西三河のお祭    20200423
愛知県尾張西部に住み、地区外のお祭を見学する機会がなかったが、結果として平成19年度の一年限りで、岡崎に勤務することができました。
この短い時間を可能な限り、西三河のお祭を見学しました。 尾張西部の情報を発信するHP「まちもよう」の目的には合いませんが、お祭見学に際
して関係者からのご厚情を受けたり、多くの思い出を込めた写真が残りました。
関係機関で情報発信していますが、お礼の気持ちと貴重な写真を活用したく、主なお祭をご紹介します。



 
火祭り(鬼追祭)・・・愛知県無形民族文化財
火祭りが行われる瀧山寺(たきさんじ)は、岡崎市の東北にある天台宗延暦寺派の寺院で約1300年前の創建とされる。 鎌倉幕府を開いた源頼朝
(住職の寛伝上人が従兄弟)や徳川家の信仰厚く、頼朝の遺髪と歯が納められている仏師運慶とその子湛慶合作の聖観音像が安置され、三大東照宮
(日光、久能山)の一つである瀧山東照宮が隣接している。


修正会(しゅしょうえ)鬼祭り・・・冊子「瀧山寺」(平成15年3月新版)より抜粋
旧暦元旦から七日間、本堂で天下泰平、五穀豊穣を祈る修正会が行われ、その結願の日(七日目)の夕方に催される。 この祭の起源は頼朝公の
祈願により始められたと伝えられるが、室町末期に廃絶、その後徳川三代将軍以後は幕府の行事として復活した。 その儀式は荘厳で参拝人は一人
として手ぬぐいを被りえるものはなく、どんなに暗夜でも提灯を用いることは禁じられたという。
鬼祭の構成
第一部「法会と鬼塚詣り」「庭祭り(田遊祭)」  午後6時頃開始
第二部火祭り(鬼追祭)   午後8時頃〜午後9時頃
鬼祭当日、本堂の脇で売られていた冊子です。
午後5時、到着直後の本堂前の様子です。観客はまばらですが、撮影
ポイントは先客に占有されていました
本堂の法会の様子です。奥に白装束の年男が見える。 本堂前の特設会場の「庭祭り(田遊祭)」鍬を担いだ農民が、のどかに
農作業の所作をし、豊作を祈願する。
鬼祭最後の場面です。お餅を持った子供(右の赤い服)や鬼面を
被った役男が松明を持った男たちと本堂の周囲を歓声をあげて
回ります。三周ほどすると突然、松明が消され、祭は終わる。
隣接する瀧山寺東照宮。小さいながらも、徳川発祥地ゆえ風格がある。




三河鳥羽の火祭り・・・平成16年国重要無形民俗文化財指定
三河鳥羽(幡豆郡幡豆町鳥羽)の「神明社」で行われる「火祭り」(大篝火=おおかがりび)は天下の奇祭として有名である。 祭の源は不詳とされる
が、地元では約1200年前から始まった農作物の豊凶を占う神事と言われている。  毎年旧暦1月七日、昭和45年より太陽暦の二月の第2日曜
日に変更された。  祭当日は、午後二時頃海岸で身を清める。午後7時半頃、灯りが消され一面が暗い中、火打石により火がおこされ、萱や竹で
束ねた高約5Mの2基の「すずみ」に火が放たれ、中の神木と根元に巻いた縄を早く取り出し、神前に供える順位により気候や豊凶が占われる。
また「すずみ」に使われた竹の燃え残りで作られた箸で食事をすれば歯の病を防ぐと重宝されている。
平成20年のチラシ 火打ち石でおこされた火が「すずみ」に点火される直前です。
早く神木を取り出すため、「すずみ」に取り付き、ゆすり、火の勢いを
高める奉仕団
奉仕団の衣装は、古い幟で作られ、色と動作の素早さから、地元
では「ネコ」と呼ばれている



三河一色大提灯まつり・・・愛知県無形民俗文化財
下のチラシによると、大提灯祭の由来は、その昔、毎年夏から秋にかけて海魔(かいま)が現れ、田畑を荒らし、人畜に危害を与え被害が
大きかった。  永禄7(1564)年頃に長野県の諏訪大社より御分霊を勧請し、諏訪神社の神前に魔鎮の剣(ましずめのつるぎ)を供え、大
かがり火を焚いて海魔退散の祈祷大祭を行った。  それ以後は、被害がなくなったという。これが大提灯まつりの起源といわれる。  この
神事が約100年続いたが、かがり火を焚くことが不便だということで、寛文年間(1661〜72)頃に提灯を献灯するようになった。  その後、6組
の氏子たちが、提灯の大きさを競うようになり、遂には西尾藩より寸法制限例が出て入牢者まで出た。  現在の大提灯は、大きいもので直径
5.6M,長さ10mという大きさを競う。  6組の氏子によって一対づつ12張が保存されている。
場所:幡豆郡一色町
まつりは、例年8月26日午後7時頃〜

大提灯まつりのチラシ
提灯の下も通ることができます。
お祓いを受けた、蝋燭は、人力で大提灯まで運ばれます。長さ
1.2M、重さ80kgという。
 
  提灯に据えられる大蝋燭、大きさが分かります。
     
火が点けられた蝋燭。自然の光です。 まつり翌日の大提灯。  人と比べると大きさが、わかります。 





刈谷万燈祭 ・・・愛知県無形民俗文化財
この祭は、刈谷市銀座にある秋葉社の祭礼で、火難防除・町内安全を祈願する祭です。 秋葉社は、宝暦4年に発願され、人々の寄進を仰ぎ、
宝暦6年(1756)、遠州秋葉山より秋葉三尺坊大権現が勧請された。  祭の由来は、安永7年(1778)の祭礼で、各町組ごとの出し物の中に「町人
万燈」が登場したのが、今の「刈谷万燈祭」の始まりのようだ。
 
