豊川市(旧音羽町)の鎌倉街道 
 鎌倉街道は、岡崎市鉢地町から旧音羽町長沢に入る。長沢は、標高200m前後の里山の中を進むことになる。「三河の古道と鎌
倉街道」の著者の武田さんは、旧街道は大正時代まで採材や狩猟、そして鉢地への近道として利用されていたが、昭和の時代か
ら使われなくなったという。その結果、山間は街道の姿が残されているが、出入り口の部分が分からなくなってると記されている。
「平安鎌倉古道」は、武田さんのルートと武田さんが建立した石碑について記述があるが、里山の南外周が鎌倉街道と図示してい
るが、根拠等具体的な説明がなく、調査研究の術がなく、武田説を調査検討した。
入口が不明であることは、遠方の私にはかなりハンディーがあった。平成19年8月に宮路山経由で赤石神社まで歩いたが、長沢
の里山の裾をさ迷い歩き、日暮れの中を不安な気持ちで中断し国道一号線、名鉄本宿駅まで歩いた記憶がある。前回作成したホ
ームページで、この部分は不明と書けなく、通過となっている。先のページで書いているが、今回、腰を据えて調査する覚悟で臨ん
だが、手がかりがなく、さ迷い歩いている途中で落合さんを見かけ、藁にもすがる思いで街道の話をお聞きし、情報をいただくとが
でき、幸運にも山の中で武田さん建立の石碑と道筋を発見できた。赤石神社置宮(元宮)の位置についても図示した資料がなく、
大祭当日に参内し、参加されている地元の方にお聞きし、何とか現地確認することができた。これらの場所を結んだ線は、証明で
きる証拠はないが、坂上田村麻呂伝説の大鰻がいた池跡、鰻の呪いを封じ込めるため諏訪大明神を勧請した赤石神社置宮(元
宮)、武田さん建立の石碑の位置が直線で結ぶことができることから、街道遺構と推定できると思う。先述の参考図書でも、明示さ
れていないが、報告・公表することで多くの方の目に触れ、関心を持つていただきたいと希望している。
 
     
大鰻伝説の池跡<豊川市長沢町西千束
延暦年間(782〜805)、坂上田村麿が東国の蝦夷征伐
の帰途、当村を通過したとき、里人の頼みにより古池の大
鰻を退治した。その祟りを恐れた里人達に建御名方(たけ
みなかた)命を祀れば後難はないと教えたので、その指示
により、古沼に近い丘の上に一社を造営し建御名方命の
神霊を祀ったのが赤岩神社の起こりとされている。今でも
この地を置宮といっている。
その後、領主の命令で数千束の松葉を伐り出し、沼に投げ
入れ埋め立てて耕地にした。
・・・音羽町史第6編民俗 2伝説から引用

参考
 建御名方命は諏訪大社上社の主祭神。軍神、農耕神、
狩猟神、風の神として崇敬されている。
 
  まんぷく食堂跡<豊川市長沢町西千束>
大鰻伝説の池を埋め立てた時に、その跡に小さな塚を建
てたという。まんぷく食堂のできる前に、一本の松の木があ
る塚らしきものがあったが、それが鰻塚だとも伝わる。
・・・音羽町史第6編民俗 2伝説から引用
     
推定街道遺構と古跡東海道碑
<豊川市長沢町西千束

「平安鎌倉古道」<尾藤卓男著:平成9年10月発行>で、碑
及び武田説の街道遺構の記述があるが、写真及び図示は
ない。尾藤さんは、赤石神社から田地を南西に進み鉢地町
菖蒲ケ入、そして菩提寺に向かう説である。一連の里山の
中を進み遠回りになる等で賛成できない。大鰻伝説の池跡
や赤石神社置宮の位置がほぼ一直線になる、この街道遺
構を古代から中世の街道遺構と推定したい。
なお、武田勇さんは、「三河の古道と鎌倉街道」<昭和51
年6月発行>の中で石碑について、何も書かれていないの
が不思議である。
  古跡東海道碑<豊川市長沢町西千束
「三河の古道と鎌倉街道」著者の武田勇さんが昭和50年
に建てた石碑。裏に昭和50年の文字がみえる。
武田さんは、矢作町在住であったが、生誕地が当地で自
分の山に建てた。
 
なお、この里山の中には猪が生息しており、地面を掘り返
した跡がいたるところにある。危険でもあり、今回は場所に
ついては、明記しない。
     
赤石(あかいわ)神社置宮(おくみや)
<豊川市長沢町東千束>

延暦年間(782〜805)信濃国の諏訪大明神の分霊を勧請し
、赤石の地に奉斎された社である。
  赤石神社<豊川市長沢町日焼>
永仁年間(1293〜1298)、讃岐の住人・番場太郎致
由が当地を領し
登屋ケ根城を築くにおよび守護神と
して現在地に社殿を造営し、遷座される。
もとは諏訪大明神といっていたが、文政二年(1819)
四月、地名の赤岩を採用し現社号に改称される。
     
諏訪大明神の提灯<赤石神社>
例大祭(10月第一土日曜日に開催)当日の入口。
  関屋交差点<豊川市長沢町関屋>
赤坂の旧記によると足利将軍義持の時、赤坂の今の
道を開くとある。また応永十五年(1408)「幕府諸国に
関所の制を定む」と
あって、赤坂と同じく長沢にも新た
な通路が開かれ、狭隘の地・長沢に幕府にてによる関
屋が設けられたようである。関屋建設を推測できるの
は、足利将軍義教の富士紀行の歌に
<道ひろくをさまれる世の関口>はとあり、専ら三河長
沢の関屋のことであろうとされる。
・・・三河の古道と鎌倉街道P165引用
     
登屋ケ根(とやがね)城址<豊川市長沢町番場>
別名、関口城。 永仁年間(1293〜1298)頃、標高100m、
比高15mの丘陵地に番場太郎致由が築いたとされている
が、今川氏の一族関口刑部によって築かれた等諸説あり
定かでない。
1561年の今川氏と松平氏の戦の時に、今川氏の武将で長
沢城代糟谷善兵衛と小原藤五郎がこの城を守って善戦し
たが、永禄4年 松平元康(徳川家康)に攻められて駿河に
逃れる。
  長沢フロノ下の猪垣<豊川市長沢町小沢>
猪などから田畑の被害を防ぐために、江戸時代中期以降
に石を積み上げて造られた石塁で、高さは約1.5m程、周囲
が250m以上ある。
 
