豊川市(旧音羽町)の鎌倉街道 
 鎌倉街道は、岡崎市鉢地町から旧音羽町長沢に入る。 長沢は、標高200m前後の里山の中を進むことになる。「三河の古道と鎌倉街道」の
著者の武田さんは、旧街道は大正時代まで採材や狩猟、そして鉢地への近道として利用されていたが、昭和の時代から使われなくなったという。
その結果、山間は街道の姿が残されているが、出入り口の部分が分からなくなってると記されている。 「平安鎌倉古道」は、武田さんのルートと
武田さんが建立した石碑について記述があるが、里山の南外周が鎌倉街道と図示しているが、根拠等具体的な説明がなく、調査研究の術がなく、
武田説を調査検討した。
入口が不明であることは、遠方の私にはかなりハンディーがあった。 平成19年8月に宮路山経由で赤石神社まで歩いたが、長沢の里山の裾を
さ迷い歩き、日暮れの中を不安な気持ちで中断し国道一号線、名鉄本宿駅まで歩いた記憶がある。 前回作成したホームページで、この部分は
不明と書けなく、通過となっている。 先のページで書いているが、今回、腰を据えて調査する覚悟で臨んだが、手がかりがなく、さ迷い歩いている
途中で落合さんを見かけ、藁にもすがる思いで街道の話をお聞きし、情報をいただくとができ、幸運にも山の中で武田さん建立の石碑と道筋を
発見できた。 赤石神社置宮(元宮)の位置についても図示した資料がなく大祭当日に参拝し、参加されている地元の方にお聞きして、何とか
現地確認することができた。 これらの場所を結んだ線は、証明できる証拠はないが、坂上田村麻呂伝説の大鰻がいた池跡、鰻の呪いを封じ込
めるため諏訪大明神を勧請した赤石神社置宮(元宮)、武田さん建立の石碑の位置が直線で結ぶことができることから、街道遺構と推定できると
思う。 先述の参考図書でも、明示されていないが、報告・公表することで多くの方の目に触れ、関心を持つていただきたいと希望している。
 
     
大鰻伝説の池跡<豊川市長沢町西千束
延暦年間(782〜805)、坂上田村麿が東国の蝦夷征伐の
帰途、当村を通過したとき、里人の頼みにより古池の大鰻を
退治した。 その祟りを恐れた里人達に建御名方
(たけみなかた)
命を祀れば後難はないと教えたので、その指示により、古沼に
近い丘の上に一社を造営し建御名方命の神霊を祀ったのが
赤岩神社の起こりとされている。  今でもこの地を置宮といって
いる。 その後、領主の命令で数千束の松葉を伐り出し、沼に
投げ入れ埋め立てて耕地にした。 
・・・音羽町史第6編民俗 2伝説から引用

参考
 建御名方命は諏訪大社上社の主祭神。 軍神、農耕神、狩猟
 神、風の神として崇敬されている。
 
  まんぷく食堂跡<豊川市長沢町西千束>
大鰻伝説の池を埋め立てた時に、その跡に小さな塚を建てた
という。 まんぷく食堂のできる前に、一本の松の木がある塚
らしきものがあったが、それが鰻塚だとも伝わる。
・・・音羽町史第6編民俗 2伝説から引用







     
推定街道遺構と古跡東海道碑<豊川市長沢町西千束
「平安鎌倉古道」<尾藤卓男著:平成9年10月発行>で、碑及び
武田説の街道遺構の記述があるが、写真及び図示はない。
尾藤さんは、赤石神社から田地を南西に進み鉢地町菖蒲ケ入、
そして菩提寺に向かう説である。 一連の里山の中を進み遠回り
になる等で賛成できない。 大鰻伝説の池跡や赤石神社置宮の
位置がほぼ一直線になる、この街道遺構を古代から中世の街道
遺構と推定したい。
なお、武田勇さんは、「三河の古道と鎌倉街道」<昭和51年6月
発行>の中で石碑について、何も書かれていないのが不思議で
ある。
  古跡東海道碑<豊川市長沢町西千束
「三河の古道と鎌倉街道」著者の武田勇さんが昭和50年に建て
た石碑。 裏に昭和50年の文字がみえる。
武田さんは、矢作町在住であったが、生誕地が当地で自分の山
に建てた。 
 なお、この里山の中には猪が生息しており、地面を
掘り返した跡がいたるところにある。 危険でもあり、今回は場所
については、明記しない。



     
赤石(あかいわ)神社置宮(おくみや)<豊川市長沢町東千束>
延暦年間(782〜805)信濃国の諏訪大明神の分霊を勧請し、赤石
の地に奉斎された社である。


  赤石神社<豊川市長沢町日焼>
永仁年間(1293〜1298)、讃岐の住人・番場太郎致由が当地を
領し
登屋ケ根城を築くにおよび守護神として現在地に社殿を
造営し、遷座される。  もとは諏訪大明神といっていたが、文政
二年(1819)四月、地名の赤岩を採用し現社号に改称される。
     
諏訪大明神の提灯<赤石神社>
例大祭(10月第一土日曜日に開催)当日の入口。





  関屋交差点<豊川市長沢町関屋>
赤坂の旧記によると足利将軍義持の時、赤坂の今の道を開くと
ある。 また応永十五年(1408)「幕府諸国に関所の制を定む」と
あって、赤坂と同じく長沢にも新たな通路が開かれ、狭隘の地・
長沢に幕府にてによる関屋が設けられたようである。 関屋建設を
推測できるのは、足利将軍義教の富士紀行の歌に
<道ひろくをさまれる世の関口>はとあり、専ら三河長沢の関屋の
ことであろうとされる。 ・・・三河の古道と鎌倉街道P165引用
     
長沢フロノ下の猪垣<豊川市長沢町小沢>
猪などから田畑の被害を防ぐために、江戸時代中期以降に石を
積み上げて造られた石塁で、高さは約1.5m程、周囲が250m以上
ある。
  ・・・市指定有形文化財
  小渡井桝井戸(こわたいのますいど)<豊川市長沢町西切山>
聖徳太子が宮路越えのとき、清水を所望された。 近くの岩間に
枡のような井戸があり 水が湧き出ていた。 太子はその清く冷た
い水に感動し小渡井枡井戸と名付けたという。
     
