大垣市青墓地区の鎌倉古道(街道)推定図   
 
紀行文の杭瀬宿
大垣市青墓地区は中央の青野原の水田地帯と北部に丘陵地、東部に杭瀬川を控えた限られた地域である。  しかし青野町には美濃
国分寺が建てられたり、青墓町には規模の大きな古墳が多数みられる等、豊かな地域であった。
不破の関から垂井、青野、そして濃尾平野や東山道を経由した東国との街道の結節点でもあり、源氏との深い関係がある地区である。
中世時代の杭瀬川は、現在の揖斐川本流であり大河川であったので、杭瀬宿があり、紀行文や歌の作品が多々ある。
東関紀行では、杭瀬宿に泊まり、夜中の川面に映る中秋の名月に感動し和歌一首を作っている。十六夜日記での記録はない。
     
照手姫水汲み井戸<大垣市青墓町1>
平尾神社前の赤坂垂井線を東進し、中山道との分岐点近くに中世
の仏教説話である「小栗判官・照手姫」にまつわる「照手姫水汲み
井戸」がある。
小栗判官とはぐれた照手姫は鎌倉街道の青墓宿で水汲み女として
働いていたが、閻魔大王の裁きにより、餓鬼阿弥の姿で土車に乗せ
られ熊野本宮湯の峰温泉に向けて村から村へと曳かれて行く途中、
青墓宿で小栗判官と再会したと伝えられている。
照手は、五日の暇をもらい、餓鬼阿弥姿の小栗を乗せた土車を引っ
張り、柏原・野瀬で笠掛地蔵に願をかけた後、瀬田の唐橋を「えい
さらえい」と渡り、大津関寺玉屋に行き着いたという。
  をぐりサミット開催記念樹<大垣市青墓町1>
「小栗判官物語」に魅せられた同好者・共感者がこの物語を探求し、
後の世にしっかりと伝え残そうという思いで平成3年「をぐり(連合)
フォーラム」 代表 堤正樹氏が結成された。  毎年、物語の「ゆか
りの地」で地元の方々のご協力をえて仲間が集い、情報交換・芸術
鑑賞・伝承地巡りなど活発な活動を継続。 関係者は、この集いの
ことを「小栗サミット」と名づけている。
記念樹の「なぎ」は和歌山県本宮町の木である。 小栗判官が本宮
町にある「湯の峰温泉」で蘇生したとの伝承に因む関係である。
 
     
スーパー歌舞伎 「オグリ」
梅原 猛作・ 三代目市川猿之助(現・猿翁)出演

小栗判官物語は江戸時代から浄瑠璃や歌舞伎で人気を博していた。
このスーパー歌舞伎「オグリ」は平成3年(1991)初演され、大人気
となった。
(平成10年6月中日劇場観劇会パンフレット)
 
  小篠竹の塚と照手姫の墓<大垣市青墓町2>
照手姫水汲み井戸から少し中山道を進んだ先に「小篠竹の塚」の
説明版があるが、文面は後に見えるお墓が浄瑠璃等で知られる
「小栗判官と照手姫」物語の照手姫の墓としているが詳(つまびら
やか)ならずとしている。 小篠竹の説明がないが、墓の横に見える
竹がそうだと思われる。
 
   
美濃国分寺跡<大垣市青野町>
天平13年(741)、聖武天皇は全国に国分寺をつくらせた。
美濃では、国分寺を大垣市青墓町に、国分尼寺は平尾に建てたと
推定される。  寺域二町四方の七堂伽藍を備えた祭政一致の寺で
あった。 北側に大垣市歴史民俗資料館があり、発掘物が展示され・
見学することができる。
 
  元円願寺跡と篠竹(よしたけ)の逸話<大垣市青墓町4>
風越峠の山中が通行止めとなっているので、円興寺前を流れる
大谷川沿い(東海自然歩道)を進む、岩崎神社を南に通り過ぎた
田の中に、円興寺末寺であった「元円願寺跡」がある。
源義経が奥州に落ち延びる途中、立ち寄り、一首の和歌と共に
芦の杖を挿していった跡という。
   挿しおくも形見となれや後の世に
         源氏栄えば芦竹
(よしたけ)となれ    
     
天台宗円興寺<大垣市青墓町5>
延暦9年(790)、伝教大師最燈が創建。最燈が自ら造像した
御本尊の木造聖観音立像は国指定重要文化財である。
創建当時は、東の丘陵地にあったが、天正二年(1574)織田
信長の焼き打ちにあい焼失する。 万冶元年(1658)に現在地に
再興された。
元円興寺跡に源朝長の墓、源義朝の供養塔がある。

