4・尾張の織物の始まり
 尾州(尾張)の織物の歴史は、奈良時代の絹に始まるとされる。 木曽川の扇状地である砂礫や水はけの良すぎる自然堤防を
桑畑に利用した、農民の副業の商品生産物として発達してきた。
しかし、絹は高級品で一般の人々は麻などを編んだ粗末な衣服を
まとっていたようだ。)
 次いで、綿が登場するが、約1200年前に西尾市に流れ着いたインド人が伝えた伝説があるが、気候などから100年程で衰退
したといわれる。 再来は、約
800年前の鎌倉時代初期に、宋の商人が伝えたとされる。 
 
 
綿祖神天竹神社
西尾市天竹町:平成19年10月28日綿祖まつりにて撮影
 
  インド人が持っていたとされる壷が、寶壷として保存されて
いる。
 

綿の木(綿祖神天竹神社
高さは約1m位に整理されています。
   左にある綿は上の装置で種を分離します。
     
種を外した綿は、鯨の髭を張った弓矢のような装置で弾いて、
ほぐされます。微風が右に流れているため、弾かれた綿が人
の右に飛んでいます
   解(ほぐ)された綿は、かせ繰りで糸にされます。
 その後16世紀戦国時代頃から、丈夫で実用的であることから普及し始めた綿織物は、江戸時代、慶安2年(1649)「農民の木綿以外
の衣料を着ることを禁止するお触書」により、一宮村で綿栽培が広がった。
 18世紀後半の明和年間(1764 )桟留縞(さんどめしま)
技術が京都から美濃地方に伝播し、文化・文政
時代(18051829)に尾張に中心が移動したとされる。
 また、同じ文化・文政時代に葉栗郡佐千原村
(現一宮市佐千原)の住民紙屋新兵衛の娘が上総(千葉県)より結城縞と高機
(たかばた)
伝えた。 結城紬は、
綿交織(けんめんこうしょく)が特徴で高い技術を必要としたが、高級品であり、上方の上流商人向けに桟留の倍
近い値段で取引された。 しかも高機は、従来の織機である織女を拘束す
地機(じばた)と比較すると複雑な織柄が出せることが可能な
上に、織女の動作が活発になり、生産性が約3倍向上したといわれ、一宮の織物を盛んにするための技術的基礎となっている。
 
   

地機
原始機・弥生機に比べ、骨組が特徴。縦糸を腰帯で引っ張り、
両手、両足を使う。
 
  高機
織子の座る位置が高いことから、この名前がつけられた。
片手と両足を使う。*左右とも産業技術記念館
 
5・最初の発展期と労働者の環境
 19世紀江戸時代末期頃、尾張部の綿織物業は、数十台の織機に10〜20人の作業員を雇うまでに発達した。 下の版画は、江戸時代
末の機屋を紹介したものである。 ここでは、8台の高機(織機)、正面奥に整経機1台、綛繰り機4台に働く織子16人が働く様子が
わかる。 技能や熟練度に応じた分業・協業といった新しい生産過程を基礎とするマニュファクチュア的経営が出現している。
作業員は、農閑期の
余剰労働力的存在である農家の婦女子が多く、当時は年季奉公人として12、13歳頃からの召使・雑用から
始まり、
二十歳頃までを期間とし、技術習得という名目で
最初に親に渡される手形金(敷金)に、盆暮れの仕着(仕事着)と毎日の
食事に対し、朝の6時から概ね夜
10時までの約14時間労働に加え、一年間のお礼奉公もある過酷な生活であった。
この人たちは、「機織りさ」と呼ばれ、明治時代にも同じ過酷な労働生活が続いた
     
 「尾張名所図絵」<結城縞機屋の図>
 出展:「現代語訳尾張名所図会」舟橋武志訳
 
ブックショップ「マイタウン」1982
    左の工場を模型化したもの
   <一宮市博物館>
信州諏訪地方の生糸工場で働いた飛騨出身の工女みねの悲しく短い生涯を物語る「ああ野麦峠」は、飛騨と信州を結ぶ野麦峠を冬に歩き
渡る情景と厳しい労働環境が重なり、印象に残っているが、当時の働く人々の条件は、先進工業国化を急ぐ国、未成熟な資本家、増加する
人口を収容できない農村などの条件から推測すると日本全国どこも同じような内容であったと思います。 
 地元光明寺で発生した明治33年の織子31名焼死事件は、このような時代におきた悲惨な事件であった。 この労働者の職場環境改善は、
やはり戦後の労働関係法の整備、労働運動の高まり、そして残念ながら労働力不足が雇用主のウィークポイントとなった時代を待たねば
ならなかった。   
事件のあらまし
明治33年1月23日午前3時頃、織物工場で発生した火事で2階に寄宿していた織子49名のうち31名が窓の格子、入り口の施錠の
ため逃げ遅れ焼死した。 織子の多くは、幡豆郡(西尾市周辺)出身であったこの悲惨な事件は、当時の繊維工場労働者の過
酷な労働条件を調査した国の報告書「職工事情」にも掲載された。 この事件を契機に、「工場寄宿舎規則」が改正されたが、
違反はなくならなかった

織姫乃碑(焼死した織子の墓碑と織姫の碑。
碑は昭和50年8月建立。場所は光明寺霊園内

事件のあった明治33年7月、葉栗郡地方の有力者を中心に義捐
金が集められ、犠牲者の最も多かった西尾市葵町に慰霊碑が
建立された(吊は、弔の通俗形という)
 江戸時代、農家が育てた綿花は、綿花と綿実に分け、農家の副業として繰綿加工後、綿商人に買い取られ、三八市を経て北陸、美濃、三河で
糸加工後、再移入し、織物材料として買い取られた。(綿実は、燈油用油?として精製された。 今でも、綿実油は高級品としてホテル、高級料理
店で重宝されています)
 明治時代、良質安価なインド綿が輸入され、これを原料とする近代的な大工場の建設・操業により、綿作及び繰綿・糸加工が衰退した。
(そのため再び、養蚕が盛んになった) 代わりに、木綿商が問屋から綛糸を購入し、糊付加工した後、農家の婦女子に賃織りさせる賃機が始
まり、木綿商は、やがて機家(はたや)と呼ばれ、織機も農家の自家用の手機以外に、機屋が織機を所有し織子に貸与して賃織させる出機(でばた)
が行われるようになり、利潤が蓄積できる段階になった。<問屋制家内工業と称される>
 これは更に発展して、機屋が自分のところに織機をおき、織子を集めて賃織りさせる織物工場となり、より生産性の高い織機を導入する素地が
できつつあったが、明治10年代後半に完成したといわれる賃機制は、発足間もなく、機屋の資本蓄積は貧弱であった。