浄瑠璃姫腰かけ石・猿岩<豊川市長沢町御城山>
三河の国矢矧(やはぎ:現岡崎市)の浄瑠璃姫が、源義経を慕って
後を追って長沢まで来たが追いつかず、石に腰かけて途方にくれて
いたという。 この石を「腰かけ石」と呼び、小渡井の枡井戸 と道路
を挟んだ向かい側にある。 ガードレールと
 獣避けのフェンスがあり、
更に草に埋もれており見つけずらい。 探したが分からなく、宮路山
入口で山林作業中の方を見かけ、教えていただいた。 一旦戻る
ことになったが、地元の方も現地で説明していただけ、発見できた。
この場所は、HP「東三河を歩こう」で知りました。 また画像もフェン
ス越に撮影しにくく、草で覆われているので「東三河を歩こう」のHP
に申請し使用させていただいています。
http://www.net-plaza.org/KANKO/index.html 
  猿岩<豊川市長沢町>
腰かけ石から更に宮路山に向かって行く途中に洞穴がある大きな
岩があり、姫がここまで義経を慕って来ると、洞穴から猿が出て
きて、「もうあきらめて帰りなさい」という。 思案の未、姫は泣く泣く
矢作に引き返したといわれ、この岩を「猿岩」という。
中央の岩が顔に見えます。
     
宮路古道切通し<豊川市赤坂町>
古代・中世の時代から東海道(古道)の「宮路越え」の通路になって
いた。 応永20年(1413)、現在の東海道ができて、この宮路越え
はなくなった。
<現地設置の豊川市教育委員会案内看板>引用
 
関屋の歴史等により、中世東海道の鎌倉街道は応永年間に江戸
時代の東海道筋に移行していたことになる。

宮路山登山口の第一駐車場横の登山口近くにある。
  宮道天神奥ノ院<豊川市赤坂町>
日本武尊東征のとき、第三皇子建貝児(たけがいこ)王を当地に封じ
られた。 宮路別
(みやじわけ)祖であって御子宮路宿祢速麿は県主
(あがたぬし)となり、子孫は引き続き在住し、その祖「建貝児王」を祭祀、
宮道天神の起源であると伝える。
大宝二年(702)草壁皇子の母である持統上皇は三河御幸の際に
宮路山に頓宮を造営され、跡地に草壁皇子を祀ったのが嶽大明神
(宮路天神)の起源とする説もある。 中世、宮道天神は嶽大明神に
合祀された。 明治13年社号を復旧して宮道天神社と改称した。
・・・音羽町史より引用
     
宮路山の紅葉<豊川市赤坂町>
宮路山 の頂上へ続く北斜面一帯は「ドウダン」と呼ばれる「コアブラ
ツツジ」の群生地で、豊川市市指定天然記念物になっている。
秋になるとコアブラツツジ(ドウダンツツジ)だけでなく、山全体が紅
葉に包まれ、自然遊歩道、森林浴等々、ハイキングコースとしても
賑わいを見せている。
<十六夜日記>三河路 ー 二村山より渡津まで(2)
 廿一日 八橋を出でて行く。 日いとよく晴れたり。 山もと
 遠き原野(はらの)を分けて行く。 昼つかたになりて、
 紅葉いと多き山に向ひて行く。  風につれなき紅、ところ
 どころ朽葉に染めかへてける。 常盤木
(ときはぎ)どもも立ち
 まじりて、青地
(あをぢ)の錦を見る心地して。 人に問へば
 宮路の山とぞ言ふ。
 
<時雨れけり染むる千入(ちしほ)のはては
   又紅葉色かへるまで>

この山までは、昔見し心地する。 頃
(ころ)さへ変わらば、
 
 <待ちけりな昔も越えし宮路山同じ時雨(しぐれ)
  めぐりあふ世を>

<解説>・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 昼頃になって、紅葉の大変多い山に向かって行く。 風にも散らず
枝に残った紅葉はところどころ茶色に枯れかかっている。 その中に
常緑樹も混じった様子は、青地の錦を見るようである。 人に聞くと
「宮路の山です」という。
<時雨はよく降ったことだ。紅葉を千回までも色濃く染めたうえ、その
色があせて青地の錦に見えるほどに>
 この山までは昔来て見た覚えがある。季節も同じ頃だったので。
<待っていてくれたのだね。昔も私が越えた宮路山よ。 当時と同じ
 時雨の頃、めぐり逢う運命を>
  宮路山山頂<豊川市赤坂町宮路>
標高361mの頂上からは、三河湾や東三河平野が一望できる。
西暦672年7月、天智天皇の皇子・大友皇子と皇弟・大海人皇子
が皇位を巡り争った壬申の乱がおきた。 その時、草壁皇子が
宮路山・嶽ヶ城に陣を構えたと伝えられている。 山頂には、持統
上皇
がこの地を訪れたと伝られることを顕彰して宮路山聖跡碑が
大正5年建てられた。 
(平成28年11月16日撮影)





 
 






*** 参 考 ***
阿仏尼は、(二十歳頃)仁治3年(1242)の十月、引馬(浜松市)あた
りにあった養父・平度繁遠江守の家に下った。 そして十一月に帰京
する。 この紀行文が「うたゝねの記」の後半である。 この時は、豊川
宿経路であるが、十六夜日記は渡津宿経路に変わっている。 阿仏尼
にとって初めての経路であった。

     
宮路山登山道<豊川市赤坂町>
宮路山古道切通しの西方、長沢への道は一本しかないが、
赤坂からの登り道は5本あり、古代〜中世の街道はどれか
定かでない。しかし宮路天神社里宮を通るこの坂道が古代か
ら中世の街道とする説が有力である。
 
  宮道天神社里宮<豊川市赤坂町宮路>
山麓の拝殿は元亀二年(1571)松平右京亮の創建である
が、今の拝殿は元禄8年(1695)に再建したものである。

・・・音羽町史より引用<07.11撮影>
     
雨乞い祭<豊川市赤坂町宮路>
江戸中期の干ばつの時、当時の赤坂の宮道天神社神官が
百万遍の大念仏を修め祈願したところ、大雨が降ったことか
らこの名がある。
呼び物には地元の青年が花魁や武士、娘などに扮した歌舞
伎行列、これに続くおはやしを乗せた山車、神輿渡御等があ
り、旧赤坂宿 の街を練り歩く。 8月第3土・日曜日
・・・07.08撮影
  長福寺<豊川市赤坂町西裏>
長福寺は浄土宗の寺院で、山号は三頭山。 三河の国司大江
定基との別れを悲しんで自害した赤坂の長者の娘力寿姫の菩提
を弔うために建てられた寺である。  本殿裏の墓地奥の山中に
力寿姫の墓がある。