     
2007年のチラシです。会場は、JR刈谷駅から徒歩10分程度
の近くです。
   代表的な万燈。 光源は自動車のバッテリーでした。
     
  万燈は、高さ5M、重さ60sとか。 しかし女性が担ぐ場面を目撃
しました





 「デンデンガッサリ」・・・山中八幡宮(岡崎市)
 この祭は、室町時代から続く古式ゆかしい五穀豊穣を祈念するお祭りである  御田植ノ歌、牛(役)が餅を背負わされ重すぎて牛ですら倒れる
ほどの豊作を祈願する所作が主な内容である。  最後に細かく切った餅投げがある。  毎年、1月3日午後2時から開始される。
                                                                         ・・・平成21年1月3日撮影
     
     
拝殿で「お田植え歌」を歌い豊作を祈念します。   豊作を表す大きな餅が牛役に背負われます
     
豊作を表す大きな餅のため、牛も倒れてしまいます。   最後に、奉納された餅が、小さく割られ、参拝客にふるまわれます





てんてこ祭   ・・・(愛知県指定無形民俗文化財) 
 愛知県西尾市熱池(にいけ)町の八幡社一帯で、1月3日の午後1時から天下の奇祭と称される「てんてこ祭」が行われている。 二十五厄と四十三
厄の厄男6人が赤装束で小締太鼓を持つ役、飯櫃(めしびつ)を担役、竹で御神酒樽と鱠(なます)を吊るした役などにふんし、県道から神社までの道
すがら、太鼓を「テンテコ テン」と鳴らし、腰に付けた男性のシンボルをかたどった大根を腰を「くねくね」させ、見物人の注目を浴びている。 会場で
購入した「熱池八幡社御田植神事由来」によると、祭は、清和天皇(850年代)の大嘗祭(おおにえのまつり)<天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗
祭(収穫祭)>が始まりとされ、1100年の歴史があるという。  同由来によると、<赤い衣服、男根等は古来、最も神聖なものとして神事に使用され、
現在も上古の習慣のとおりに扱う>とある。  また、御飯の櫃や鱠等を持っていくのは、古くは田植えの時のみに昼飯を食べたためとある。  (この
仕事は女の仕事で「昼食(ひるま)持」が持っていくのが本当である) なお、田植えの時の昼飯の残りは、絶対に家に持ち帰ることは、古代の信仰上、
許されないことであり、この観念が変わって厄除け、病除けになったという。  昔の田植えは、農村にとって神聖な行事の一つであり、顔を隠している
ことは田の行事の特徴である。  早乙女は勿論、囃子にくる人も顔を隠すものとされた。  赤い着物を着ているのは田植えが神聖視された時代の姿
を表し、神として振るまうのである
     
 古代の扮装である赤装束隊
     
 大根で作られた男性のシンボルは、豊作祈願です   八幡社に到着し奉仕員の行列。先頭は、塩導という役で、塩を撒き
散らし、お清めします
   
上の境内巡回が終わると同時に藁灰が竹箒で撒き散らされ、これを
被ると夏病みしないとされる。  本来の田植え神事では、肥料の意味
である
  



  厄男達全員が拝殿に戻り、神職祝詞、役員及び厄男達の千秋
万歳楽そして田植え謡を謡うという。  歴史上、田植え謡は12句
あったが、現在は4句が伝わるという。  謡は他人に知られられ
ないように声を低く籠らせるため、詳細は不明であった。
  田植え
が、終わるたびに、鳥居前の門松の葉が投げ込まれる。
 (早苗打ち=田植え作業を表すという)





 綾渡(あやど)の夜念仏(よねんぶつ)と盆踊・・・国指定重要無形文化財
                                         ・ユネスコ無形文化遺産一覧表登録の勧告(H4。11.6)文化庁報道発表
 愛知県豊田市綾渡町の平勝(へいしょう)寺で、8月10日及び15日の夜、江戸時代から続く盆行事で国の重要無形民俗文化財「綾渡の夜念仏と
盆踊」が行われる。  この行事は、新仏(1年のうちに亡くなった人)の家を回り、霊を慰めるために回向を手向け、余興として手踊り(盆踊り)を踊る
盆の行事である。  かっては、三河山間部から岐阜県の恵那市(旧山岡町、串原村、上矢作町)にかけて広く行われていたが、過疎化、高齢化に
より、今も残っているには綾渡地区のみである。  この綾渡町も青年が少なくなったため、昭和35年に保存会を結成し、新仏の家を回ることもなく
なり平勝寺境内で行われている。  夜念仏行事は、午後7時過ぎ、平勝寺参道の幟立てに集合した、平笠に浴衣姿の男衆15人が「折子
(おりこ)
と呼ばれる2基の灯篭の前後に鉦を持って列を組み、参道を進み、山門開き、観音堂、氏神神明宮、本堂のそれぞれの前で、鉦に合わせて低い声で
「なみあみだぶつ」と回向した。  夜念仏が終わると、音頭を取る歌だけに合わせて、下駄の足拍子だけの素朴な盆踊りが行われた。  平成9年、
重要無形文化財の指定を受けている。・・・出典「綾渡の夜念仏と盆踊」
     
参道を進む隊列    山門下の石仏前での「辻回向」 
     
「山門開き」    観音堂前での「観音様回向」 
     
  極楽が描かれた「折子灯篭」    地獄が描かれた「折子灯篭」