中世紀行文(十六夜日記・東関紀行・海道記)の舞台を楽しむ |
鎌 倉 街 道 <京鎌倉往還> |
お知らせ 鎌倉街道の魅力に引かれ約20年間をかけて、ようやく京から鎌倉までの探索を終えることができました。 この成果を 紙媒体の本にすべく、交通新聞クリエイト(株)と作成委託契約し、令和3年12月中旬を目途に原稿を渡し、作業を進めて おります。 今までは、探索の成果をこのホームページに記録、反映し、元原稿としてきました。 原稿作成の役割を終えた 現在、本発行の段階で、ほぼ同じ内容のものが二つ存在することになります。 年配の読者もかなりお見えになると思います。 本の購入又はインターネットで無料閲覧という利用方法の違いにより不平等となります。 また、私には本購入のマイナス 要因が想定され、悩ましい問題であります。 難しい問題ですが総合的に判断し、ホームページでの内容掲載は中止とさせていただきます。 ご理解賜れば幸いです。 また、自費出版では、書店ルートががほとんどないといえます。 (地元書店での販売要請は行います) 本完成の段階で、郵送扱い(実費)の御案内をさせていただきますので、ご利用をお願いします。 令和3年9月 管理者 河合幸男 |
1. 私と鎌倉街道 鎌倉街道は、日本各地から鎌倉へ向かう中世古道の総称である。 京と鎌倉を連絡した「京鎌倉往還」、鎌倉市と関東主要地区を連絡し「いざ 鎌倉」の有事に軍勢を参集させる「上の道」・「中の道」・「下の道」が代表的なものである。 れるが、ここでは我が家の近くを通った「京鎌倉往還」を「鎌倉街道」の名称で探索していきたい。 さて、鎌倉街道は幻の街道といわれるように、現在ではほとんどその姿が失われてしまい、追求が困難となっている。 自然堤防など微高地を通る、 低湿地など通行に不便な地形を避ける知恵が活用されている。 また鎌倉街道周辺には、古い神社や寺院などが残っている所が多く、杜が目印に なっていた。 (人々に利用された道であった。) この自然の地形を利用した路ゆえ、洪水などの災害で容易に変化し、継続性がないことから残された 資料が少なく探索調査に苦労した。 鎌倉街道は、都と政治都市・鎌倉を連絡する主要道路であり、沿線市町村には、鎌倉街道の遺構やエピソードが市町村史等に多少記録されている。、 広域に広げて調べると貴重な記録が入手できた。 調べて知る喜びが、街道探索を続けるエネルギーとなり、昨日、今日、明日と探索を持続する気持と なり、点と点が続き、線となった。 800年の時空を経て、多くはなくなった鎌倉街道の全体像がわかってくることを実感した。 その成果として、調べれば 知ることができる、知的好奇心を満足させてくれる喜びが魅力となっていた。 さらに、鎌倉時代には、海道記、東関紀行及び十六夜日記の三大紀行文が 残されており、その記録は少し難解であるが、解説書もあり素人が読んでも当時の風景、道程等を想像することができ、楽しむことができた。 このような自然の地形を利用した鎌倉街道の遺構を正確に探索することは、年次を経た現在、不可能である。 このため、若干の地域では、中世の 街道遺構については不明とされている公的団体があり、個人で推定線を提示したり議論しにくい情況になっている。 街道の探索が話題にならない故、 関心も盛り上がらない。 ここでは、鎌倉街道ファンとして、市史等資料及び紀行文を参考に推定線を示し、街道ファンの関心を集め、及び高めて更なる研究・探索を促したい。 この探索は、資料を読む、現地を歩く等様々な楽しみ方がある。 魅力を鎌倉街道は持っていると信じている。 この本が、多くの方に鎌倉街道を知っていただく機会になれば幸いです。 |
2 .鎌倉街道のあらまし ここでいう鎌倉街道は、都と鎌倉を結ぶ東海道の一経路である。 東海道の経路を基本として若干の変更を加えながら利用されてきた。 この長い時代の中で、鎌倉時代が一番輝いたのは、政権が初めて畿内から離れて東国の鎌倉に成立した時である。 距離は、約480キロ、63宿が 登場し、日程は14日程度とされている。 鎌倉時代初期は、都及び草津(滋賀県)から(静岡県)三島までは同じ行程であるが、海道記は鈴鹿越えと足柄峠越えを経路としている。 これは、 古代の道の経路を踏襲した終期で、東関紀行から東海道(近江路)を進み、草津から東山道(中山道)の杭瀬宿(大垣市)と来て、ここで東山道から 分かれ、墨俣、足近、玉野井、黒田、下津、萱津と美濃路を進み、萱津から宮、鳴海潟、二村山(豊明市)と近世東海道の山側を進んでいる。 京から鎌倉までの探索を成し遂げると、各地では主要な路を鎌倉街道又は鎌倉道と呼称している事例が多くあった。 京から鎌倉までの全体を説明する には、かなり困難な問題である。 ここでは読者に、鎌倉街道を知っていただくことを優先事項とすると取捨選択する必要がある。 このため、鎌倉幕府等が 公認・利用した街道、または紀行文で書き残された街道に限定し説明しているのでご了承ください。 |