    <東関紀行>三河路ー赤坂の宿と大江定基の出家のこと
 矢矧という所を立ちて、宮路山を越え過ぐるほどに、赤坂
という宿あり。 ここにありける女ゆゑに大江定基
(おおえ
さだもと)
が家を出でけるも哀れなり。 人の発心する道、その
縁一
(いつ)にあらねども、あかぬ別れを惜しみし迷ひの心を
しもかへし、真
(まこと)の道におもむきけん。ありがたく覚ゆ。
 
<別れ路(ぢ)にしげりもはてで葛の葉の
  いかでかあらぬ方にかへり>

<解説は下欄参照>
 
力寿姫の墓<長福寺>
  <東関紀行><解説>・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
矢矧という所を出立して宮路山を越えていくと、赤坂という
宿がある。 ここにいた女性のために大江定基が出家したと
いうことも感慨が深い。
人が発心することは、その契機は一つではないのだが、名残の
つきない別れを惜しむ迷いの深い心を一転させて仏道におもむ
いたということは、すばらしいことだと思う。
<別れ路(ぢ)に恋人と別れるべき心の迷いが、さらに深くなる
ことがなくて、一面に生い茂る葛の葉が思いもかけぬ方向に翻
(ひるがえ)るように、どのように仏の道に心が向いたのであろう
か。>

     
杉森八幡社<豊川市赤坂町西縄手>
祭神は天照大神、誉田別尊(ほんだわけのみこと)、大鷦鷯尊(おおさぎの
みこと)
、息長足姫尊(おきながそくひめのみこと)である。 持統上皇三河
御幸のときの頓宮か、その近くに八幡宮を勧請したと思われる。
左のニ本の大木は推定樹齢約千年の楠で根株が一本化しており
「夫婦楠」と呼ばれている。
(市指定天然記念物)・・・境内の説明版より引用
 
  関川神社<豊川市赤坂町関川>
長保3年(1001)、三河国司大江定基の命をうけた赤坂の長者
宮道弥太次郎長富が、楠のそばに市杵島媛命を祀ったのが始め
と伝えられている。 従来は、弁財天と称してきたが明治の神仏
混淆の禁令によって関川神社と称するようになった。 境内の
クスノキ は推定樹齢800年で、 昭和56年3月1日豊川市指定天然
記念物。 また、鳥居のすぐそばには
 「夏の月 御油より出て 赤坂や」  の松尾芭蕉の句碑がある。
     
古赤坂宿<豊川市赤坂町丁田>
音羽川に架かる関川橋。 「三河古道と鎌倉街道」では橋の右側の
字丁田が最初の赤坂宿があった場所という。 鎌倉街道は関川
神社付近から、この付近で途河し、右の岡の中腹に赤坂小学校が
あり、その右(東)の字東山から右折、名鉄に並行する形で西明寺
付近、本野原(現在の豊川市穂ノ原)に向かった。 
橋周辺が承久の乱の古戦場であった字落合である。
 <海道記>四月九日、赤坂・豊河
九日、矢矧ヲ立
(たち)て赤坂ノ宿ヲ過グ。 昔此(この)宿ノ遊君、
花齢
(くわれい)春コマヤカニ、蘭質(らんしつ)秋カウバシキ者アリ。
かおばせヲ藩安仁
(はんあんじん)ガ弟妹ニカリテ、契ヲ参川吏
(みかわのり)
ノ妻妾(さいせふ)ニ結ベリ。 妾(せふ)ハ良人(りょうじん)
ニ先(さきだち)テ世ヲ早(はやく)シ、良人ハ妾ニ後(おくれ)テ家ヲ出
(いづ)。 シラズ利生菩薩(りしょうぼさつ)ノ具現シテ夫ヲ導
(みちびき)ケルカ、又シラズ円通大師ノ発心シテ妾ヲスクヘルカ。 互ノ善知識大イナル因縁アリ。
  以下略                   
<解説は右欄参照>
  元旅籠大橋屋<豊川市赤坂町>
280年ほど前の正徳6年(1716)に建てられた旅籠で、旧東海道・
赤坂宿の佇まいを今に伝えている。 
2015年3月で営業を終了し、
豊川市に寄付され改修中である。 (平成28年11月27日撮影)



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 豊川市(中心部)の鎌倉街道
平安時代までの東海道は、国府付近から渡津駅・宿(小坂井町)で豊川(とよがわ:飽海川)を志香須賀で渡り、高師、遠州浜名湖に進んでいた。 
しかし鎌倉時代初期から約百年間、平安海進(海面上昇)等により渡河地点が上流に移動した。 このことにより街道も国府付近から国分寺跡、伊知多
神社、本野ケ原、豊川宿と丘陵の裾野に移動している。 古代から東海道の副路線である姫街道があるが、市史や参考資料に書かれていなく、姫街道
が利用されていない理由は不明である。 わずかに三河総社や国分寺跡近辺にあった条理地に洪水の痕跡が残されていたとあり、姫街道の通行に大
きな支障があったと推定される。
東三河の古道と鎌倉街道P180に<豊川宿(古宿町とされる)から豊川を渡るが、河岸段丘を北に下り、三明寺前付近に出て、渡船に乗るが、渡船場の
位置は不明であるとしている。 また、左岸(東岸)のどこに着いたかも史料がなく新編豊川市史等では不明とし、「東三河の古道と鎌倉街道」は弁慶塚が
ある本坂(姫)街道和田西、「平安鎌倉古道」は浪の上町矢口とする等諸説ある。 当時の流路や自然堤防等の状況が不明であり断定できないので下図
では、可能性のある渡河地点を赤い線で示した。
なお、海道記では渡河後、しばらく歩いて、ようやく夜明け時となり、薄明りの山の景色を幻影的に書き留めている。 (原文には山の名が書かれていない。
が、東三河の古道と鎌倉街道P185で豊川宿の夜中起きの時間と距離から石巻山を西方から見た景色と推定している)
私が歩くため、豊川左岸(東)の河岸段丘の中段を街道遺構と想定し、並行している牟呂用水沿いに現地調査したところ、(小倉橋から約1キロ、三上橋
から約3キロ南の)石巻本町字桑原で河岸段丘が途切れ、初めて石巻山が見える地点を確認した。
       ***海道記の文と写真は豊橋市のページで掲載***
史料がないので、これらの推測を繋ぎ合わせることになるが、海道記の作者は先の桑原から戻り、しばらく歩いた場所となる上流の当古町から三上町
までの間で渡河したと思慮できるが、渡河地点がどこかと特定することは史料がなく断定できない。 豊川市の柴田晴廣さんに、多くの情報を教えていた
だいたばかりでなく、現地もご案内いただきました。 市外の私には知りえない場所が説明できたと自負しています。 ここに厚くお礼申し上げます。
柴田さんのホームページ<穂国幻史考>です。
 