   
  
  梁塵秘抄(りょうじんひしょう)の碑<圓光寺境内>
碑文<要旨>
梁塵秘抄とは、後白河法皇(1192年没)が当時庶民の間で
流行していた民衆歌(今様・いまよう)を後世に伝えるため、
編集した歌集である。 口伝集を含め全20巻に及び566首
の歌が現存している。

   遊びをせんとや生まれけむ
   戯れせんとや生まれけむ
   遊ぶ子供の声聞けば
   わが身さえこそ動(ゆる)がるれ

   仏は常に居ませども
   現(うつつ)ならぬぞあわれなる
   人の声せぬ暁に
   ほのかに夢に見え給う

後白河法皇に招かれ、今様歌を伝授した乙前、及び延寿を
始めとする遊女
(あそびめ)は青墓出身である。  中世以前は、
この円興寺を中心とした青墓は盛況であった。  往時を偲び
ながら、梁塵秘抄の故郷・青墓を次代に語り伝えたい。
                      揮毫 桃山晴衣(音楽家)
  
     
遊塚(あそびつか)古墳<大垣市青墓町3>
5世紀初築造の墳長80mの前方後円墳。 昭和30年代の東海道
新幹線建設工事のため古墳の土砂が搬出され跡地は住宅地に変
貌している。
近くに青墓宿の遊女屋があったことに因む名称という。   
  織田信長の一里塚<大垣市青墓町3>
天正の初め、織田信長は、清須城を元標にして勢力範囲に一里
塚を築かせた。 この信長の一里塚はあまり残っていないが円興
寺道と新田部落との分岐点(前方に見える市上水道加圧ポンプ場
の右側旧街道沿い)に、残っていたが、現在は民家が建っている。  
     
お化椿→→→白玉椿<大垣市青墓町>
粉糠山古墳を北進し東海道本線のガードを抜けた線路際に、お化
椿の跡がある。 これは、昔、多くの村人が病気に罹った時に、青
墓の古墳を掘り起こ、病気が蔓延したのは「古墳のたたり」である
ので、霊を慰めるため、当地に縁の深い源氏の白旗に習い、白椿
を植えて供養したという。 この椿は、どんどん成長し幹回り、1.3
m、高さ15mと格段に大きくなったことから「化椿」と呼ばれた。
<写真は赤い椿であり伝承と異なっている>

大炊長者と源氏との深い関係
平安後期、青墓の長者「大炊行遠」の娘は源為義(頼朝、義経の
祖父)の側室となり、乙若他3人を生んでいる。 保元の乱の3年後、
平治の乱(1159)に敗れた源義朝(頼朝、義経の父)主従八騎は
青墓の大炊長者兼遠の屋敷に逃れた。
義朝には大炊長者の娘延寿(えんじゅ:今様の名手)との間に娘
(夜叉御前)があり関係が深かった。 しかし義朝追討令は厳しく、
更に東国に落ち延びる決意をした。 重傷の朝長(16才)は逃れられ
ないと悟り、父の介錯で自害した。(朝長の墓が元円興寺にある)
義朝は杭瀬川を下り、野間内海の長田忠致を頼ったが、恩賞目
当ての長田忠致に風呂場で斬殺された。 一人娘の夜叉御前は、
悲嘆慟哭し、在世の苦悶を捨てようと杭瀬川に入水し、母娘相伝
の「今様」の一つが終焉となった。 
  源義朝公御廟<愛知県知多郡美浜町>t
知多半島西岸の鶴林山大御堂寺(通称:野間大坊)の本堂隣の
御廟。 家臣の長田忠致(ただむね)、景致(かげむね)親子に謀殺
された義朝が「我に小太刀の一本でもあれば、むざむざ討たれは
せん」との言葉を残したという。 その霊を弔い今も木太刀が奉納されて
いる。(09.08撮影)