・・・市指定有形文化財
     
小渡井桝井戸(こわたいのますいど)
<豊川市長沢町西切山>

聖徳太子が宮路越えのとき、清水を所望された。近くの岩
間に枡のような井戸があり 水が湧き出ていた。太子はその
清く冷たい水に感動し小渡井枡井戸と名付けたという。
  浄瑠璃姫腰かけ石<豊川市長沢町御城山>
三河の国矢矧(やはぎ:現岡崎市)の浄瑠璃姫が、源義経
を慕って後を追って長沢まで来たが追いつかず、石に腰か
けて途方にくれていたという。この石を「腰かけ石」と呼び、
小渡井の枡井戸 と道路を挟んだ向かい側にある。ガード
レールと
 獣避けのフェンスがあり、更に草に埋もれており
見つけずらい。探したが分からなく、宮路山入口で作業中
の方を見かけ、教えていただいた。一旦戻ることになった
が、地元の方も現地で説明していただけ、発見できた。
この場所は、HP「東三河を歩こう」で知りました。また画像
もフェンス越に撮影しにくく、草で覆われているので「東三河
を歩こう」のHPに申請し使用させていただいています。
http://www.net-plaza.org/KANKO/index.html 
     
猿岩<豊川市長沢町>
腰かけ石から更に宮路山に向かって行く途中に洞穴がある
大きな岩があり、姫がここまで義経を慕って来ると、洞穴か
ら猿が出てきて、「もうあきらめて帰りなさい」という。 思案
の未、姫は泣く泣く矢作に引き返したといわれ、この岩を
「猿岩」という。
中央の岩が顔に見えます。
  宮路山もみじまつり<豊川市赤坂町>
「コアブラツツジ」の紅葉が真っ盛りの11月中旬には、
「宮路山もみじまつり」 が開催され、餅つき、甘酒、郷土
料理などがふるまわれる。

07年11月、準備中の画像です。 (16年11月は、明け方
までの雨で人では少なかったです。)
     
雲助飯
地元の皆さん一押しの「雲助飯」。道を間違え遠回りしたた
め正午頃となりました。残り少ないのを試食させていただき
ました。混ぜご飯ですが、くせのないあっさり味でした。
(平成28年11月27日撮影)
  宮路山登山口<豊川市赤坂町>
第一駐車場横にある登山口。階段の上に、左下の写真
の切通しがあります。
     
宮路古道切通し<豊川市赤坂町>
古代・中世の時代から東海道(古道)の「宮路越え」の通路
になっていた。応永20年(1413)、現在の東海道ができて
、この宮路越えはなくなった。
<現地設置の豊川市教育委員会案内看板>引用
 
関屋の歴史等により、中世東海道の鎌倉街道は応永年間
に江戸時代の東海道筋に移行していたことになる。
  宮道天神奥ノ院<豊川市赤坂町>
日本武尊東征のとき、第三皇子建貝児(たけがいこ)王を
当地に封じられた。宮路別(みやじわけ)の
祖であって御子
宮路宿祢速麿は県主(あがたぬし)となり、子孫は引き続き
在住し、その祖「建貝児王」を祭祀、宮道天神の起源であ
ると伝える。
大宝二年(702)草壁皇子の母である持統上皇は三河御
幸の際に宮路山に頓宮を造営され、跡地に草壁皇子を祀
ったのが嶽大明神(宮路天神)の起源とする説もある。
中世、宮道天神は嶽大明神に合祀された。
明治13年社号を復旧して宮道天神社と改称した。
・・・音羽町史より引用
     
宮路山の紅葉<豊川市赤坂町>
宮路山 の頂上へ続く北斜面一帯は「ドウダン」と呼ばれる
「コアブラツツジ」の群生地で、豊川市市指定天然記念物
になっている。
秋になるとコアブラツツジ(ドウダンツツジ)だけでなく、山全
体が紅葉に包まれ、自然遊歩道、森林浴等々、ハイキング
コースとしても賑わいを見せている。
<十六夜日記>(抄)
 廿一日 昼つかたになりて、紅葉いと多き山に向ひて
行く。風につれなき紅、ところどころ朽葉に染めかへて
ける。常盤木(ときはぎ)どもも立ちまじりて、青地(あを
ぢ)の錦を見る心地して。人に問へば宮路の山とぞ言ふ

  時雨れけり染むる千入(ちしほ)のはては又紅葉色
  かへるまで

この山までは、昔見し心地する。頃(ころ)さへ変わらば
 待ちけりな昔も越えし宮路山同じ時雨(しぐれ)の
 めぐりあふ世を
                        阿仏尼

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 昼頃になって、紅葉の大変多い山に向かって行く。風にも
散らず枝に残った紅葉はところどころ茶色に枯れかかって
いる。その中に常緑樹も混じった様子は、青地の錦を見る
ようである。人に聞くと「宮路の山です」という。
<時雨はよく降ったことだ。紅葉を千回までも色濃く染めた
うえ、その色があせて青地の錦に見えるほどに>
 この山までは昔来て見た覚えがある。季節も同じ頃だっ
たので。
<待っていてくれたのだね。昔も私が越えた宮路山よ。当
時と同じ時雨の頃、めぐり逢う運命を>
***参考
阿仏尼は、(二十歳頃)仁治3年(1242)の十月、引馬(浜
松市)のあたりにあった養父・平度繁遠江守の家に下った。
そして十一月に帰京する。この紀行文が「うたゝねの記」の
後半である。この時は、豊川宿経路であるが、十六夜日記
は渡津宿経路に変わっている。阿仏尼にとって初めての経
路であった。
  宮路山山頂<豊川市赤坂町宮路>
標高361mの頂上からは、三河湾や東三河平野が一望
できる。

西暦672年7月、天智天皇の皇子・大友皇子と皇弟・大
海人皇子が皇位を巡り争った壬申の乱がおきた。その
時、草壁皇子が宮路山・嶽ヶ城に陣を構えたと伝えら
れている。山頂には、持統上皇がこの地を訪れたと伝
られることを顕彰して宮路山聖跡碑が大正5年建てら
れた。
 
(平成28年11月16日撮影)
     
宮路山登山道<豊川市赤坂町>
宮路山古道切通しの西方、長沢への道は一本しかないが
、赤坂からの登り道は5本あり、古代〜中世の街道はどれ
か定かでない。しかし宮路天神社里宮を通るこの坂道が古
代から中世の街道とする説が有力である。
 
  宮路山登山道東入口<豊川市赤坂町>
東から宮路山に登る道は5本あるという。ここは、赤坂町
から宮道神社、福祉保健センター前を過ぎると、直ぐに
写真のように行き止まりとなる。獣対策のフェンスがあり
正面が古道入口で左の写真のようにおもむきのある箇所
も一部あるが、林道であり緩やかな坂道である。左に入口
がある道は、宮道神社奥ノ院への道で、ほとんどが沢を通
るような岩混じりの道で急こう配もある道である。
     