     
芭蕉句碑<豊川市八幡町字日影>
  かげろふの我が肩に立紙子哉ばせを翁
(かげろうの我が肩に立つ紙子かな  芭蕉翁)
寛保三年(1744)十月、俳聖松尾芭蕉五十回忌の際に国府の俳人
米林下(べいりんげ:小沢才二)が建てたもので東三河最古という。
江戸時代建立であるが、東海道や姫街道が近くを通るのに平安・
鎌倉街道の経路に建てられている。
  西明(さいみょう)<豊川市八幡町寺前>
平安時代、三河守大江定基が愛妾「力寿姫」と死別し、世の無常を
感じ、草庵を結び六光寺と名づけ、天台宗の寺院としたのが始まり。
定基は都に帰るにあたって、愛染明王一体を残した。 その後、荒廃
したが、鎌倉時代、執権北条時頼が出家し、諸国巡歴のおり、当山
に寄り、再興して臨済宗最明寺と改めた。 
     
船山古墳<豊川市八幡町>
国府駅近くにある、全長91Mの東三河最大の前方後円墳である。
古墳時代中期の築造とされている。 頂上には、古墳の遺跡
(説明なし)と隣には上宿神社が祀られている。 
 西側に古墳の
遺物らしきものがあったが、現在は工事中の状態で樹木が伐採
され何も残されていない。
  久保古墳・久保神社<豊川市久保町>
姫街道上宿交差点から東170mの久保東部市民館の南に位置
する。 境内は、古墳時代後期(約1,400年前)の群集墳であるが、
現在は久保古墳一基のみが確認されたという。
永正4年(1507)11月の棟札に若王子御宝殿とあり、社伝に大江
定基時代に創建された古社であると伝えられている。
     
三河国庁跡<豊川市白鳥町>
三河総社と徳源寺にまたがる地区は、平成9年度から発掘調査が
行われ、上の案内図の国庁跡が確認された。 国庁の周囲に
関連施設が作られ、全体を国府(国衙)と呼称される。
  三河総社<豊川市白鳥町>
奈良時代、国司は国内の神社に参拝する慣わしとなっていた。
やがて、全ての神社を廻るのが大変なため、神社を一つにまとめた
(総)社を国府の近くに造り、1か所で参拝する役目を終えることとした。
     
街道遺構<総社境内>
総社拝殿西に残る街道遺構の入口部分 






  万葉歌碑総社境内
妹も我も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
高市連黒人が大宝二年(702)の持統上皇の三河御幸に従篭した
時に詠んだもので、日本最古の和歌集である万葉集にみられる。
「あなたもわたしも一つだからだろうか。三河の二見の道から別れる
のがつらいよ。」と訳される。
二見の道とは古代において御油付近から東に分岐し、本坂峠を越え
浜名湖北岸へと通じる近世の姫街道と同じ道筋と指定されている。
・・・石碑(2014年3月建立)左の案内版引用
**訳は万葉集入門<解説 黒路よしひろ>から引用**
 
     
上ノ倉遺跡<豊川市八幡町>
国庁跡のある白鳥台地と国分寺跡等がある八幡台地は二つの
台地に分かれ、その狭間を姫街道が通っている。 台地間を連
絡する堤防上の高まりが平成8年度から発掘調査され古代末期
(12世紀初め)には構築されたものであることが判明した。 構築
の目的は、はっきりしないが国府と国分寺等を結ぶような位置に
あり、道路としての役割を果たしていたとも考えられている。
現地は区画整理事業で都市公園となっており、上記説明版のみ
が設置されているが分かりやすい。
  八幡宮<豊川市八幡町>
上ノ蔵遺跡と西古瀬川を挟んだ対岸にある。 白鳳年間(7世紀
半ば)、大分県宇佐八幡軍宮から勧請されたと伝わる。 奈良時代
に入り、三河国分寺が造営されると、鎮護の神となり崇敬を集めた。
現在の社殿は、文明9年(1477)の建立で明治40年に国の重要
文化財に指定されている。
 

     
お祭弓<八幡宮>
戦国時代に徳川家康の予備軍として、百姓、町人が弓を引くこと
を許された三河地域は、江戸時代から「勧進的」という射会が
開催されている。 神社境内には、弓の稽古に欠かせない矢場が
あり、日置流雪荷派、日置流印西派、大和流など、其々の矢場
の師匠が代々継承し、その流儀にそって弟子を育ててきた。
祭礼の朝、伝統の古式にしたがった「お祭り弓」の形式で初
が行われる。 お祭り弓とは、神社を中心とするその村落共
同体の五穀豊穣、村中安全、無病息災を願う祭礼に際し、金的を
射止めることにより、その厄難を取り除くことにある。
 直径一寸八分の金的の裏には「鬼」という文字が刻まれ、悪霊
とか災いを象徴的に表している。 射止められた矢の刺さったまま
の的は神社の本殿で、神官によるお祓いの後、祝的(しゅうてき)
といわれる矢を抜く儀式が行なわれ、金的を射止めた者には主催
者である神社から、額代と呼ばれる報奨金と褒美が出される。
この額代で翌年の祭礼に、何流の、誰の門人であるのか書かれた
本人の名前の入った的中額を奉納し、神社の境内に長く掛けら
れる。 これは弓引きにとって大変名誉なことである。 通常、的中
額を奉納し神社にかける事のできるのは、正規に伝わる師匠と、
その門人に限られる。
・・・HP弓祭から引用
<射小屋に適中額が奉納・掲示されている>
 
三河国分寺跡<豊川市八幡町>
八幡宮の東に180m四方の伽藍地(寺の敷地)跡の空き地がある。
要所に築地塀や金堂跡の説明版があるが特別なものはない。
中央の藪の中に塔の礎石2基が残されている。右遠方は、三河
国分寺跡の一画にある国府山国分寺の建物である。
