     
史跡・昼飯大塚古墳<大垣市昼飯(ひるい)町>
この古墳は、平成21年度〜24年度に調査・保存整備された。
4世紀頃に築かれ、墳丘の長さが150m、構造が三段築成の岐阜県
最大の前方後円墳である。 畿内の大王墓に準ずる傑出した内容を
持ち,東海地方の古墳時代の政治・社会を考える上で欠くことの
できないきわめて重要な古墳である。
<上記は国指定文化財等データベース・文化庁から引用>
景行天皇の皇子(大碓皇子・大和武尊の兄)の塚と考証する説も
あるが確証はない。 しかし青墓町周辺には粉糠古墳、遊塚古墳
などが集まり当地区にかなりの有力者がいたことは確実である。
堤さんから墳丘の3段目・2段目の葺石に鉄分を含んでいること、
及び赤坂は火打石産地であり青墓地区は美濃の刀鍛冶の元祖で
あることを教えていただいた。
<参考 南宮大社HP「刀剣について」のページ
青墓は古墳が多い地区であるが、刀鍛冶の存在したことと関係が
あると思われる。
  一本松<大垣市赤坂町>
先のT字方の小さな交差点から約30m位先左(東)に藪があり、
その中に大きな松の切株がある。 樹齢7百年説もあり、旅に
病んだ人が祈りをこめたと伝えられている。
この先は、お勝山の南回りと北回り説があるが、市営斎場の
西北に西回り道がある。 
     
紫雲山安楽寺<大垣市赤坂町>
安楽寺は、岡山(海抜53m)の麓にある。本尊は阿弥陀如来,
推古天皇の元年,聖徳太子の創建と伝えられ。
岡山の頂上に壬申の乱(弘文天皇壬申難古の碑)、関ヶ原合戦
岡山本陣跡(関ヶ原合戦本陣の碑)がある。 なお岡山は、関ヶ
原合戦東軍勝利後、家康は「勝山」と名を改めたと伝えられる。  
  杭瀬川白山橋から赤坂方面の風景<大垣市赤坂町>
「平安鎌倉古道」や大垣市の資料では笠縫提から杭瀬川を渡り、
赤坂に上陸する場所として白山社(杭瀬川の左前方)の東側、この
付近と説明している。
しかし、白山社境内の由緒案内によると大洪水(1530年)から百年
以上経た後の開拓地であることから以前は河川敷きであったと推測
できる。 したがって、杭瀬宿は勝山裾野の赤坂大門付近とし渡川
場所と推定したい
赤染衛門歌集(平安時代女流歌人)
「くいせ川といふ所にとまりて、よる鵜つかふを見て」
夕やみのう船にともすかがり火を  水なる月の影かとぞ見る
    <東関紀行>美濃路ー杭瀬川にて十五夜の月を見る
 
杭瀬川といふ所にとまりて、夜更(よふ)くるほどに川端に立ち
出でてみれば、秋の最中
(もなか)の晴天、清き川瀬にうつろひて、
照る月なみも数見ゆ
るばかり澄み渡れり。 二千里の外(ほか)
古人
(こじん)の心思ひやられて、旅の思ひ、いとゞおさえがたく
覚ゆれば、月の影に筆を染めつゝ「花洛
(くわらく)を出でて三日、
杭瀬川に宿して一宵
(いつせう)、しばしば幽吟(いうぎん)を中秋三五
(ちゅうしうさんごや)の月に傷(いた)ましめ、かつがつ遠情(えんじゃう)
を前途(せんど)一千里の雲に送る」など、ある家の障子に書き
つくる序
(ついで)
  <知らざりき秋の半ばの今宵
(こよひ)しも
     かゝる旅寝
の月を見(み)とは> 
 
金生山(きんしょうざん)から見たお勝山・杭瀬川
<大垣市赤坂町>

遠方正面の緑の部分が笠縫提付近である。お勝山と笠縫提(推定
旧杭瀬川堤防)の間を大洪水以前の杭瀬川(河川敷きを含む)が
流れていた。 お勝山から渡るのが、合理的と思われる。
  <東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 杭瀬川という所に泊って、夜が更けた頃に、川のふもとに立って
出てみると、中秋十五夜の晴れわたった空が、きれいな川の流れに
映って、輝く月の光が一つ一つの数までわかるほどに澄みわたって
いる。 二千里も離れた所の旧友の気持も推しはかられて、旅の寂
しさがますますとめ止(とどめ)めようもなく感じられて、月の光をたより
に筆をとって「都を出てから三日目、杭瀬川に一夜の宿を借り、中秋の
名月に悲しい詩を詠じて、おぼつかなくも行き先の遙かな旅のことを
思いやる」などど、ある家の襖に書き付けたそのついでに、
 <思いもよらぬことであったよ。 中秋の名月の夜に、こんな
  ところに宿を借りて、旅の空にその月を見ることになるなんて> 



