営む「紅長」の家に生ま
れた。記念館は、「開国後のわが国は、貿易の拡大によ
って開かなければならない」と信念を貫いた伊藤忠兵衛
の本家を開放したものである
入場無料
  八幡神社<滋賀県犬神郡豊郷町石畑>
この境内のあたりは弓の名人として名高い那須与一の次
男・石畑宗信の城跡である八幡神社は宗信が延応元
年(1239)に京都の石清水八幡宮の応神天皇の分身を
奉り建立した
     
称名寺<滋賀県犬神郡豊郷町石畑> 
石畑宗信が晩年になって親鸞上人の弟子になり出家
して正嘉二年(1258)建立した寺である。






  阿自岐(あじき)神社<滋賀県犬神郡豊郷町安食西>
主祭神は味耜高彦根命と道主貴神である。
当地名の安食は、阿自岐神社に由来するもので、食物
豊富で安住できる地の意味である。境内の湧水は干ば
つ甚だしき時も枯れることがなく、常に灌漑して年穀豊
かに稔り文字通り安食の地となした
・・境内由緒より
<渡来人の定住の歴史を物語っている。>
     
阿自岐の郷碑<滋賀県犬神郡豊郷町安食西>
滋賀県教育委員長名の案内碑が右に建立され、人物絵
の下と左の石に私たちの故郷・阿自岐西が応神天皇15
年(285年)渡来人阿自岐氏によって拓かれた由緒ある
土地と説明している。






  尼子西遺跡<滋賀県犬神郡甲良町尼子>
豊郷町から東進してきた中山道は、四十九院付近から左
(西)に約百メートル向きを変え、約2キロの区間を過ぎて
、従来の街道の向きに戻っている。
中山道を建設する際、遠見遮断の理由から向きを変えた
とも思われるが、他に犬上川扇状地という地理的要因も
想定できるとされる。
直線区間の東山道遺構は、県営圃場整備事業施行のた
め尼子西遺跡の発掘調査が行われ、東山道遺構等が確
認されている。(図及び説明要旨は<尼子西遺跡2・平成
10年滋賀県教育委員会>から引用)



彦根市内の街道 
 
   彦根 明治の古地図二<鳥籠駅の位置?>
<平成14年彦根市・市史編集委員会>

明治4年作成の耕地絵図らしいという説明がある。
正法寺町の北部である。左が原町となる。
左の赤線が中山道、中央の最上段が慶光院、右
下の木が書かれている山が鳥籠山、左が鳥籠淵
(池)である。最上部は、床の山・東山である。
この池の部分から慶光院の間に名神高速道路が
建設された。

図中央部は、主集落の「本郷」で、永禄年間に織田
信長の兵火に遭って焼亡した「正法寺」と呼ばれた
大寺があったという。
近江彦根古代地名記に、上の旧鳥籠山周辺は、
「驛(うまや)ケ原」と称された東山道の鳥籠駅推定
地の有力候補地である。
新修彦根市史第1巻通史編・ 古代・中世
(平成19年)で、@大堀山周辺 A上の旧鳥籠山
床の山周辺説を検討し、@を採用している
古代東山道は、大津市や草津市の山麓を経路と
しており、特別な根拠はないが、A鳥籠山説を採用
したい。
     
若宮八幡宮「産の宮」<滋賀県彦根市葛能町>
犬上川に架かる無賃橋の南約1キロの位置となる。
理容「チャキ」の横から参道入口となる。
南北朝騒乱のころ、足利尊氏の子義詮が文和四年
(1355)後光厳天皇を奉り西江州に闘い、湖北を経て
大垣を平定し、翌5年京都に帰る途中、同行していた妻妾
が産気づき、ここで男子を出産した。付き人として家臣9
人が残り、保護したが君子は幼くして亡くなった。
生母は悲しみのあまり髪を下ろし尼となって、一庵を結ん
で幼君の菩提をとむらった。ここで土着した家臣が竹と藤
蔓で作った葛籠を生産するようになり松寺の北方に一社
を祀りて、この宮ができた。古来、「産の宮」として安産祈
願に参拝する人が多い。
  無賃橋<滋賀県彦根市高宮町>
昔は橋を渡るに有料であったらしいが、犬上川に架かる
、この橋は無料であったことから名称となった












 
     
高宮宿<滋賀県彦根市高宮町>
高宮郵便局西側の中山道を北に臨む。江戸時代の雰囲
気が残る町である
 
  多賀大社一の鳥居<滋賀県彦根市高宮町>
中山道高宮鳥居前交差点の鳥居。鳥居の間の道は多賀
大社に続く多賀道(参道)という
     
高宮神社<滋賀県彦根市高宮町>
社伝によると、創立は鎌倉末期といわれている。寛政年
中の「中山道分間延絵図」には「山王」と記載されている。
明治五年に村名により高宮神社と改称された。
 