     
国府山国分寺<豊川市八幡町>
国分寺金堂跡にある曹洞宗寺院。創立は奈良仏教隆盛の時、
第45代聖武天皇の勅願で東大寺を総本山として諸国に国分寺が
建てられた。 三河国分寺は、天平9年(741)2月2日に建てられた
が、その後、焼失にあった。永正3年(1506)3月、西明寺中興
二世機外和尚が再興し、今日に至る。 発掘調査により、180m
四方の寺域が確認されている。  国分寺に平安時代作成の銅
鐘があり、国の重要文化財に指定されている
  国分尼寺跡<豊川市八幡町>
国分寺から東北約3百mの位置にあるが、県道を横断し民家の
中の道を進む。 狭い集落の中の道であるので見通しが悪く、
事前に地図等で調べるとよい。 国分寺と同様、第45代聖武
天皇の勅願で全国60余か国に建立された一つ。 約150m
四方の敷地に本尊を安置した金堂、尼僧が勉学した講堂、南
大門跡が発掘・確認された。 正面の建物は、再現された中門で、
周囲に説明版が設置されており、わかり易くなっている。 中門
左奥の緑は、「踊り山」と畑を手入れしていた婦人に教えていただ
いた。 また、左後方に市立の「三河天平の里資料館」があり、
古代の歴史を学ぶことができる。
     
伊知多(いちだ)神社<豊川市八幡町>
街道は国分尼寺跡裏山の踊り山付近から伊知多神社あたりの山
裾に出、一面の野原であった本野ヶ原(穂の原)を通り抜けたという。
 
  青龍山松永寺(しょうえいじ)<豊川市市田町>
天正元年(1573)開基されたといわれる曹洞宗総持寺派
松永寺。正面の建物が弘法堂、本堂は右にある。鎌倉街道
推定線の近くにある。
     
鳥居強右衛門(すねえもん)勝商公木像<松永寺弘法堂>
1575年(天正3)5月,織田信長・徳川家康連合軍が、3000挺の
鉄砲隊で当時最強を誇る武田 軍の騎馬隊を破ったことで知ら
れる長篠の戦い。 長篠城が落城寸前の時、城主奥平貞昌の
命により 敵の囲みを突破して岡崎の徳川家康に援軍を求めに
行った鳥居強右衛門勝商(かつあき)(豊川市市田町出身)。
家康に危急を告げた強右衛門は、一刻も早く吉報を知らせよう
と夜をついて引き返し、「援軍来る」とのろしをあげたが,武田軍
に捕らえられてしまった。 敵将武田勝頼は「援軍が来ないから
降伏するように告げよ」と命令したが、強右衛門は、従ったふりを
しながら 「2,3日のうちに援軍が来る」と城中に向かって叫んだ。
城中には喜びの声が上がったが、強右衛門は磔の刑にされた。 
鳥居強右衛門の生誕地に位置する松永寺の弘法堂に鳥居強
右衛門勝商公の御木像安置所がある。
 
  曹洞宗本国山玉蔵寺<豊川市本野町>
曹洞宗の寺院で本国山玉蔵寺の門前である。本野町東浦
交差点の西南近くにある。
    <海道記>
 かくて本野ケ原を過ぐれば、嬾(ものう)かりし蕨は春の心おひ
かはりて、人もをらず、手を己
(おのれ)がほどろとひらけ、草わか
き萩の枝は秋の色疎
(うと)けれども、分け行く駒は鹿の毛に見ゆ。
時に、日、鳥山
(てうさん)に隠れて、月、星纏(せいてん)に露(あらは)
なれば、明暁(みやうげう)をはやめて、豊川の宿に泊りぬ。

<解説>・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
こうして、本野ケ原を過ぎると、春には若かった蕨は既に成長し、
人も折らず、握り拳のようであった手をほどろと開き若い萩の枝には
秋の色は未だ薄いが、それを分けて行く馬は鹿毛
(かげ)のように見
える。 ちょうどその時、太陽は鳥山(裏山説もあり)に隠れ、月は星
空にはっきり姿を現したので、明朝早く出立することにし、豊川の宿
に泊まった。
 
玉蔵寺墓地整理記念誌碑<玉蔵寺本堂西>
鎌倉時代に書かれた仲風抄によると、源頼朝の命で鎌倉街道を
整備し、京よりの行程に赤坂を経て本野ケ原を通り豊川宿へ行く
とあり。 往時はこの街道村を通過し、広重の絵にも描かれし柳並
木ありて徳川家康公三遠遠征のみぎり涼を求めしと言われたる「憩
いの柳」の名残り、北浦東池のほとりに在りたるを土地改良整理
事業の節、玉蔵寺境内に移植せり。<抜粋> 
その後、枯死したという。
  <東関紀行>
本野ケ原に打ち出でたれば、四方
(よも)の望みかすかにして、
山なく岡なし。 秦甸
(しんでん)の一千余里を見渡したらん心地
して、草土ともに蒼茫たり。 月の夜の望みいかならんとゆか
しく覚ゆ。 茂れる笹原の中に、あまた踏み分けたる道ありて、
行末
(ゆくすえ)も迷ひぬべきに、故武蔵野の司、道のたよりの輩
(ともがら)に仰せて植えおかれたる柳も、いまだ陰とたのむまで
はなけれども、かつがつ、まづ道しるべとなれるも哀れなり。
<解説>・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
本野ケ原に出てみると、辺りの眺望は果てしなく、山もなく岡も
ない。 秦の都の周囲の一千里を見渡したような心地して、草も地も
見渡すかぎり青々と広がっている。 月夜の眺望はどんなにかと心
引かれる。 茂った笹原の中に幾筋もの踏み分けられた道があって、
行く先を迷ってしまいそうなのであるが、故武蔵守泰時が道筋の住民
に言いつけて植えおかれた柳も、まだその木陰に立ち寄るほどには
なっていないが、どうにかこうにか道の案内となっているには心を動
かされることだ。
     