大垣市内の鎌倉古道(街道)推定図
 
紀行文の笠縫宿
西は杭瀬川・笠縫宿から始まり現在の大垣駅一帯は古くからの町であり、古道は入り組んだ市街地をくねっている。 街道探索は
容易でないが、今回、知人やご縁で知り合いとなった方のアドバイスがなければ、走破は不可能と思う。 東は現在の揖斐川であるが、
中世時代は小河川が乱流する湿地で板を並べた長橋の記録がある。

十六夜日記
十九日、笠縫の宿を出ていくが、夜中も降る雨の中、道がひどく悪く、歩く人も無い中、田の水面を覗くように長橋を渡り歩いている。
この地区の東関紀行の記録はない。
     
権現のぞきの地碑<河間(がま)町>
関ヶ原合戦の前哨戦段階で、大垣城の石田三成西軍が岡山
(勝山)の徳川軍を望む望楼を建てて十四日の杭瀬川の戦い
にも使われたという。  
  笠縫提(輪中堤防)<河間(がま)町>
市のホームページでは、市街地に残る古大垣輪中の一部と紹介され
ている。 地元の人の話では杭瀬川(旧揖斐川)の堤防であったという。 約200本の桜(ソメイヨシノ)があり、春には多くの花見客を楽しませる。 
正面建物は水防倉庫、少し進むと左手に赤坂の町並と勝山が望める。
     
笠縫提(輪中堤防<笠縫町・笠木町・河間(がま)町>
岐大バイパスの真横に笠縫提から下りる階段が設置されている。
 階段の左手に鎌倉街道の石碑がある。 
  子守神社<笠縫町>
由緒等は不明であが、鳥居奥に阿仏尼の歌碑がある。
「笠縫の里碑」の説明版にある歌(上記)を石に刻んだものである。 
受円寺へは、鳥居から南の境内入口に戻り、小さな用水沿いに東に
進むと直ぐである。 
     
受円寺<笠縫町> 
弘仁6年(815)伝教太子最澄の創建と伝えれる。織田信長の
焼き打ちにあっているが、右手に創建当時の表門のみが残って
いる。 
写真は南側通用口に設置された鎌倉街道の石碑が見える。
笠縫の里へは、受円寺角を東進すると自然に交差点に到る。
 
  笠縫の里碑<宿地町>
県道大垣揖斐川線の宿地交差点東北角に設置されている。
岐大バイパス河間(がま)交差点から南進、最初の交差点です。 以前
は歩道橋があった記憶があるが、道路が拡張され歩道橋もなく、特徴
のない交差点である。

<十六夜日記>美濃路ー藤川より洲俣川まで(2)
 関よりかきくらしつる雨、時雨にすぎて降りくらせば、道もいと
悪(あ)しくて、心より外に笠縫の駅(うまや)という所に とどまる。

   <旅人は蓑(みの)打ち払ひ
     夕暮れの雨に宿かる笠縫の里>
    
<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 関の所からひどくなった雨が、時雨という以上に降り続くので、道も
大変悪くて、仕方なく笠縫の駅(うまや)という所に宿をとる。
 <旅人は蓑にたまったしずくを払って、夕暮れの雨の中で宿を
  求める。 ちょうど所の名も笠縫の里だ> 
    いz 
宿地稲荷神社<宿地町>
由緒不詳
  八島(やじま)八幡神社<八島町>
源頼朝の家人・八島冠者時清が住んでいたことで地名になった。  
     
八島から宿地の街道遺構 
荻神社西の水門川に沿って北上し水郷街道林町8交差点から
西に細い市道を進む。 北小学校から細い路地を水門川近くに
進むと鳥居が見える。
八島から笠縫まで、車がすれ違いできない市道あるが、路地は
更に狭く、車では探索は不可能である。 
  (おぎ)神社 <林町8丁目>
岐阜県神社庁のHPでは、往古境内に大木の柳があり名木明神と
旧社名の説明あり。 荻についての説明はなく不明である。 西行
法師は、この柳の下から岐阜山を見て岐阜富士の歌を詠んだことに
因んで「富士の宮」の別名がある。
  
 神ほのぼのと目路もかすみて青柳の
     枝にかかれるふしの白雪    西行法師
               
     
日吉神社<林町3>
境内に沿革が表示されており、寛政時代に当地開拓者 林景顕の
子孫が阿弥陀寺(現顕性寺)の鎮守として勧請する。
  顕性寺から見た鎌倉街道<林町3>
鎌倉街道は日吉神社から東進(右)する。そして、水郷街道東の
小寺理容南から三塚町に向かう。 
     