宮道天神社里宮<豊川市赤坂町宮路>
山麓の拝殿は元亀二年(1571)松平右京亮の創建である
が、今の拝殿は元禄8年(1695)に再建したものである。

・・・音羽町史より引用<07.11撮影>
  雨乞い祭<豊川市赤坂町宮路>
江戸中期の干ばつの時、当時の赤坂の宮道天神社神官
が百万遍の大念仏を修め祈願したところ、大雨が降った
ことからこの名がある。
呼び物には地元の青年が花魁や武士、娘などに扮した
歌舞伎行列、これに続くおはやしを乗せた山車、神輿渡
御等があり、旧赤坂宿 の街を練り歩く。
 8月第3土・日曜日
・・・07.08撮影
     
長福寺<豊川市赤坂町西裏>
長福寺は浄土宗の寺院で、山号は三頭山。三河の国司
大江定基 との別れを悲しんで自害した赤坂の長者の娘力
寿姫の菩提を弔うために建てられた寺である。 本殿裏の
墓地奥の山中に力寿姫の墓がある。
  力寿姫の墓<長福寺>
<東関紀行>
三河路ー赤坂の宿と大江定基の出家のこと
 矢矧という所を立ちて、宮路山を越え過ぐるほどに、
赤坂という宿あり。ここにありける女ゆゑに大江定基
(おおえさだもと)が家を出でけるも哀れなり。人の発心
する道、その縁一(いつ)にあらねども、あかぬ別れを
惜しみし迷ひの心をしもかへし、真(まこと)の道におも
むきけん。ありがたく覚ゆ。
 別れ路(ぢ)にしげりもはてで葛の葉のいかでかあら
ぬ方にかへり

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
矢矧という所を出立して宮路山を越えていくと、赤坂とい
う宿がある。ここにいた女性のために大江定基が出家した
ということも感慨が深い。人が発心することは、その契機は
一つではないのだが、名残のつきない別れを惜しむ迷いの
深い心を一転させて仏道におもむいたということは、すばら
しいことだと思う。
 別れ路(ぢ)に恋人と別れるべき心の迷いが、さらに深く
なることがなくて、一面に生い茂る葛の葉が思いもかけぬ
方向に翻(ひるがえ)るように、どのように仏の道に心が向
いたのであろうか。
     
杉森八幡社<豊川市赤坂町西縄手>
祭神は天照大神、誉田別尊(ほんだわけのみこと)、
大鷦鷯尊(おおさぎのみこと)、息長足姫尊(おきなが
そくひめのみこと)である。持統上皇三河御幸のときの
頓宮か、その近くに八幡宮を勧請したと思われる。
左のニ本の大木は推定樹齢約千年の楠で根株が一本
化しており「夫婦楠」と呼ばれている。
(市指定天然記念物)・・・境内の説明版より引用
 
  関川神社<豊川市赤坂町関川>
長保3年(1001)、三河国司大江定基の命をうけた赤坂の
長者宮道弥太次郎長富が、楠のそばに市杵島媛命を祀
ったのが始めと伝えられている。従来は、弁財天と称して
きたが明治の神仏混淆の禁令によって関川神社と称する
ようになった。
境内のクスノキ は推定樹齢800年で、 昭和56年3月1日豊
川 市指定天然記念物。
また、鳥居のすぐそばには
 「夏の月 御油より出て 赤坂や
 の松尾芭蕉の句碑がある。
     
古赤坂宿<豊川市赤坂町丁田>
音羽川に架かる関川橋。「三河古道と鎌倉街道」では橋の
右側の字丁田が最初の赤坂宿があった場所という。鎌倉
街道は関川神社付近から、この付近で途河し右の岡の中
腹に赤坂小学校があり、その右(東)の字東山から右折、
名鉄に並行する形で西明寺付近、本野原(現在の豊川市
穂ノ原)に向かった。 
橋周辺が承久の乱の古戦場であった字落合である。
 <海道記>(抄)
九日、
矢矧ヲ立(たち)て赤坂ノ宿ヲ過グ。昔此(この)宿
ノ遊君、花齢(くわれい)春コマヤカニ、蘭質(らんしつ)
秋カウバシキ者アリ。かおばせヲ藩安仁(はんあんじん
)ガ弟妹ニカリテ、契ヲ参川吏(みかわのり)ノ妻妾(さい
せふ)ニ結ベリ。妾(せふ)ハ良人(りょうじん)ニ先(さき
だち)テ世ヲ早(はやく)シ、良人ハ妾ニ後(おくれ)テ家
ヲ出(いづ)。シラズ利生菩薩(りしょうぼさつ)ノ具現シ
テ夫ヲ導(みちびき)ケルカ、又シラズ円通大師ノ発心シ
テ妾ヲスクヘルカ。互ノ善知識大イナル因縁アリ。
  以下略
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
九日、矢矧を出立、赤坂の宿を過ぎた。昔、この宿の遊
女で、顔は春の花のように美しく、性格は秋の蘭のように
優れた者がいた。顔は藩安仁の妹のようであり、三河国の
長官の妻となった。その妻は夫に先立って早世し、夫は妻
に死なれて出家した。これは利生の菩薩が化現して夫を導
いたか、あるいは円通大師が道心により妻を救ったのだろ
うか。互いに善知識として大きな因縁があったのだ。
  元旅籠大橋屋<豊川市赤坂町>
280年ほど前の正徳6年(1716)に建てられた旅籠で、旧東
海道・赤坂宿の佇まいを今に伝えている。
2015年3月で営
業を終了し、豊川市に寄付され改修中である。
(平成28年11月27日撮影)
     
浄泉寺<豊川市赤坂町西裏>
安永5年(1776)に再建された本堂に阿弥陀如来が安置さ
れ、境内には広重の東海道五十三次に描かれたソテツ
が残る。
  石造百観音と蘇鉄<浄泉寺>
正面の蘇鉄が明治時代の道路拡張により旅籠から移設
された。
 