延命地蔵菩薩堂<豊川市桜木通2>
豊川稲荷の敷地東にある延命地蔵菩薩堂。正面の延命地蔵
菩薩由緒によると約七百年前に建立された。 次いで、源頼朝公
征夷大将軍
となり鎌倉街道を整備し、京よりの行程に赤坂を経て
本野ケ原を通り豊河宿に行くとある。 また豊川雄進社古図に
よれば、本野ケ原より豊川宿に至る道は地蔵尊の祀られし、この
あたりの道あるのみとしている。
最後に、地蔵尊の元所在地は、東南東150m先とあり、左の道
が街道とは断定できないが、当地付近を鎌倉街道が通っていた
ことになる。
  豊川稲荷(とよかわいなり)<豊川市豊川町>
妙厳寺の境内に鎮守として祭られた「豊川??尼真天(だきにしん
てん)」の通称で嘉吉元年(1441)開創。 江戸時代に商売繁盛、
家内安全の神として、全国に信仰が広まる。 日本三大稲荷の
一つとして、年間数百万人の参拝客が訪れる。
(平成21年1月3日撮影)
 
     
観光案内所<豊川市西本町>
豊川稲荷駅から徒歩数分の場所にあり、観光情報などが得られる
  焼夷弾の模型<観光案内所内>
観光案内所の一区画に、不気味なものが展示してある。 第二次
世界大戦時、豊川には海軍工廠(工場)が設置されており、56,400
人が働いていた。 昭和20年8月7日、大空襲により、従業員は
もとより、学徒、女子挺身隊員など二千有余人が亡くなっている。
当時の工廠の概要も説明されており、知るべき歴史の一コマである。
     
豊川進雄(すさのお)神社<豊川市豊川西町>
進雄命(すさのおのみこと)を御祭神とする。 明治時代以前は豊川
牛頭天王社と呼ばれ、豊川村の産土
(うぶすな)の神として広く信仰
されてきた。 社伝によれば、大宝元年(701年)に豊川の右岸に
沿った元宮の地に牛頭天王を御祀りして雨乞いのお祭りを行った
のを創始として天徳元年(957年)に今の豊川西町に遷座とある。
・・・豊川雄進神社HPより引用・・・
豊川夏祭りは、豊川進雄神社の祭りであり、手筒煙火、大筒煙
火等などの行事があるが、特に煙火は400年以上の歴史を誇り、
なかでも、参道の上を電光のように走る「綱火」は、当社独特の
煙火で、県の無形民俗文化財に指定されている。
・・・市観光協会HP引用・・・
  祇園山徳城寺錫杖井戸<豊川市豊川西町>
山号は祇園山、 曹洞宗の寺院である。
本堂西奥に弘法大師伝説の錫杖井戸がある。
お堂前に設置の由来によると
弘仁13年(882)、弘法大師が諸国巡錫の途中、立ち寄り冷水
を所望されたが水の乏しい地域のため河岸段丘下の湧き水を
汲みに走り、大師に差し上げた。 大師は水の不自由な里で困っ
ていると知り、「ここを掘れば水が出る」と錫杖で地面を示された。

ここを掘るときれいな水が出て、井戸からは絶えず水が湧きだし、
枯れることがなかった。人々は、井戸を「錫杖井戸」と呼んだ。
・・・堂前の錫杖井戸の由来より・・・
     
龍雲山妙音閣三明寺(さんみょうじ)<豊川市豊川町>
三明寺は、大宝2年(702)の創建とされる。平安時代の末期、戦乱
により焼失したが、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子・無文元遷
(むもん・げんせん)が再興したという
平安時代、三河の国司大江定基が愛人力寿姫の死を悲しみ、面
影を永久に残そうと弁財天の御像を刻み納めた。 この弁財天は、
本殿内の宮殿(くうでん)に祀られており、豊川弁財天の愛称で呼ばれ
ている。 三重塔は、亨禄4年(1531)の建造で、総14.5mの柿萱(こけ
らぶき)
である。 一、二層を和様、三層を禅宗様(ぜんしゅうよう)にした
のが全国的に珍しく、三層の軒の反りなどに禅宗様の意匠が認め
られる。 ・・・豊川市教育委員会資料より引用 
  豊川宿・河岸段丘・渡船乗り場<豊川市豊川町>
三明寺西の河岸段丘。公園整備工事中であるが、背後に重機の
二倍以上の高さの段丘が見える。 
上部平面は、佐奈川の洪水で
形成された扇状地で降水等が透水し易く、扇端に集まるという。
平野部で水に乏しく、河岸段丘で清水が湧き出る豊川市の地形が
伺われる。
三明寺の南に豊川宿(古宿町と推定)があったとされる。 旅人は
宿から河岸段丘の坂道を北に下り三明寺付近から豊川渡船場
に向かった。<東三河の古道と鎌倉街道P180>
中世の豊川本流は、西岸寄りにあったとされるが、渡船場の場所
等詳細は不明である。

 <海道記>
 深夜に立ち出でて見れば、この川の流れ広く水深くして、
誠に豊かなる渡
(わたり)なり。 川の石瀬(いわせ)に落つる波の
音、月の光に越えたり、河辺に過ぐる風の響
(ひびき)は、夜の
色さやけく、まだみぬひなの栖
(すみか)には、月より外(ほか)に、
ながめなれたるものなし。
 
<知る人もなぎさに波のよるのみぞ馴(なれ)にし
  月の影はさしくる>

<解説は右欄へ>
    ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
深夜に外に出てみると、この川は流れが広く、水は深く、本当に
豊かな川の渡しだ。 川の石の多い瀬に落ちる波の音は月の光
より趣があり、川辺を過ぎる風の音は、夜の気配を感じさせ、見た
こともなかった田舎家では、月以外には眺め慣れたものはない。
 知った人もなく、この渚に波が寄せるのが見えるが、夜だけは
見慣れた月光がさして私を慰めてくれるよ
    <東関紀行>
 豊川といふ宿の前を打ち過ぐるに、ある者のいふを聞けば、
「この道は昔よりよくる方(かた)なかりしほどに、近きころ、俄
(にわか)に、渡う津(づ)の今道といふ方に旅人多くかかる間
(あいだ)、今はその宿は人の家居(いへゐ)をさえ外(ほか)にのみ
移す」などぞいふなる。 古きを捨てて新しきにつくならひ、定ま
れることといひながら、いかなる故ならんとおぼつかなし。 昔
より住みつきたる里人の今さら居(ゐ)うかれんこそ、かの伏見の
里ならねども、荒れまくをしく覚ふれ。
 おぼつかないさ豊河のかはる瀬をいかなる人のわたりそめけん
 