3.中世三大紀行文との関わり 政治権力が鎌倉に成立したことにより、京鎌倉間は政治、経済、軍事の用務以外に僧侶、文化人の往来も盛んになった。 鎌倉時代は、次に紹介 する三大紀行文が成立し、この記録から当時の行程、景色、庶民の生活の様子等が読み取ることができ、街道探索を楽しむことができる。 8百年の 時空を越えて、鎌倉街道の醍醐味を経験できるので、読者の方には身近な鎌倉街道遺構地を探索されることを提案します。 |
「海道記」 貞応二年(1223)成立と考えられる紀行文。 作者は不詳。 貞応二年4月4日、白河の侘士なる者が京から鈴鹿越えの東海道で鎌倉に下り、 17日に鎌倉に着き、さらに帰京するまでを描いている。 「東関紀行」 仁冶三年(1242)成立と考えられる紀行文。 作者は不詳。 京都東山から鎌倉までの道中の体験や感想で構成されている。 和漢混淆文 (わかんこうこうぶん)で、風景描写等が優れた紀行文といわれる。 特に萱津の東宿の賑わいをリアルに書きとめている。 「十六夜日記」 藤原為家の側室・阿仏尼が相続(後継者)問題を鎌倉幕府に訴えるため、弘安二年(1279)都から鎌倉までの旅で見聞した事柄を簡潔な 文書で書き残した紀行文日記で、当時の状況を思い浮かべることができる貴重な文学作品である。 成立当初、阿仏尼はこの日記に名前を つけておらず、単に「阿仏日記」などど呼ばれていたが、日記が10月16日に始まっていることを由来として、後世に「十六夜日記」と称された。 |
掲載の内容<冊子の目次>・・・本は市町単位ですが、ここではプラス小項目まで掲載します。 |
目 次 はじめに<私と鎌倉街道> 鎌倉街道と紀行文の足跡(紀行文行程図) 第一章 都から近江国・柏原までの鎌倉海道 ○三条大橋から蹴上・粟田口へ進む 二 阿仏尼ゆかりの地 ○冷泉家 ○落柿舎から見た嵯峨の風景 等 三 大津市内の鎌倉街道 ○逢坂関跡 ○瀬田の唐橋 義仲寺 等 <東関紀行「東山のほとりなる」> < 同 「あけぼのの空になりて」> <十六夜日記「さのみ心弱くても」> 四 草津市・栗東市・守山市・野洲市・竜王町の鎌倉街道 ○大宝神社 ○十王寺(焔魔堂)○平家終焉の地 ○義経元服の地等 <十六夜日記「野路といふ所、来し方」) < 同 「今夜は鏡といふ所に」> < 同 「いまだ月の光かすかに」> <東関紀行「このほどをも行き過ぎて」> < 同 「篠原といふ所を見れば」> < 同 「鏡の宿に至りぬれば」> 五 近江八幡市、東近江市、豊郷町、彦根市西部等の鎌倉街道 六 彦根市内の鎌倉街道<中世東山道> 七 米原市内の鎌倉街道<番場・醒ヶ井・柏原>
二 不破郡垂井町の鎌倉街道 五 安八郡安八町、大垣市墨俣町、羽島市、笠松町等の鎌倉街道 |
<木曽川町玉ノ井から尾張三河の境川まで> 一 一宮市木曽川町の鎌倉街道 ○賀茂神社 ○念敬寺 ○ノコギリ屋根の工場 ○黒田の里 ○なぐさめ草(歌僧・正徹)○法連寺・山内一豊父と兄の墓 ○籠守勝手神社 ○御駕籠まつり ○薄墨桜伝説 馬取り池 ○伊冨利部神社 二 一宮市の鎌倉街道
三 稲沢市の鎌倉街道 四 清須市、あま市の鎌倉街道
五 名古屋史中村区、中川区、熱田区の鎌倉街道 参考 <松巨島経由・中の道の主な拠点>
八 豊明市の鎌倉街道 |
<西境(刈谷市)から岡崎市本宿町まで> 一 刈谷市と豊田市の鎌倉街道 三 安城市西部の鎌倉街道 四 安城市東部と岡崎市西部の鎌倉街道 五 岡崎市中心部の鎌倉街道 六 岡崎市東部その1の鎌倉街道(美合町、藤川町等) 七 岡崎市東部その二の鎌倉街道(舞木町、山綱町、本宿町等) |
第五章 東三河の鎌倉街道
四 豊橋市の鎌倉街道
五 豊橋市北部に迂回した鎌倉街道
参考<源頼朝が叔父・化積上人を訪問した普門寺コース>
七 古代東海道の経路について
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