 豊川市(中心部)の鎌倉街道
平安時代までの東海道は、国府付近から渡津駅・宿(小坂井町)で豊川(とよがわ:飽海川)を志香須賀で渡り、高師、遠州浜名湖に進ん
でいた。しかし鎌倉時代初期から約百年間、平安海進(海面上昇)等により渡河地点が上流に移動した。このことにより街道も国府付近か
ら国分寺跡、伊知多神社、本野ケ原、豊川宿と丘陵の裾野に移動している。古代から東海道の副路線である姫街道があるが、市史や参
考資料に書かれていなく、姫街道が利用されていない理由は不明である。わずかに三河総社や国分寺跡近辺にあった条理地に洪水の痕
跡が残されていたとあり、姫街道の通行に大きな支障があったと推定される。
東三河の古道と鎌倉街道P180に<豊川宿(古宿町とされる)から豊川を渡るが、河岸段丘を北に下り、三明寺前付近に出て、渡船に乗る
が、渡船場の位置は不明であるとしている。また、左岸(東岸)のどこに着いたかも史料がなく新編豊川市史等では不明とし、「東三河の古
道と鎌倉街道」は弁慶塚がある本坂(姫)街道和田西、「平安鎌倉古道」は浪の上町矢口とする等諸説ある。当時の流路や自然堤防等の
状況が不明であり断定できないので下図では、可能性のある渡河地点を赤い線で示した。
なお、海道記では渡河後、しばらく歩いて、ようやく夜明け時となり、薄明りの山の景色を幻影的に書き留めている。(原文には山の名が書
かれていない。が、東三河の古道と鎌倉街道P185で豊川宿の夜中起きの時間と距離から石巻山を西方から見た景色と推定している)
私が歩くため、豊川左岸(東)の河岸段丘の中段を街道遺構と想定し、並行している牟呂用水沿いに現地調査したところ、(小倉橋から約1
キロ、三上橋から約3キロ南の)石巻本町字桑原で河岸段丘が途切れ、初めて石巻山が見える地点を確認した。
       ***海道記の文と写真は豊橋市のページで説明予定です。***
史料がないので、これらの推測を繋ぎ合わせることになるが、海道記の作者は先の桑原から戻り、しばらく歩いた場所となる上流の当古町
から三上町までの間で渡河したと思慮できるが、渡河地点がどこかと特定することは史料がなく断定できない。
豊川市の柴田晴廣さんに、多くの情報を教えていただいたばかりでなく、現地もご案内いただきました。市外の私には知りえない場所が説
明できたと自負しています。ここに厚くお礼申し上げます。柴田さんのホームページ<穂国幻史考>です。
 
     
芭蕉句碑<豊川市八幡町字日影>
かげろふの我が肩に立紙子哉 ばせを翁
(かげろうの我が肩に立つ紙子かな  芭蕉翁)
寛保三年(1744)十月、俳聖松尾芭蕉五十回忌の際に国
府の俳人 米林下(べいりんげ:小沢才二)が建てたもので
東三河最古という。
江戸時代建立であるが、東海道や姫街道が近くを通るのに
平安・鎌倉街道の経路に建てられている。
  西明(さいみょう)寺<豊川市八幡町寺前>
平安時代、三河守大江定基が愛妾「力寿姫」と死別し、世の
無常を感じ、草庵を結び六光寺と名づけ、天台宗の寺院とし
たのが始まり。定基は都に帰るにあたって、愛染明王一体を
残した。その後、荒廃したが、鎌倉時代、執権北条時頼が出
家し、諸国巡歴のおり、当山に寄り、再興して臨済宗最明寺
と改めた。その後、今の西明寺に改称される。
 
     
愛染明王尊像<西明寺境内>
祀られている愛染明王尊像は、平安の時代、三河の国司・
大江定基が亡き力寿姫の菩提を弔うため愛染池畔に祀った
と伝えられる。
  ベルツ博士の顕彰碑西明寺境内
明治初期に来日、名医として知られたドイツ人医師・ベルツ
博士
は、鋭い知性とあたたかな人間性を併せ持つ日本文化
研究の大家でもあった旧宝飯郡御津町(現在は豊川市と合
併)出身の日本人荒井花子を妻に迎えている
昭和45年、来日したドイツ、ビーティヒ・ハイム市の市長夫人
はベルツ博士の孫娘であり、博士生誕地の菩提樹を当寺に
記念植樹している
 
     
船山古墳<豊川市八幡町>
国府駅近くにある、全長91Mの東三河最大の前方後円墳で
ある。古墳時代中期の築造とされている。頂上には、古墳の
遺跡(説明なし)と隣には上宿神社が祀られている
 西側に
古墳の遺物らしきものがあったが、現在は工事中の状態で
樹木が伐採され何も残されていない。
  久保古墳・久保神社<豊川市久保町>
姫街道上宿交差点から東170mの久保東部市民館の南に
位置する。境内は、古墳時代後期(約1,400年前)の群集墳で
あるが、現在は久保古墳一基のみが確認されたという。
永正4年(1507)11月の棟札に若王子御宝殿とあり、社伝に
大江定基時代に創建された古社であると伝えられている。
     
三河国庁跡<豊川市白鳥町>
三河総社と徳源寺にまたがる地区は、平成9年度から発掘調査が行われ、上の案内図の国庁跡が確認された。国庁の周囲に関連施設が作られ、全体を国府(国衙)と呼称される。
  三河総社<豊川市白鳥町>
奈良時代、国司は国内の神社に参拝する習わしとなって
いた。やがて、全ての神社を廻るのが大変なため、神社を
一つにまとめた(総)社を国府の近くに造り、1か所で参拝
する役目を終えることとした。
     
街道遺構<総社境内>
総社拝殿西に残る街道遺構の入口部分 

  万葉歌碑総社境内
妹も我も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
高市連黒人が大宝二年(702)の持統上皇の三河御幸に
従篭した時に詠んだもので、日本最古の和歌集である万葉
集にみられる。「あなたもわたしも一つだからだろうか。三河
の二見の道から別れるのがつらいよ。」と訳される。
二見の道とは古代において御油付近から東に分岐し、本坂
峠を越え浜名湖北岸へと通じる近世の姫街道と同じ道筋と指
定されている。・・・石碑(2014年3月建立)左の案内版引用
**訳は万葉集入門<解説 黒路よしひろ>から引用**
 
     
上ノ倉遺跡<豊川市八幡町>
国庁跡のある白鳥台地と国分寺跡等がある八幡台地は
二つの台地に分かれ、その狭間を姫街道が通っている。
台地間を連絡する堤防上の高まりが平成8年度から発掘調
査され古代末期(12世紀初め)には構築されたものであるこ
とが判明した。構築の目的は、はっきりしないが国府と国分
寺等を結ぶような位置にあり、道路としての役割を果たして
いたとも考えられている。
現地は区画整理事業で都市公園となっており、上記説明版
のみが設置されている。
  八幡宮<豊川市八幡町>
上ノ蔵遺跡と西古瀬川を挟んだ対岸にある。白鳳年間
(7世紀半ば)、大分県宇佐八幡軍宮から勧請されたと伝
わる。奈良時代に入り、三河国分寺が造営されると、
鎮護の神となり崇敬を集めた。現在の社殿は、文明9年
(1477)の建立で明治40年に国の重要文化財に指定さ
れている。
 