<解説は下欄へ>
豊川の流跡図<豊川の歴史散歩から引用>
<抜粋>
〇一宮町松原から豊橋市大村町まで流れていた松原用水の流路
 が、豊川の一つの流跡のようである。(A)
〇麻田町中村の南から谷川町にかけて広がる水田地帯から牧野町
 ・三谷原一帯のの自然堤防を取り囲み、睦美保育園の南を西に
 走る水田地帯(B)や土筒町・院之子町を囲む低地も流跡となって
 いる。 (C)
〇元禄時代の古図を見ると、向河原町は豊橋市賀茂町と地続きに
 なっており、麻生田の王林寺の裏を豊川が流れている。(D)
〇この流れは時に二葉町と麻生田町の間を南下し三上町深田西の
 古川と呼ばれている豊川の流跡と合流していたようである。
  <解説>・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 豊川という宿の前を通り過ぎる時に、ある人の話すのを聞くと、「こ
の宿場の道は昔からほかに避けて通る道がなかったのだが、最近、
急に渡
(わと)う津(づ)の今道(いまみち)という方に旅人が多く向かうもの
だから、今では豊河の宿は、人が住居までもそちらに移転する」など
と言っている。 古いものを捨てて新しい方を取るのは、この世の常の
ことというものの、どのようなわけなのかよくわからない。 昔から住
みついている里の人が、落ち着いて住むことなく移っていくことは、
あの伏見の里の例ではないけれども、ここが荒れてしまうのは残念な
ことに思われる。
 よくわからないことだなあ、今までと違った豊川の川瀬の道を
 どのような人が渡りはじめたのだろうか
     
瀬木城址・神明社<豊川市瀬木町>
永明応2年(1493)に牧野古白が 牧野城に次ぐ居城として、また、
河岸段丘の上(古宿・牛久保)ヘ進出する拠点として豊川の自然
段丘を利用して築かれた。 まもなく、波多野全慶の一色城 を
奪い、牧野城には長男能成を、瀬木城には二男の成勝を配した。
その後、城主成勝は一色城に移り、豊川の流路が変わったことも
あり、廃城となった。 本丸と思われる所は一段高くなっており、
神明社が祀られている。
  豊川と豊川放水路<豊川市行明町>
豊川の洪水を防ぐため、豊川市行明町、柑子町から豊橋市前芝町
までの全長6.6キロの放水路工事が昭和18年開始されたが、戦争の
ため中断の後、ようやく40年に完成し、長年の水害の苦しみから
解放された。 この場所は、放水路の分岐基地であり右が豊川、左
が豊川放水路である


     
羽衣の松<豊川市行明町>
豊川と豊川放水路の分岐地点にある。 その昔、一人の天女が、
豊川で水遊びしていたとき、通りかかった若者が松に掛けられた
羽衣を持ち帰ってしまった。 天女は羽衣を返してもらいたい一心
から、若者のお嫁さんとなり、子供も生まれ幸せな毎日を送って
いたが、ある日、若者が留守の間に、羽衣を見つけだし、天に
帰ってしまった。 その時、天女は葉を食べると病気が治るという
片葉の茶の実と人形を残していったと語り継がれている。
・・・左の説明版の要旨・・
  牛川の渡し<豊橋市牛川町・大村町>
かって、この地区に「三上の渡し」、「当古の渡し」、「天王の渡し」、
「牛川の渡し」と4か所の渡し場があったが、橋が架設され、現在は、
この「牛川の渡し」のみが残されている。 この渡しは、当地区に豊川
を渡る橋がないため、市道として渡しが市営で(無料)運行されて
いる。 県内でもいたるところで運行されていたが、橋の整備により、
現在は中野(旧尾西市)、塩田(旧八開村)葛木(旧立田村)等数
少なく、珍しいものになっている。 特に、このように
手漕ぎ(棹)
よる運航は珍しい。 
牛川町の乗り場は、豊橋創造大学近くにある。


 豊川宿と渡津宿を連絡する鎌倉街道
平安時代までの東海道は、国府付近から渡津駅・宿(小坂井町)で豊川(とよがわ:飽海川)を志香須賀で渡り、高師、遠州浜名湖に進んで
いた。 しかし鎌倉時代初期から約百年弱、渡河地点が上流に移動し、新しい豊川宿が登場した。 渡津と豊川を連絡する道は、住民の生
活道路であり、上流の新城市始め山間部の海への道として古くから利用されてきたと思う。
このような長い歴史の中で、渡津宿近くから豊川を渡れない約百年間弱が新旧鎌倉街道を連絡する鎌倉街道往還の時代であったと思うが、
地元の皆さんが愛着をもって鎌倉街道の遺構があるといわれる。 岐阜県や愛知県でも、鎌倉街道があったという話をよくお聞きする。
鎌倉街道の原点は、微高地や山裾等自然の地形を利用した生活道路を繋いだ道ともいえる。 どの道も、何時かは鎌倉や京に連絡するから、
各地の皆さんの鎌倉街道があるという意見は間違いではないが、全ての道を一つにまとめるには、限界がある。 したがって、ここで鎌倉街道
としてご紹介する道は、中世時代の紀行文等に登場する街道としたい。 当地区の街道は東関紀行に登場するので、探索した次第である。
     
河岸段丘<豊川市中条町>
国道151号坂下交差点西から見た花井町の河岸段丘。 段丘
中段の宅地造成(赤土の箇所)の山側に鎌倉街道往還の遺構と
なる道がある。 左手直ぐ先に花井寺、正面右手が豊川宿があった
古宿町である。
 
  延命寺<豊川市新宿町1>
普通の民家のようであるが、左の建物がお堂となっている。 詳細
は不明であるが、平安時代、三河国司・
 大江定基の3人の愛妾の
一人・岩井が住んでいたという。 お堂の裏(西)に道があり、役行者
像、庚申塚などが安置されており、当時の主要道路の雰囲気を感じた。
     
松鷲山花井寺<豊川市花井町>
千年前、三河国司・大江定基の室「花井媛」が、霊泉が涌き出て
四季の花咲く、この地に「地藏尊」を奉じて菴を結んだのが始まりと
される。 真言宗の寺院として開山したが、天文15年(1546)に
曹洞宗の寺院に改宗、現在に至る。
  花井の泉<花井寺境内>
左の霊泉と思われる「花井の泉」が境内山門近くにある。


 
     