大禰宜塚<三塚町>
林町1と2の間にある高架下の交差点から東に二本進んだ南の
路地にある。  参考書にある位置ではなく、mameya東の路地
奥にあった。  由来によると某氏の従者蝟原綱木の墓とある。 
参考資料の「平安鎌倉古道」によると、地元の人は「みちづか」
と呼称していると解説されており、実際、探した時に、「みち
づか」と聞いて教えていただいた。
  今宿(宝光寺北)から見た鎌倉街道の道筋
三塚町から東海道本線(前方)下の道を使い、この交差点近くに
でる。 ここから揖斐川までは鎌倉街道と美濃路は、ほぼ同じ
遺構と考えられている。 美濃路は右折(南)鎌倉街道は東進し、
長橋、揖斐川と進む。
   
     
寶光寺<三塚町>
白い建物の高橋接骨院前の三差路の一角に位置する。
日蓮宗の寺院。当院の東側から今宿町である。
  
  犬坊丸塚<三塚町・宝光寺本堂の真裏>
頼朝富士の裾野の巻狩りのさい、頼朝寵臣工藤祐経(すけつね)
が曽我兄弟に仇討された。 更に曽我兄弟は頼朝の館に押し入る
が兄は討ち取られ、弟は取り押さえられた。 翌日、頼朝の面前で
取り調べが行われ、仇討までの心境が述べられ、頼朝は助命を
考えたが、討たれた工藤祐経の嫡子犬坊丸が突如として斬りかかり
仇討本懐を遂げた。この塚は、犬坊丸の墓という。
曽我物語
鎌倉時代初期におきた曽我兄弟の仇討事件。 赤穂浪士の討ち
入り、鍵屋の辻の決闘の三大仇討の一つとされる。 
     
小野(この)の長橋<小野3・4丁目>
揖斐川の西方約1kmの位置にあたる。揖斐川は亨禄3年(1530)
の大洪水により現在の杭瀬川流域筋から今の位置に移動したと
いう。 当時は、呂久川(古い揖斐川の分流)が流れており、氾濫
原で湿地帯をなしており、沢を渡った地であるとされる。 長橋の
長さは4,5百mであったと伝えられる。

<十六夜日記>
美濃路ー藤川より洲俣川まで(3)
 十九日 又こゝを出でて行く。 夜もすがら降りつる雨に、
平野
(ひらの)とかやといふ程、道いとゞわろくて人通(かよ)
べくもあらねば、水田
(みづた)の面(つら)をぞさながら渡り行く。
明くるまに、雨は降らずなりぬ。

<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 十九日、またここを出て、平野とかいう辺りは、道が特別に悪くて
人が通れる状態ではない。 まるで水田の面をそのまま渡っていく
ようだ。  しかし明けてくるにつれ、雨は降らなくなった。
  佐渡(さわたり)常夜灯<東町>
説明版によると嘉永七年(1854)に揖斐川渡川の航路標識、航行
安全、伊勢両宮献灯のために設置された。 鎌倉街道とは無縁で
あるが、当時の道筋という。 揖斐川対岸は、結神社(安八町西結)で
ある。 

富士紀行
 
 「なか橋と申す所を通侍るに、
      あたりの田のもも遠く見わたされて」 



注 「こゝを出(い)でて」は笠縫の宿を指す。
注 参考とした中世日記紀行文(新日本古典文学大系51)では、
  平野=安八郡神戸町にあったと いう平野庄としているが、笠縫
  宿の北部に位置し、街道筋としては極めて異形である。
  私見では、平らな野つまり当小野と推定したい。 



 大垣市墨俣町、安八町・羽島市笠松町内の鎌倉街道推定図
 
紀行文の笠縫宿
大垣市東町で揖斐川(亨禄三年(1530)大洪水により誕生。 以前は中小河川)を渡った鎌倉古道は、旧地の結神社付近から犀川の河川提を
東進し、東結の一里塚から美濃路と別れ、安八町と墨俣の境界線に沿った形で南進、大垣桜高校西、不破神社から犀川、長良川を渡る。
不破神社の地名は「上宿」であり、近世美濃路の墨俣宿は、上流約750mにある。
阿仏尼が東下りした時に見た結神社は、現在の揖斐川河川敷(覚成寺西付近)にあったが、明治36年(1903)4月、揖斐川改修工事のため
現在地に移転されている。
犀川、長良川の西岸は墨俣宿があり、長良川と木曽川の元本流である境川が合流しており、鎌倉街道の最大の難所であったと思われ、長良
川・境川を渡った後は、境川河川提(足近輪中提)を東進し、西方寺前に堤防を降り、ほぼ直線で木曽川まで進むことになる。 当時の木曽川は、
黒田川とか及川と呼ばれ、中規模な川だったと推定され、ここでの記録は少ない。
十六夜日記で阿仏尼は、結神社に訴訟の勝利を祈願し、墨俣で舟橋(正木葛で安定させた舟を連結した橋)を渡りながら、浮舟と現世を仮の
世の行き来と比喩し、はかなさを表している。 この地区の東関紀行の記録はない。
     