     
お祭弓<八幡宮>
戦国時代に徳川家康の予備軍として、百姓、町人が弓を引
くことを許された三河地域は江戸時代から「勧進的」という
射会が開催されている。神社境内には、弓の稽古に欠か
せない矢場があり、日置流雪荷派、日置流印西派、大和流
など、其々の矢場の師匠が代々継承し、その流儀にそって
弟子を育ててきた。
祭礼の朝、伝統の古式にしたがった「お祭り弓」の形式で初
射会
が行われる。お祭り弓とは、神社を中心とするその村落
共同体の五穀豊穣、村中安全、無病息災を願う祭礼に際し
、金的を射止めることにより、その厄難を取り除くことにある。
 直径一寸八分の金的の裏には「鬼」という文字が刻まれ、
悪霊とか災いを象徴的に表している。射止められた矢の刺さ
ったままの的は神社の本殿で、神官によるお祓いの後、祝
的(しゅうてき)といわれる矢を抜く儀式が行なわれ、金的を
射止めた者には主催者である神社から、額代と呼ばれる報
奨金と褒美が出される。この額代で翌年の祭礼に、何流の、
誰の門人であるのか書かれた本人の名前の入った的中額
を奉納し、神社の境内に長く掛けられる。これは弓引きにと
って大変名誉なことである。通常、的中額を奉納し神社にか
ける事のできるのは、正規に伝わる師匠と、その門人に限ら
れる。
・・・HP弓祭から引用
<射小屋に適中額が奉納・掲示されている>
 
三河国分寺跡<豊川市八幡町>
八幡宮の東に180m四方の伽藍地(寺の敷地)跡の空
き地がある。要所に築地塀や金堂跡の説明版があるが
特別なものはない。
中央の藪の中に塔の礎石2基が残されている。右遠方
は、三河国分寺跡の一画にある国府山国分寺の建物で
ある。
     
国府山国分寺<豊川市八幡町>
国分寺金堂跡にある曹洞宗寺院。創立は奈良仏教隆盛の
時、第45代聖武天皇の勅願で東大寺を総本山として諸国に
国分寺が建てられた。三河国分寺は、天平9年(741)2月2日
に建てられたが、その後、焼失にあった。永正3年(1506)
3月、西明寺中興二世機外和尚が再興し、今日に至る。発掘
調査により、180m四方の寺域が確認されている。
  平安時代の鐘楼<三河国分寺境内>
国分寺に平安時代作成の銅鐘があり、国の重要文化財
に指定されている
     
国分尼寺跡<豊川市八幡町>
国分寺から東北約3百mの位置にあるが、県道を横断し
民家の中の道を進む。見通しができなく、狭い集落の中の
道であるので事前に地図等で調べるとよい。
国分寺と同様、第45代聖武天皇の勅願で全国60余か国に
建立された一つ。約150m四方の敷地に本尊を安置した金
堂、尼僧が勉学した講堂、南大門跡が発掘・確認された。
正面の建物は、再現された中門で、周囲に説明版が設置さ
れており、わかり易くなっている。中門左奥の緑は、「踊り山」と畑を手入れしていた婦人に教えていただいた。
また、左後方に市立の「三河天平の里資料館」があり、古代
の歴史を学ぶことができる。
  伊知多(いちだ)神社<豊川市八幡町>
街道は国分尼寺跡裏山の踊り山付近から伊知多神社
あたりの山裾に出、一面の野原であった本野ヶ原(穂の
原)を通り抜けたという。
 
     
青龍山松永寺(しょうえいじ)<豊川市市田町>
天正元年(1573)開基されたといわれる曹洞宗総持寺派松
永寺。正面の建物が弘法堂、本堂は右にある。鎌倉街道推
定線の近くにある。
  鳥居強右衛門(すねえもん)勝商公木像
<松永寺弘法堂>

1575年(天正3)5月,織田信長・徳川家康連合軍が,
3000挺の鉄砲隊で当時最強を誇る武田 軍の騎馬隊を
破ったことで知られる長篠の戦い。長篠城が落城寸前
の時、城主奥平貞昌の命により 敵の囲みを突破して岡
崎の徳川家康に援軍を求めに行った鳥居強右衛門勝
商(かつあき)(豊川市市田町出身)。 家康に危急を告
げた強右衛門は、一刻も早く吉報を知らせようと夜をつ
いて引き返し、「援軍来る」とのろしをあげたが,武田軍
に捕らえられてしまった。 敵将武田勝頼は「援軍が来な
いから降伏するように告げよ」と命令したが、強右衛門
は,従ったふりをしながら 「2,3日のうちに援軍が来る」
と城中に向かって叫んだ。城中には喜びの声が上がっ
たが、強右衛門は磔の刑にされた。
鳥居強右衛門の生誕地に位置する松永寺の弘法堂に
鳥居強右衛門勝商公の御木像安置所がある。
 
     
曹洞宗本国山玉蔵寺<豊川市本野町>
曹洞宗の寺院で本国山玉蔵寺の門前である。本野町東浦
交差点の西南近くにある。
  玉蔵寺墓地整理記念誌碑<玉蔵寺本堂西>
鎌倉時代に書かれた仲風抄によると、源頼朝の命で鎌
倉街道を整備し、京よりの行程に赤坂を経て本野ケ原
を通り豊川宿へ行くとあり。往時はこの街道村を通過し
、広重の絵にも描かれし柳並木ありて徳川家康公三遠
遠征のみぎり涼を求めしと言われたる「憩いの柳」の名
残り、北浦東池のほとりに在りたるを土地改良整理事業
の節、玉蔵寺境内に移植せり。<抜粋>
その後、枯死したという。
     <海道記>(抄)
 かくて本野ケ原を過ぐれば、嬾(ものう)かりし蕨は春
の心おひかはりて、人もをらず、手を己(おのれ)がほど
ろとひらけ、草わかき萩の枝は秋の色疎(うと)けれども
、分け行く駒は鹿の毛に見ゆ。時に、日、鳥山(てうさん
)に隠れて、月、星纏(せいてん)に露(あらは)なれば、
明暁(みやうげう)をはやめて、豊川の宿に泊りぬ。