牛久保八幡社<豊川市牛久保町>
創建は奈良時代と伝わる。仁徳天皇と応神天皇が祀られている。
一色城主・牧野成時(
しげとき、古白)が4月8日にこの神社に参拝
したおり、今川氏親
(うじちか)から現在の豊橋市馬見塚に築城を命
じられた。 喜んだ古白は、社前の柏の葉でお神酒を献じて家臣と
祝い、家紋を三ツ柏に改めた。 この時、照り映える若葉を見て
古白が詠んだ「今日若葉なりしか杉の森」の句から、当社の祭を
「若葉祭」
というようになった。・・・市教育委員会説明版から引用
  若葉祭<牛久保町八幡社周辺>
八幡社の例祭が、春を告げる祭礼行事として 毎年4月8日に近い
日曜日に「本祭り」、その前日に「宵祭り」が行われる。

二輌の囃子車と神児車、各組のシンボルである「ダシ」(馬簾)、笹
踊りが勢揃いし、御神体である獅子頭を中心に八幡社からお旅所
の天王社までを行列で往復する。 笹踊りの囃子方「ヤンヨウ
ガミ」が笹踊りの歌に合わせて、ところ構わず「うじ虫」のように寝
転がることから「うなごうじ祭」と呼ばれるようになったとも言われる。
(諸説あり)
写真は、八幡社前に留め置かれる二輌の大山車(おおやま)で行わ
れる「かくれ太鼓」は、唐子衣装を着た中学生の稚児が笛や小太鼓
に合わせて首を振りながら踊る。 初めてみる人の中には稚児を
人形と見間違える人もいるくらいだ。 神児車などで舞われる「神児
舞」は巫女風の衣装を着た男子が行うという全国的にも珍しいもの
である。 また、「笹踊り」はこの地方に伝わるもので、唐子衣装を
着た3人の踊り手による太鼓舞であり、その起源は朝鮮通信使の影
響とも言われている。・・・豊川市観光協会HPから引用
     
五社稲荷社<豊川市小坂井町>
始まりは明暦年間(1656年頃)と伝えられているが、古文書によると
伏見稲荷大社から文政十三年二月(1830年)正式勧請し五社稲荷
社と称され今日に至っているとされる。・・・五社稲荷社HPより引用
豊川の河岸段丘上、弥生時代後期住居跡の欠山遺跡の一部にある。
左の本殿側が小高くなっている。 鳥居の右に市道があり、牛久保
町、古宿町まで道が続いている。 鳥居の後方に湧き水が出る池が
ある。 岬のように豊川に突き出た地形で、渡し場の可能性が大と
推測される。

  式内・兎足(うたり)神社<豊川市小坂井町宮脇>
菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)を祭神として、白鳳15年(686)に
創立。 
 稲の豊作を願った「田まつり」、風に対する信仰を寄せ
た「風まつり」が行われる。 風まつりの際に販売される「風車」は
郷土玩具として多くの人が買い求める。
・・・豊川市観光協会HPから引用
古来、兎足神社の祭礼には、猪の生贄が供えられていた。 「今昔
物語」では、三河国司・大江定基が残酷な生贄の有様をみて出家し、
唐に留学し、寂照法師となったことが書かれている。
・・・豊川市教育委員会説明版により引用
     
風祭のシンボル・風車<兎足神社>
4月第2土・日曜日に行われる例大祭 「風まつり」をイメージした
風車。
  柏木の浜・志香須賀の渡し跡<豊川市平井町>
柏木の浜は、古代東海道の時代から豊川(旧名:飽海川)の
渡船場として知られ志香須賀の渡しの対岸は豊橋市牟呂町
板津であったと伝えられている。 「柏木」とは、「舵あげ」の転じた
もので船の発着場である。 当時の豊川は、推定約4q川幅と
海に近く風波が強い難所で増水や強風で何日も待たされたという。
このため承和二年(835)の太政官符で渡船が二艘から四艘に
加えられた。
古代の街道は、約16q毎に駅家(うまや)が設置され乗換用の
駅馬(はゆま)が置かれていた。 初期の街道概要は不明である
が、平安時代の延喜式では、三河国に鳥捕(ととり:岡崎市
矢作町)、山綱(岡崎市山綱町)、渡津(豊川市小坂井町)の
3駅が置かれた。
渡津駅(宿)を出た旅人は渡し船で豊川を渡り、対岸(豊橋市)
飽海、関屋、城海津、板津あたりに上陸し、高師山を経て猪鼻駅
(新居町)に向かった
。 渡津駅があった位置は明らかでないが、
豊川の流路の変化によって位置も変わったと思われるが平井
から篠塚付近の間に位置していたと推定される。
・・・豊川市設置説明板より引用
左蘭に続く




続き 
やがて、広大な豊川も中洲等の形成が拡大し、島々が相接して
陸地化し、水脈は南岸(左岸)に残った本流の他に数本の細流が
残る状態になり、細流には早く架橋された。 本流以外は、陸上を
通ることになった。 渡津の今道は、おそらくそれを意味するので
あろう。 本流の架橋時期については史料がないが、「宴曲集」
(明空撰・巻四、海道)に新今橋云々とあり「宴曲集」の成立時期を
勘案すると正応四年(1291)頃の改築と推定できる。
橋の新設時期として、承久の乱に大軍を率いて上洛し、その後は
探題として京に滞在し京・鎌倉間の迅速化を痛感した北条泰時が
執権となった貞応三年(1224)頃とも推測できる。
・・・豊橋市史第一巻(昭和48年発行)から引用

<十六夜日記
 日は入りはてて、なほ物のあやめわかる程、渡津
 
(わたうど)とかいふ所にとどまりぬ。
廿二日の暁、夜深き有明の影に出でて行く。いつよりも、
物いと悲し。
<住みわびて月の都は出でしかど憂き身離れぬ有明の影>
とぞ思ひ続くる。供なる人、「有明の月さへ笠着たり」と言ふを聞て、
<旅人の同じ道にや出でつらん笠うち着たる有明の月>
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 日は沈んでしまって、でもまだ物の形は見分けられるほどの
時刻に、渡津(わたうど)とかいう所に着いて泊まった。

22日の晩、まだ夜中といってよい頃の有明の月明かりを頼りに
出発する。いつもおりも何もかもひどく心細く思われる。
<住むに住みかねて、美しい月の都を出て来たが、不運なこの身を
離れずについて来る有明の月よ>
と、そんなことを考える。供の者が、「有明も我々と同じに笠を被って
いるなあ」と言うのを聞いて
<旅人の行く道に同道しているつもりなのか。笠を被っている有明月よ>