  芭蕉句碑 <高宮神社庭園内>
をりをりに 伊吹を見てや 冬籠
     
石清水八幡宮<滋賀県彦根市大堀町>
芹川に架かる大堀橋の手前、左に一対の大きな常夜灯
がある岩清水神社である祭神は第16代応神天皇とその
母神功皇后(息長帯姫命)亀甲山中腹に鎮座します石清
水八幡宮は古く奈良時代からこの地にお祀りしている神
社で武運守護の神、また安産の神として参拝する人が多
い。祭神の神功皇后は応神天皇を体内に宿しながら、三
韓との戦いに出陣し、肥前(熊本、長崎県)松浦で無事出
産されたことから、安産祈願「鈴の緒」を拝受する人が多
い。
・・境内由緒より
  扇塚<滋石清水八幡宮内>
この参道階段の途中に扇塚がある。井伊藩は代々能楽
の発展に力をいれてきたので、彦根には能楽を学ぶ人が
多くあった。
江戸からやって来た喜多流能の宗家9世の喜多古能(こ
のう)は門人の育成に力を注ぎ、彦根を去る時に残してい
った愛用の能の面と扇を弟子達がここに埋め塚を建てた
という
 ・・境内由緒より

     
鳥籠山(とこのやま)と床の山(とこのやま<彦根市大堀
町・正法寺町・原町>
国道8号線旭橋から見た(左)大堀山、(右)亀甲山と芹川
(不知哉川・イサヤガワ)で、この間(橋)が中山道である。古代東山道も同じ経路とされ、この周辺に東山道の鳥籠
(トコ)駅があった場所で、大堀山を鳥籠山と一般には推
定されている。
私も当初は一般に言われている説で解説したが、米原市
の山川さんから他の説もあり検討したらと提案された。詳
細調査のため彦根市立図書館に出向き、相談し、数冊の
冊子を見せていただいた。その中で彦根史談会(彦根図
書館内)の会報(昭和38年8月号)、及び会報掲載記事
を冊子にした「とこの山、いざや川」(安澤清助氏)があり、
諸説を理解したうえで、安澤さんの説を支持することとし
た。
安澤さんは、
○飛鳥時代では、鳥籠山(とこのやま)は大堀山、不知哉
 川(イイザヤカワ)は芹川(善利川)であった。
○正法寺町の北に位置する原町の東方丘陵地帯(旧鳥
籠 山を含む)は、地元に伝わる聖徳太子伝説に因んだ
床の 山(トコノヤマ)である。そして原町と小野庄の間の
不老 (フケ)谷から中山道沿いに流れる小河川が(聖徳
太子 御殿の左の谷に流れる川)が位佐谷川(イザヤカ
ワ)であ る。
○松尾芭蕉門下の彦根藩士・森川許六が、名神高速道
路彦根インターチェンジ東の旧鳥籠山(慶光院近くにあっ
たが宅地開発のため今は消滅)を鳥籠山と初めて言った。
*様々な見解があるが、安澤さんの意見で整理したい。
  万葉集の芹川と大堀山<滋賀県彦根市正法寺町>
大堀山の麓に建立されている万葉歌の石碑。

  ○淡海路の 鳥籠(トコ)の山なる 不知哉川
   日(け)のこのころは 恋いつつもあらむ
 
芭蕉句碑<旭森公園横・大堀町>
  ひるね塚
   ひるかほに 昼ねせうもの 床のやま
 
トコノヤマがどこの山かという問題にかかわるが、左の安
澤さんの本の中に大堀栄一さんが書かれた解説がある。
そこでは、芭蕉門下の森川許六が、この句が収められた
「泊船集」の誤りを正すため書いた「泊船集書入」に、「大
堀より季由が方にてすぐみの路へ趣き給ふの句」であると
書き残しているという。
また大堀さんは、「床のやま」は
大堀町の鳥籠山(とこのやま)地名より東の「床の山」が昼
寝に合うとして採用した「縁語」と解説されている。
参考:右正面の中山道、反対側に<諸説ある>がとの
    断り書きがある。
     
原八幡神社<滋賀県彦根市原町>
名神高速道路彦根インターチェンジに面している原八幡
宮。近江輿地志略に、八幡神社原村にありと記す。
伝承に、守屋連が兜を納むるところなりという。今神宝と
して存す。創立は不詳である。神社明細書に「天正二甲
戌八月本殿再興にして淡海記巻十一に聖徳太子物部守
屋と開戦の後、大神を勧請す云々あり淡海落穂草、淡海
国木間攫等にも列記ありて太子自用の甲冑を納めて大
神を勧請す云々」と記載してある