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
こうして、本野ケ原を過ぎると、春には若かった蕨は既に
成長し、人も折らず、握り拳のようであった手をほどろと開
き若い萩の枝には秋の色は未だ薄いが、それを分けて行く
馬は鹿毛(かげ)のように見える。ちょうどその時、太陽は鳥
山(裏山説もあり)に隠れ、月は星空にはっきり姿を現した
ので、明朝早く出立することにし、豊川の宿に泊まった。
延命地蔵菩薩堂<豊川市桜木通2>
豊川稲荷の敷地東にある延命地蔵菩薩堂。正面の延命地
蔵菩薩由緒によると約七百年前に建立された。次いで、源
頼朝公征夷大将軍
となり鎌倉街道を整備し、京よりの行程
に赤坂を経て本野ケ原を通り豊河宿に行くとある。また
豊川雄進社古図によれば、本野ケ原より豊川宿に至る道は
地蔵尊の祀られし、このあたりの道あるのみ としている。
最後に、地蔵尊の元所在地は、東南東150m先とあり、左
の道が街道とは断定できないが、当地付近を鎌倉街道が
通っていたことになる。
  <東関紀行>(抄)
本野ケ原に打ち出でたれば、四方(よも)の望みかすか
にして、山なく岡なし。秦甸(しんでん)の一千余里を見
渡したらん心地して、草土ともに蒼茫たり。月の夜の望
みいかならんとゆかしく覚ゆ。茂れる笹原の中に、あま
た踏み分けたる道ありて、行末(ゆくすえ)も迷ひぬべき
に、故武蔵野の司、道のたよりの輩(ともがら)に仰せて
植えおかれたる柳も、いまだ陰とたのむまではなけれど
も、かつがつ、まづ道しるべとなれるも哀れなり。
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
本野ケ原に出てみると、辺りの眺望は果てしなく、山もなく
岡もない。秦の都の周囲の一千里を見渡したような心地し
て、草も地も見渡すかぎり青々と広がっている。月夜の眺望
はどんなにかと心引かれる。茂った笹原の中に幾筋もの踏
み分けられた道があって、行く先を迷ってしまいそうなので
あるが、故武蔵守泰時が道筋の住民に言いつけて植えお
かれた柳も、まだその木陰に立ち寄るほどにはなっていな
いが、どうにかこうにか道の案内となっているには心を動か
されることだ。

     
豊川稲荷(とよかわいなり)<豊川市豊川町>
妙厳寺の境内に鎮守として祭られた「豊川??尼真天
(だきにしんてん)」の通称で嘉吉元年(1441)開創。江戸
時代に商売繁盛、家内安全の神として、全国に信仰が
広まる。日本三大稲荷の一つとして、年間数百万人の
参拝客が訪れる。(平成21年1月3日撮影)
 
  観光案内所<豊川市西本町>
豊川稲荷駅から徒歩数分の場所にあり、観光情報などが
得られる
     
焼夷弾の模型<観光案内所内>
観光案内所の一区画に、不気味なものが展示してある。
第二次世界大戦時、豊川には海軍工廠(工場)が設置され
ており、56,400人が働いていた。昭和20年8月7日、大空襲
により、従業員はもとより、学徒、女子挺身隊員など二千
有余人が亡くなっている。
当時の工廠の概要も説明されており、知るべき歴史の
一コマである。
 
  豊川進雄(すさのお)神社<豊川市豊川西町>
進雄命(すさのおのみこと)を御祭神とする。明治時代以前
は豊川牛頭天王社と呼ばれ、豊川村の産土(うぶすな)の
神として広く信仰されてきた。社伝によれば、大宝元年(70
1年)に豊川の右岸に沿った元宮の地に牛頭天王を御祀り
して雨乞いのお祭りを行ったのを創始として天徳元年(957
年)に今の豊川西町に遷座とある。
・・・豊川雄進神社HPより引用・・・
豊川夏祭りは、豊川進雄神社の祭りであり、手筒煙火、大
筒煙火等などの行事があるが、特に煙火は400年以上の
歴史を誇り、なかでも、参道の上を電光のように走る「綱火」
は、当社独特の煙火で、県の無形民俗文化財に指定されて
いる。・・・市観光協会HP引用・・・
     
祇園山徳城寺錫杖井戸<豊川市豊川西町>
山号は祇園山、 曹洞宗の寺院である。
本堂西奥に弘法大師伝説の錫杖井戸がある。
お堂前に設置の由来によると
弘仁13年(882)、弘法大師が諸国巡錫の途中、立ち寄り
冷水を所望されたが水の乏しい地域のため河岸段丘下の
湧き水を汲みに走り、大師に差し上げた。大師は水の不自
由な里で困っていると知り、「ここを掘れば水が出る」と錫杖
で地面を示された。
ここを掘るときれいな水が出て、井戸か
らは絶えず水が湧きだし、枯れることがなかった。人々は、
井戸を「錫杖井戸」と呼んだ。
・・・堂前の錫杖井戸の由来より・・・
  龍雲山妙音閣三明寺(さんみょうじ)
<豊川市豊川町>

三明寺は、大宝2年(702)の創建とされる。平安時代の末期
、戦乱により焼失したが、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子
無文元遷(むもん・げんせん)が再興したという
平安時代、三河の国司大江定基が愛人力寿姫の死を悲し
み、面影を永久に残そうと弁財天の御像を刻み納めた。こ
の弁財天は、本殿内の宮殿(くうでん)に祀られており、豊川
弁財天の愛称で呼ばれている。
三重塔は、亨禄4年(1531)の建造で、総14.5mの柿萱(こけ
らぶき)である。一、二層を和様、三層を禅宗様(ぜんしゅう
よう)にしたのが全国的に珍しく、三層の軒の反りなどに禅
宗様の意匠が認められる。
・・・豊川市教育委員会資料より引用
 
     
豊川宿・河岸段丘・渡船乗り場<豊川市豊川町>
三明寺西の河岸段丘。公園整備工事中であるが、背後に
重機の二倍以上の高さの段丘が見える。
上部平面は、佐奈
川の洪水で形成された扇状地で降水等が透水し易く、扇端
に集まるという。平野部で水に乏しく、河岸段丘で清水が湧
き出る豊川市の地形が伺われる。
三明寺の南に豊川宿(古宿町と推定)があったとされる。旅
人は宿から河岸段丘の坂道を北に下り三明寺付近から豊
川渡船場に向かった。<東三河の古道と鎌倉街道P180>
中世の豊川本流は、西岸寄りにあったとされるが、渡船場の
場所等詳細は不明である。
<海道記>(抄)(貞応二年1223)
 深夜に立ち出でて見れば、この川の流れ広く水深くして、誠に豊かなる渡(わたり)なり。川の石瀬(いわせ)に落つる波の音、月の光に越えたり、河辺に過ぐる風の響(ひびき)は、夜の色さやけく、まだみぬひなの栖(すみか)には、月より外(ほか)に、ながめなれたるものなし。
  知る人もなぎさに波のよるのみぞ馴(なれ)にし月の影はさしくる
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
深夜に外に出てみると、この川は流れが広く、水は深く、本
当に豊かな川の渡しだ。川の石の多い瀬に落ちる波の音は
月の光より趣があり、川辺を過ぎる風の音は、夜の気配を
感じさせ、見たこともなかった田舎家では、月以外には眺め
慣れたものはない。
 知った人もなく、この渚に波が寄せるのが見えるが、夜だ
けは見慣れた月光がさして私を慰めてくれるよ