(むすぶ)大明神<安八町西結>
照手姫が小栗判官との再会を祈念し、悲願成就となったときに
姫の護持仏である黄金の十一面観音を奉納したと伝承される。
そのお堂である。 町屋観音は結神社の境内あったがに河川
改修のため現在の場所に移設されたという。 また、この神社
には織田信長が願掛したとも伝えられている。

<十六夜日記>
美濃路ー藤川より洲俣川まで(4)
 昼つかた、過ぎ行く道に目に立つ社
(やしろ)あり。 
人に問へば、「結
(むす)ぶの神とぞ聞ゆる」と言えば、
   <守れただ契り結ぶの神ならば
           とけぬ恨に我まよはさで>

<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 昼頃通って行く道に特に目立った社がある。 人に尋ねると
 「結ぶの神というのだそうです」と言うので、
<どうぞお守り下さい。 縁を結ぶという名の神様ならば、解ける
 ことのない恨みに私を迷わせて不幸な結果を招かないように>
  まちあい公園安八町西結
照手姫が小栗判官との再会を結神社に祈願し、守本尊の黄金仏を
「結神社」に納めよとお告げがあり、姫は従い小栗判官との再会が
叶う。 
姫が寄進した一寸八分の黄金仏祀る町屋観音を中心に公園整備
されている。

 
     
金剛山覚成寺<安八町西結>
結神社の南約5百mにあり、西岸の大垣市東町が対岸にある。
この寺の西の河川敷に元結神社地があったと思われる。 
  浄土宗正明寺(しょうめょうじ)<安八町東結>
慶長16年、岡田伊勢守善同が安土から当地に移したという。

     
津島神社<安八町東結>
平安時代、源頼光が美濃国司として赴任し、牛頭天王を祀った
のが始まり。 建久元年(1190)源頼朝が京都に向かう際、この
神社の前で馬が進まなくなったので「駒止の社」という。
家臣に訳を調べさせたところ、ご先祖ゆかりのお社であることが
わかり、丁重に参拝し、社殿を寄進したという。
  八幡神社<大垣市墨俣町二ッ木>
正明寺を出て、直ぐに右に折れ、三差路を左折すると約4百m先
に八幡社の赤い鳥居を見え、目印に進むことが容易である。
     
七墓の道標<大垣市墨俣二ッ木>
八幡神社から東南に進み、約2百mで5差路にでる。
この交差点手前に、七墓(ななはか)信仰の人たちが建てた背の
高い道標と右側に自然石の道標がある。
七墓信仰とは羽島市竹鼻周辺で流行した和賛や念仏を唱えて、
朝に七宮、夕方に七墓を巡る民俗宗教。 廻って得た収入は
道標の建立や道路の改修等に費やされたという。
・・・探訪・鎌倉街道より 
  墨俣町上宿の鎌倉街道<大垣市墨俣町上宿>
七墓の道標を南下し、旧国道21号から大垣桜高校、そして長良
川の渡川場所であり宿のあった現在の上宿に向かうが、宅地化
等により遺構を進むことは不可能であるので、桜高校南にある
コンビニから東に入り、道なりに東南に進むと上宿地区に到り、
現代の道案内に出会う。
     
水屋<大垣市墨俣町上宿>
鎌倉街道沿いにある水屋。大垣市景観資産の指定を受けている
奥田家水屋。 大正10年頃建築された建物で、墨俣地区に残る
唯一の水屋という。
地元の方の話では、石垣の積み方が反り返り、昔の砦の機能が
推測できるという。 また、西濃地区では洪水の備えとして、河川
洪水の程度を三段階に分け、予想浸水量に応じた避難行動がで
きるという。 その最終段階が水屋に供えられた避難用舟の活用
という。
  不破神社<大垣市墨俣町上宿>
創建年紀不詳。 元隼人神社と称せしが、後に不破神社と改称す。
宇治拾遺物語に、「壬申の乱のおり大海人皇子が墨俣の渡しで
難を逃れたもう」と記載されているという。 壬申の乱(672)の前、
大海人皇子は吉野を出て洲股で川を渡ろうとしても舟はなく、追っ手
の大友皇子の軍に見つかる恐れもあり困っておられた時、川で洗濯
をしていた女の機転で、大きな「たらい」に身を隠し、危うく難を逃れた
ばかりか、兵を集めることができ、不破道より近江に入り、大友皇子を
討ち亡ぼし、飛鳥浄御原宮で天武天皇に即位した。 
地元では、
不破大明神はこの女を祀ったものとされる。
     