 ・・原八幡神社HPより
  芭蕉句碑<原八幡神社境内>
  ひるね塚
   ひるかほに 昼ねせうもの 床のやま
 
俳聖松尾芭蕉が中山道を往来する旅人が夏の暑い日に
この涼しい境内地で昼寝などしている。つかのまの休息
をしている「床」と「鳥籠山・とこのやま」をかけて詠われ
たものと思われます。・・・句碑版説明より

上段の見解と異なりますが、いろんな説もあり掲載を継続します。
     
位左谷(いざや)川<滋賀県彦根市原町>
原八幡神社東の旧中山道と右の小川が位左谷川。
源流は、原と小野庄の間にある床の山(東山)の不老
(ふけ)ケ谷という。
小野庄は後鳥羽天皇の代から宮中御歌所の領地で、
十六夜日記の作者・阿仏尼の庄であった。
このような関係から和歌に詠われたとする人もいる。
  五老井跡<滋賀県彦根市原町>
芭蕉高弟の森川許六の別荘跡である。
左の写真の旧中山道から位左谷川を渡ると東海道新幹
線高架があり正面は墓苑であるが、高架下を通り抜け左
の墓苑会館奥にある。
床の山(正法寺鳥籠山を含む)の麓である。

     
小町小町塚<滋賀県彦根市小野町>
鎌倉時代弘安二年(1279)、歌人阿仏尼は訴訟のため
京から鎌倉に向かう途中、小野に宿泊したという。
中世、小野は東山道(鎌倉街道)の駅家(宿)として機能
していた。また藤原定家の「明月記」等に記されている荘
園「小野庄」は当地と推定されている。また地元に伝わる
郷土芸能「小野町太鼓踊り」の中には、小野小町が詠わ
れおり、この地を誕生地とする伝承が残っている。
写真の小町塚は、「小町地蔵」として親しまれてきた石仏
(自然石に阿弥陀如来坐像が浮き彫り)が安置されてい
る。背景は名神高速道路の土盛り壁、後方には東海道新
幹線が走る狭い場所で周囲は田である。
・・・説明板より

  小野古宿<滋賀県彦根市小野>
小町塚を過ぎると中世の宿として栄えた「小野宿」の町
並みとなる
 

<十六夜日記>
 十七の夜は、小野
(をの)の宿といふ所にとゞまる。
月出
(いで)て山の峰に立続(たちつゞ)きたる松の木
(こ)の間、けぢめ見えて、いと面白し。
<解説>
・・・十六夜日記(田淵句美子著・山川出版社)

 月がきれいにでて、山の峰に続いている松の木々の
間から月光がさして、枝がくっきり浮かびあがって趣が
深い景色である。
     
道標<滋賀県彦根市鳥居本町>
鳥居本宿の入り口の道標。左中仙道、右「彦根道」と書か
れているが、朝鮮人街道のことである
  鳥居本宿北口の風景<滋賀県彦根市鳥居本町>
宿場の曲がり角にある、江戸時代から続く懐中胃薬
「赤玉神救丸」を製造販売している有川家と松並木
 
     
磨針(すりはり)峠と望湖堂跡<滋賀県彦根市中山町>
鳥居本宿を抜け、国道8号線に合流して直ぐに磨針峠の
大きな案内石碑が峠入口にある。峠を登りやがて頂上近
くに民家が見える風景が写真である。中央奥に、旧望湖
堂があり、庭園からの風景は中山道唯一の名所と言われ
  旧望湖(ぼうこ)堂からの風景<滋賀県彦根市中山町>
旧望湖堂の奥様の許可を得て、庭園から琵琶湖を撮影
。江戸時代は琵琶湖が近く望めた名所であったが、埋め
立てと工場の立地により変わっている
 

     
神明宮と弘法杉<滋賀県彦根市中山町>
未だ修行中の弘法太子がこの峠にさしかかったとき、白
髪の老婆が石で斧を磨ぐのに出会う。聞くと一本きりの大
切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて針にする
といいます。その言葉でハット悟った大師は、自分の修行
の未熟さを恥じ、修行には励んだという。
その後、再びこの峠を訪れた大師は明神に栃餅を供え、
杉の若木を植え、次の一首を詠んだと伝える。以来、峠
は「磨針峠」と呼ばれるようになった。

 <道はなお学ぶることの 難(かた)からむ 斧を針
とせし人もこそあれ>

修大師が植えられた杉は鳥居後右の赤いサツキの辺で
あるが、台風で倒木、伐採され切株が残る
  版画磨針峠
上の風景を版画にされ多くの人々を楽しませた 
<北川麓三さんの額を撮影>