  豊川の流跡図<豊川の歴史散歩から引用>
<抜粋>
〇一宮町松原から豊橋市大村町まで流れていた松原用水
の流路が、豊川の一つの流跡のようである。(A)
〇麻田町中村の南から谷川町にかけて広がる水田地帯か
ら牧野町・三谷原一帯のの自然堤防を取り囲み、睦美保育
園の南を西に走る水田地帯(B)や土筒町・院之子町を囲む
低地も流跡となってる。(C)
〇元禄時代の古図を見ると、向河原町は豊橋市賀茂町と
地続きになっており、麻生田の王林寺の裏を豊川が流れて
いる。(D)
〇この流れは時に二葉町と麻生田町の間を南下し三上町
深田西の古川と呼ばれている豊川の流跡と合流していたよ
うである。
<東関紀行>(抄)(仁治三年1242)
 豊川といふ宿の前を打ち過ぐるに、ある者のいふを聞けば、「この道は昔よりよくる方(かた)なかりしほどに、近きころ、俄(にわか)に、渡う津(づ)の今道といふ方に旅人多くかかる間(あいだ)、今はその宿は人の家居(いへゐ)をさえ外(ほか)にのみ移す」などぞいふなる。古きを捨てて新しきにつくならひ、定まれることといひながら、いかなる故ならんとおぼつかなし。昔より住みつきたる里人の今さら居(ゐ)うかれんこそ、かの伏見の里ならねども、荒れまくをしく覚ふれ。
 おぼつかないさ豊河のかはる瀬をいかなる人のわたりそめけん

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 豊川という宿の前を通り過ぎる時に、ある人の話すのを聞
くと、「この宿場の道は昔からほかに避けて通る道がなかっ
たのだが、最近、急に渡(わと)う津(づ)の今道(いまみち)
という方に旅人が多く向かうものだから、今では豊河の宿は
、人が住居までもそちらに移転する」などと言っている。古い
ものを捨てて新しい方を取るのは、この世の常のことという
ものの、どのようなわけなのかよくわからない。昔から住み
ついている里の人が、落ち着いて住むことなく移っていくこと
は、あの伏見の里の例ではないけれども、ここが荒れてしま
うのは残念なことに思われる。
 よくわからないことだなあ、今までと違った豊川の川瀬
の道をどのような人が渡りはじめたのだろうか
     
瀬木城址・神明社<豊川市瀬木町>
永明応2年(1493)に牧野古白が 牧野城に次ぐ居城として、
また、河岸段丘の上(古宿・牛久保)ヘ進出する拠点として豊
川の自然段丘を利用して築かれた。まもなく、波多野全慶
の一色城 を奪い、牧野城には長男能成を、瀬木城には二
男の成勝を配した。その後、城主成勝は一色城に移り、豊
川の流路が変わったこともあり、廃城となった。
本丸と思われる所は一段高くなっており、神明社が祀られて
いる。
  豊川と豊川放水路<豊川市行明町>
豊川の洪水を防ぐため、豊川市行明町、柑子町から豊橋
市前芝町までの全長6.6キロの放水路工事が昭和18年開
始されたが、戦争のため中断の後、ようやく40年に完成し
、長年の水害の苦しみから解放された。この場所は、放水
路の分岐基地であり右が豊川、左が豊川放水路である
     
羽衣の松<豊川市行明町>
豊川と豊川放水路の分岐地点にある。その昔、一人の天女
が、豊川で水遊びしていたとき、通りかかった若者が松に掛
けられた羽衣を持ち帰ってしまった。天女は羽衣を返しても
らいたい一心から、若者のお嫁さんとなり、子供も生まれ幸
せな毎日を送っていたが、ある日、若者が留守の間に、羽衣
を見つけだし、天に帰ってしまった。
その時、天女は葉を食べると病気が治るという片葉の茶の
実と人形を残していったと語り継がれている。
・・・左の説明版の要旨・・
  牛川の渡し<豊橋市牛川町・大村町>
かって、この地区に「三上の渡し」、「当古の渡し」、「天王の
渡し」、「牛川の渡し」と4か所の渡し場があったが、橋が架
設され、現在は、この「牛川の渡し」のみが残されている。
この渡しは、当地区に豊川を渡る橋がないため、市道として渡しが市営で(無料)運行されている。県内でもいたるところ
で運行されていたが、橋の整備により、現在は中野(旧尾西
市)、塩田(旧八開村)葛木(旧立田村)等数少なく、珍しいも
のになっている。特に、このように
手漕ぎ(棹)による運航は
珍しい。
牛川町の乗り場は、豊橋創造大学近くにある。


 豊川宿と渡津宿を連絡する鎌倉街道
平安時代までの東海道は、国府付近から渡津駅・宿(小坂井町)で豊川(とよがわ:飽海川)を志香須賀で渡り、高師、遠州浜名湖に進ん
でいた。しかし鎌倉時代初期から約百年弱、渡河地点が上流に移動し、新しい豊川宿が登場した。渡津と豊川を連絡する道は、住民の生
活道路であり、上流の新城市始め山間部の海への道として古くから利用されてきたと思う。
このような長い歴史の中で、渡津宿近くから豊川を渡れない約百年間弱が新旧鎌倉街道を連絡する鎌倉街道往還の時代であったと思う
が、地元の皆さんが愛着をもって鎌倉街道の遺構があるといわれる。岐阜県や愛知県でも、鎌倉街道があったという話をよくお聞きする。
鎌倉街道の原点は、微高地や山裾等自然の地形を利用した生活道路を繋いだ道ともいえる。どの道も、何時かは鎌倉や京に連絡するか
ら、各地の皆さんの鎌倉街道があるという意見は間違いではないが、全ての道を一つにまとめるには、限界がある。したがって、ここで鎌
倉街道としてご紹介する道は、中世時代の紀行文等に登場する街道としたい。当地区の街道は東関紀行に登場するので、探索した次第
である。
     
河岸段丘<豊川市中条町>
国道151号坂下交差点西から見た花井町の河岸段丘。
段丘中段の宅地造成(赤土の箇所)の山側に鎌倉街道往
還の遺構となる道がある。左手直ぐ先に花井寺、正面右手
が豊川宿があった古宿町である。
 
  延命寺<豊川市新宿町1>
普通の民家のようであるが、左の建物がお堂となっている
。詳細は不明であるが、平安時代、三河国司・
 大江定基
の3人の愛妾の一人・岩井が住んでいたという。
お堂の裏(西)に道があり、役行者像、庚申塚などが安置
されており、当時の主要道路の雰囲気を感じた。
     
松鷲山花井寺<豊川市花井町>
千年前、三河国司・大江定基の室「花井媛」が、霊泉が涌
き出て四季の花咲く、この地に「地藏尊」を奉じて菴を結ん
だのが始まりとされる。真言宗の寺院として開山したが、
天文15年(1546)に曹洞宗の寺院に改宗、現在に至る。
  花井の泉<花井寺境内>
左の霊泉と思われる「花井の泉」が境内山門近くにある。
 