真宗大谷派西来寺(さいらいじ)<大垣市墨俣町上宿>
元は天台宗であったが、中興の了念が教如に帰依し、真宗寺院
となった。


  源平墨俣川古戦場跡と義円の墓<大垣市墨俣町上宿>
墨俣町上宿は長良川西岸にあり墨俣宿であった。 養和元年
(1181)2月、平清盛病死により東国源氏は勢いを得て京に攻め
上る。 これを迎え討つため平氏は平重衡を総大将に7千騎が墨俣
川右岸(西側)に陣取る。 一方、源氏の将行家は千余騎を率いて
左岸の羽島側(小熊)に着陣する。
頼朝は応援のため弟義円をつけ、西上させたが合流せず二町隔てて
軍を整えた。 義円は行家に先陣されては兄頼朝に合わす顔がない
と考え、無謀にも小勢で夜陰にまぎれて墨俣川を渡ったが、平盛綱
に討ち取られた。 二十五歳であったという。
これに遅れまいと行家も手勢を率いて川を渡り平家軍に攻め入った
が、たちまち大軍に包囲され大敗し、更に下津、熱田、矢作へと敗退
した。 墨俣川の合戦で源氏軍は、討死、水死する者690余人という。

義円の墓が義円公園の北西の畑の中にある。
     
墨俣宿近くの犀川(及び長良川)<大垣市墨俣町上宿>
不破神社前からの街道は、そのまま揖斐川(犀川)に出る。 中世、
この付近は木曽川と長良川が合流しており、大きな河川であった。

<十六夜日記>美濃路ー藤川より洲俣川まで(5)
洲俣
(すのまた)とかやいふ河には、舟を並べて、正木(まさき)
綱にやあらむ、かけとゞめたる浮橋
(うきはし)あり。 いとあやふ
けれど渡る。 この河、堤
(つつみ)の方はいと深くて、片方
(かたがた)
は浅ければ
 <片淵(かたぶち)の深き心はありながら
        人目つつみのさぞせかるらむ>
 <仮
(かり)の世の行き来と見るもはかなしや
        身
(み)の浮舟を浮橋にして>
 
とも思ひ続けける。

<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
洲俣とかいう河には、舟を並べて、正木の綱というもので繋ぎ合わ
せた浮橋がある。 大変危ういが何とか渡る。 この河は堤の方は
大層深くて、片側は浅いので、
 <片側だけ深い淵が堤に堰き止められている様子は、深い恋心を
  抱きながら人目を恐れて包み隠している。 苦しい恋のようで同情
  されるよ>
 <仮のこの世の行き来の道と思って見れば、何とまあはかない
  ことよ。 頼りない我が身のような浮舟を繋いで。浮橋にとする
  なんて>
とも思い続けたことだった。
  小熊山一乗寺<羽島市西小熊>
弘仁(こうにん)十年(819)空海の開基で真言宗の寺院として境内18
町余歩の広い境内に七堂伽藍を建設し、大師自ら橋杭で延命地蔵
を彫られ、七間四方の堂に安置し「朽ち残る真砂の下の橋はしら又
道変えて人渡すなり」と歌を歌われた 当時は寺中に十二坊があり、
尊信の中心になっていた。
源頼朝は、この菩薩を厚く信仰し、文治3年(1187)武運の祈願を
したところ勝利したため本堂を再建したが、後に兵火にあい、焼失した。
このことを霊夢で知った頼朝は再び伽藍を建設し、後の世の手当てと
して千両目の団金に
「朝日さす夕日かがやく木の元に黄金千両後の世のたから」
一首の和歌を添えて付与したという。
また、養和元年(1181)3月、源平が戦った墨俣川の合戦では、
墨俣から小熊(一乗時付近)が主戦場となり多くの討
死、水死者が
でた。  この戦死者を供養するため誓浄寺と本養寺の二つの寺が
建立され多くの五輪墓石が造られたが天正14年(1586)の大洪水
でこの二つの寺が流され、五輪墓石も散逸してしまった。
境川河川改修工事の際に川底から多くの五輪墓石が出土した
ため、その一部が一乗時に無縁墓石として安置供養されている。
      
