美 濃 路(みのじ)

江戸時代、慶長6年(1601年)徳川家康が東海道に伝馬制をひいたのを皮切りに東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の5街道が
主に公用のために整備された。 それと同時に一般の旅人や物資の輸送のための支街道があり脇往還とも称された。 
美濃路(美濃街道)は、東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ中山道の脇往還である。 宮から名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の
7宿を経て垂井に至る全長14里24町余(約58km)、その間に木曽川、境川、長良川、揖斐川の4箇所に渡し場が設けられていたという。
 美濃路は東海道の難所「鈴鹿峠」と「七里の渡し」(当時、約4時間を要した)を避けることができるので利用者も多く、江戸時代初期の将軍の
上洛や朝鮮通信使始め西国大名などの通行にも利用された重要な街道であった
参考資料
      :
美濃路NOW(新川みのじ会)
      :
脇往還〜美濃路・佐屋路(一宮市尾西歴史民俗資料館特別展図録bU3
 
宮の宿
宮の渡し公園
昔の湊、今は公園として整備されている。
宮は桑名へ渡る東海道一の渡船場として賑わった。 天保年間
の記録によると、渡船数75艘で小渡船は42艘とあり、大きな船
では50数人乗りもあった。
宮の常夜灯
伝馬町の道標 熱田湊上流の堀川
埋め立てが進み、遠くなった海ですが、カモメを見ることができる
被弾のオブジェ
第二次世界大戦で被弾した堀川の護岸です。この付近は先の
戦争中、軍需工場があった関係で終戦を目前にした1945年6月
9日、8分間の爆撃で4000人以上の犠牲者がでた。
この空襲はB29爆撃機42機が軍需工場であった愛知時計など
を目標に行われた。 初めて実戦に使用された2トン爆弾など
265トンが8分間に投下された。 一旦発令された空襲警報が
解除されたさめ、防空壕などから工場に戻っていた工員や勤労
学徒など2068人が死亡する惨事となった。 2002年の6月9日、
同空襲の体験者らが、この場所で集い、亡くなった仲間たちを
追悼しました。(6月10日毎日新聞)
わずか50数年前の日本の話です。今の平和な日本からは想像
できません。 この護岸は、千年プロムナードとして整備された
堀川西岸に展示されている
熱田神宮本殿
伊勢神宮に次ぐ由緒ある大宮で、三種の神器の一つである
草薙(くさなぎ)の剣をまつり、景行天皇43年(113)創建と伝
えられる








信長塀
織田信長が桶狭間合戦での勝利を祈念し、寄進した塀である。
土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねている。 三十三間堂
の太閤塀、西宮神社の大練塀と並ぶ日本三大塀といわれている
二十五丁橋
尾張名所図絵や名古屋甚句で名高く、板石が25枚並んでいること
から二十五丁橋と云われ、西行法師もここで休んだといわれている。
名古屋では最古の石橋という。  ・・・案内板より

 
名古屋宿
名古屋宿は「宿」と称されていたが、本陣始め旅籠もない特殊な形態をとり、主に「継ぎ立ての宿」としての機能しかなかったという。 問屋場は伝馬町
筋本町通の西南角におかれ、伝馬百匹が定められたという。
参考
問屋場(とんやば):公用人馬の継立を行う役所本陣、脇本陣:公用者や参勤交代一行の宿泊や休憩を担当した施設
名古屋城下の美濃路入り口
国道19号線古渡交差点北側です。江戸時代橘町大木戸が設
置されていた場所といわれている。 美濃路は正面右手の道
路で大須を経由し、伝馬町通本町まで直進している。 美濃路
は正面右手の道路で大須を経由し、伝馬町通本町まで直進し
ている
真宗大谷派名古屋別院(東別院
江戸時代の創建当時は名古屋城と肩を並べる建物であったが、
昭和20年の空襲で焼失し、再建された建物である。


古渡城址(東本願寺別院内)
元織田信長の居城であった古渡城の跡に元禄3年(1690)尾
張2代藩主光友から寄進され、建設された。

栄国寺(浄土宗西山派)
江戸時代初期の千本松原と称された処刑場の慰霊のために建立
された寺院です。 切支丹信者が処刑された場所でもあり、切支丹
遺跡資料館が設置されている

大須観音(真言宗宝生院)
開山は能信上人であり、元弘3年(1333)後醍醐天皇の勅願
により中島郡大須荘北野村(羽島市)に建立された。 その後、
水難を避けるため、慶長17年(1612)徳川家康の命により現
在地に移転させたという

毎月18,28日には境内で骨董市が開かれている。
大正琴発祥の地
大正琴は明治45年、大須門前前の住民森田五郎が開発し、優
雅な音色と手軽さで大正時代に大流行した。 昭和60年、森田氏
を偲び大須観音境内に「大正琴発祥の地」石碑が建立され、9月
9日に全国かの愛好者が集まり奉納演奏が行われる。

名古屋宿札の辻跡(中区錦2丁目4)
現在の伝馬町通本町交差点から左折する美濃路。 交差点
東南角に高札場、問屋場があったという。 正面はJRツイン
ビルです。 場所は長者町通りの1本東である
伝馬会所 札の辻
正保元年(1644)高札場が交差点東南角に設置された。 写真
は、交差点北西に設置されている尾張名所図会の金属製案内板
です。 高札場は中央と思われる。

堀川沿いの美濃路
伝馬橋を北に折れ、堀川西を北上する美濃路の右側の商家の
右(東)には、堀川があり、家屋の内部は荷揚げ機能があり、
蔵の様子が合間みえる。 一筋西には防火用に四間に拡張
された四間道(しけみち)がある
北から見た名古屋城
慶長17年(1612)、徳川家康の子義直の居城として築城。 戦
災で焼失したが、昭和34年、大天守閣と小天守閣を再建。