     
牛久保八幡社<豊川市牛久保町>
創建は奈良時代と伝わる。仁徳天皇と応神天皇が祀られ
ている。一色城主・牧野成時(しげとき、古白)が4月8日に
この神社に参拝したおり、今川氏親(うじちか)から現在の
豊橋市馬見塚に築城を命じられた。喜んだ古白は、社前
の柏の葉でお神酒を献じて家臣と祝い、家紋を三ツ柏に
改めた。この時、照り映える若葉を見て古白が詠んだ「今
日若葉なりしか杉の森」の句から、当社の祭を「若葉祭」

いうようになった。・・・市教育委員会説明版から引用
  若葉祭<牛久保町八幡社周辺>
八幡社の例祭が、春を告げる祭礼行事として 毎年4月8
日に近い日曜日に「本祭り」、その前日に「宵祭り」が行わ
れる。

二輌の囃子車と神児車、各組のシンボルである「ダシ」(馬
簾)、笹踊りが勢揃いし、御神体である獅子頭を中心に八
幡社からお旅所の天王社までを行列で往復する。笹踊り
の囃子方「ヤンヨウガミ」が笹踊りの歌に合わせて、ところ
構わず「うじ虫」のように寝転がることから「うなごうじ祭」と
呼ばれるようになったとも言われる。(諸説あり)
写真は、八幡社前に留め置かれる二輌の大山車(おおや
ま)で行われる「かくれ太鼓」は、唐子衣装を着た中学生の
稚児が笛や小太鼓に合わせて首を振りながら踊る。初め
てみる人の中には稚児を人形と見間違える人もいるくらい
だ。神児車などで舞われる「神児舞」は巫女風の衣装を着
た男子が行うという全国的にも珍しいものある。また、「笹
踊り」はこの地方に伝わるもので、唐子衣装を着た3人の
踊り手による太鼓舞であり、その起源は朝鮮通信使の影
響とも言われている。・・・豊川市観光協会HPから引用
     
清水弘法大師<豊川市下長山町>
河岸段丘の中段を縫う街道沿いに湧き水がでる場所を
多く見ることができる。住民の生活の水、旅人の喉を潤す
水で貴重なものである。水を大切に扱うため、弘法大師伝
説と結びついたと思われる。 牛久保町の国指定・天然記
念物のナギ近くにある
  五社稲荷社<豊川市小坂井町>
始まりは明暦年間(1656年頃)と伝えられているが、古文書
によると伏見稲荷大社から文政十三年二月(1830年)正式
勧請し五社稲荷社と称され今日に至っているとされる。
・・・五社稲荷社HPより引用
豊川の河岸段丘上、弥生時代後期住居跡の欠山遺跡の
一部にある。左の本殿側が小高くなっている。鳥居の右に
市道があり、牛久保町、古宿町まで道が続いている。鳥居
の後方に湧き水が出る池がある。岬のように豊川に突き
出た地形で、渡し場の可能性が大と推測される。
     
大城山龍徳院<豊川市小坂井町>
曹洞宗寺院で、1586年に川出宮内大輔良政によって開
基された。境内全部が東三河の統一を目指す松平元康に
よって築かれた、糟塚砦跡である。堤や堀はその当時のも
のという。・・・豊川市HPから引用
この門前の右(東)から小坂井台地を下る坂道となり、到達
点は五社稲荷社の鳥居前となる。西に飯田線があり、線
路西は宿町という地名から中世時代の渡津宿の一部と推
定される。
  式内・兎足(うたり)神社
<豊川市小坂井町宮脇>

菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)を祭神として、白鳳
15年(686)に創立。
 稲の豊作を願った「田まつり」、風に対
する信仰を寄せた「風まつり」が行われる。風まつりの際に
販売される「風車」は郷土玩具として多くの人が買い求め
る。・・・豊川市観光協会HPから引用
古来、兎足神社の祭礼には、猪の生贄が供えられていた
。「今昔物語」では、三河国司・大江定基が残酷な生贄の
有様をみて出家し、唐に留学し、寂照法師となったことが
書かれている。・・・豊川市教育委員会説明版により引用
     
風祭のシンボル・風車<兎足神社>
4月第2土・日曜日に行われる例大祭 「風まつり」を
イメージした風車。
  柏木の浜・志香須賀の渡し跡
<豊川市平井町>

柏木の浜は、古代東海道の時代から豊川(旧名:飽海川)
の渡船場として知られ志香須賀の渡しの対岸は豊橋市牟
呂町板津であったと伝えられている。「柏木」とは、「舵あげ
」の転じたもので船の発着場である。当時の豊川は、推定
約4q川幅と海に近く風波が強い難所で増水や強風で何
日も待たされたという。このため承和二年(835)の太政官
符で渡船が二艘から四艘に加えられた。
古代の街道は、約16q毎に駅家(うまや)が設置され乗換
用の駅馬(はゆま)が置かれていた。初期の街道概要は不
明であるが、平安時代の延喜式では、三河国に鳥捕(とと
り:岡崎市矢作町)、山綱(岡崎市山綱町)、渡津(豊川市
小坂井町)の3駅が置かれた。渡津駅(宿)を出た旅人は
渡し船で豊川を渡り、対岸(豊橋市)飽海、関屋、城海津、
板津あたりに上陸し、高師山を経て猪鼻駅(新居町)に向
かった

渡津駅があった位置は明らかでないが、豊川の流路の変
化によって位置も変わったと思われるが平井から篠塚付
近の間に位置していたと推定される。
・・・豊川市設置説明板より引用
左蘭に続く
続き 
やがて、広大な豊川も中洲等の形成が拡大し、島々が相
接して陸地化し、水脈は南岸(左岸)に残った本流の他に
数本の細流が残る状態になり、細流には早く架橋された。
本流以外は、陸上を通ることになった。渡津の今道は、お
そらくそれを意味するのであろう。本流の架橋時期につい
ては史料がないが、「宴曲集」(明空撰・巻四、海道)に新
今橋云々とあり「宴曲集」の成立時期を勘案すると正応四
年(1291)頃の改築と推定できる。
橋の新設時期として、承久の乱に大軍を率いて上洛し、そ
の後は探題として京に滞在し京・鎌倉間の迅速化を痛感し
た北条泰時が執権となった貞応三年(1224)頃とも推測
できる。・・・豊橋市史第一巻(昭和48年発行)から引用

<十六夜日記(抄)(弘安二年1279)
 日は入りはてて、なほ物のあやめわかる程、渡津
(わたうど)とかいふ所にとどまりぬ。
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 日は沈んでしまって、でもまだ物の形は見分けられるほどの時刻に、渡津(わたうど)とかいう所に着いて泊まった。