親鸞上人御旧跡碑<羽島市小熊町西小熊>
日置江50石交差点の連続する大江川橋及び境橋を通り、左手
の「仕出しよ志のや」を左(東)に折れると境川堤防(足近輪中
堤防)に出る。 この道を東進し、境川に架かる橋の道路を二本
通過し、しばらくすると下に降りる道との分岐点がある。 道の間
に碑があり、その下にお地蔵様が二体ある。
春は桜と菜の花が咲き誇る穴場である。<03年撮影>
  阿遅加(あじか)神社<羽島市足近町>
親鸞上人御旧跡碑から直ぐに西方寺の屋根が見える堤防道路の
下に神社がある。
「延喜式神名帳」記載の従三位足近天神とある。 旧号を八剣宮と
称し、足近郷の総社であった。
     
真宗大谷派西方寺(さいほうじ) <羽島市足近町>
推古天皇十年(602)4月、供奉された善光寺如来が始まり。
同二十年(612)、聖徳太子が紀山背大兄王(やましろのおおえのおう)
安産を願って七堂伽藍を建立し、太子自彫の阿弥陀如来を安置、
三蔵院太子寺とした。
法相宗、天台宗を経て、嘉禎元年(1235)親鸞上人関東から帰洛の
途次、当寺に留錫、佑善(渋谷金王丸の三男)聞法随喜のあまり
浄土宗に改めた。
 
西方寺から白山社への道<羽島市足近町>
西方寺前の道を東進し、県道岐阜羽島線を横断した直後の田の
中の道である。 前方の赤い電車は名鉄竹鼻線を走る電車で
右手に「南宿駅」がある。 正面に踏切があり、踏切を渡ると道が
なくなり、少し左に移動すると民家前に先方の白山社に向う古道が
ある。 正面の杜が白山社である。
     
白山神社<羽島市足近町北宿>
創建年紀不詳であるが、徳川中期の頃村内氏子の尊崇に
より鎮守の社として鎮祭される。
  白山神社周囲の街道<羽島市足近町北宿>
県道岐阜羽島線から白山神社に到達した西側の小道が鎌倉街道と
いわれている。
     
大恵寺<羽島市足近町北宿>
臨済宗妙心寺派寺院で文永元年(1264)の開山。 美濃城主斉藤
道三の手厚い庇護を受けた。
  旧足近輪中提<羽島市足近町北宿>
大恵寺の右手(東)の道路は、昔の足近輪中提の跡という。
旧堤防跡の道路は、左に曲がっており、後方(南)では、小さな曲線
が連続している。
     
神明社<笠松町門間>
創始年月日は不詳なれども、徳川中期頃、天祖天照大神の
御神徳を崇敬して郷土鎮護の神として奉鎮せる。
鳥居右手の玉垣の内側にある石板に「かって鎌倉街道の経路」で
あったことが説明されている。

  (ちご)神社<笠松町北及>
岐阜県神社庁のホームページでは、創祀、由縁不詳とある。 
祭神は天岩戸別命(あめのいわとわけのみこと)で、参考資料では水の神、
堤防鎮護の神として祀られたであろうとしている。 鳥居前に笠松町
が設置した鎌倉街道の案内。 簡単な説明であるが、探す苦労を
した分だけ見つけた喜びは大きい。 
     
岐阜県東端の地<羽島市正木町南及>
児神社付近から鎌倉街道の東端とみられるアスファルトプラントを
望む。 現在地が笠松町北及で、右側が羽島市正木町南及である。
何故か古道は、行政境界、字界を伝うが、当時の河川提や畔道が
利用されたためと思う。
前面に堤防が見え、この付近から木曽川を渡河したと言われる。
  木曽川の風景<岐阜県・愛知県> 
羽島市と一宮市木曽川町を連絡する尾濃(びのう)大橋から見た木曽
川。 正面が岐南町、岐阜市内で左が羽島市、右が一宮市である。 
左の緑は、川の中間にある島(中州)である。 古来から木曽川は
土砂を多く流しており、濃尾平野を形成してきた。 中世、中小河川が
分流し、中州を繋いで街道があったと思われる。 天正14年(1586)
6月24日の未曾有の大洪水により木曾八流の一つであった黒田川
(及川)が本流と言われた境川の流れを合流し、現在の大河木曽川の
規模になったと言われる。